ノムさんと話したことはほとんどないが、勉強したことはたくさんある
野村氏が亡くなった2020年のシーズンオフ、本誌・週刊ポストの取材に対して岡田氏は、阪神監督だった当時の野村氏との関係についてこう話していた。
「ほんま、おかしな関係やったで。一軍監督と二軍監督の関係やいうのに、野村さんとはほとんど直接話したことがなかったんや。3年間、野村さんは1回も(阪神の二軍球場がある)鳴尾浜には顔を出さんかったんちゃうかな。二軍から選手を上げる時も、ヘッドコーチと相談しとったかな。そやから会うのは、シーズンの開幕時、オールスター休みと納会の時ぐらいやったと思う」
そんな関係のなかで、一番印象に残っている野村氏の言葉について、こう振り返った。
「野村さんが監督に就任されて、最初のスタッフの顔合わせの時に言われたんが、“二軍の若い選手は短所を直せ”ということやった。二軍選手は長所を伸ばしてやらなアカンと考えとったから、このオッサンえらいこというなと思ったのを覚えている。
野村さんの持論は“長所は放っておいても伸びるもの。やるべきことは短所の強化”ということらしいが、短所は直らんよ。特に今の子供たちは長所を見つけて伸ばしてやらないとと思う。監督の指示やから無視はできんかったが、これは難しかった」
当時、野村氏はチームの状態を見て「平均的な選手が多いな」とボヤいていたという。その結果、ドラフトでも赤星憲広に代表されるように一芸に秀でている選手を指名するようになった。岡田氏は「長所がはっきりしているタイプの選手を指名するのは矛盾していると思ったけど、阪神の選手を見て野村さんも考えが変わったんちゃうかな」と話していた。
「野村さんらしいというか、奇妙な関係の3年間やった。ただ、2004年に阪神の監督に就任した時、データを重要していた野村さんのID野球はおおいに参考にさせてもろた。すでに野村さんの考えがコーチやスコアラーにも浸透していたからな。あと参考にしたのは投手を中心にした『守りの野球』やな。南海時代、野村さんは江夏豊さんをクローザーにした。オレは7回以降が重要やと思っていたから、7回、8回、9回を3人の投手に任せることにした。それがJFKや。二軍監督時代に藤川球児が“もう先発ができない”と話していたので、その頃から温めていた構想やった。
野村さんの野球を勉強させてもろうて、この起用法を確立させたということになる。現役時代から、7回になるとラッキーセブンやいうて攻撃陣が活気づくのであれば、守備側が7回を抑えたらええんちゃうかという発想をしとった。野村さんからオレに対して多くの言葉はなかったが、野村さんのこと見ていて、オレも野球への探求心が身についたんちゃうかな」
15年ぶりに阪神の指揮を執る岡田氏。もともと今のチームは安定した投手陣と日本人スラッガーを揃え、リーグ屈指の戦力といわれていた。前体制から受け継ぐ部分と、変革させる部分がどのように組み合わせられるのか。岡田氏の「探究心」がチームに大きな変革をもたらすことになりそうだ。