星野仙一一覧

【星野仙一】に関するニュースを集めたページです。

阪神次期監督候補に落合博満氏?(時事通信フォト)
「犬猿の仲」のはずが? 落合博満氏が星野仙一氏を「仙さん」と語ったことが話題に
 元中日監督の落合博満氏が、自身のYouTubeチャンネル「落合博満のオレ流チャンネル」で現役時代に関わった7人の監督を振り返る際、中日時代の星野仙一氏について「仙さん」と言及したことが野球ファンの間で話題となっている。一体何故か。スポーツ紙記者が語る。「2人は長年、犬猿の仲、不仲など言われていました。星野さんの中日監督時代は血気盛んで選手に鉄拳制裁を振るうこともあり、選手だった落合さんはその方針を良く思っていなかったと言われています。ベンチで星野さんの近くに座ることで、他の選手を守っていたとも。星野さんは落合さんを認めていたし、気は使っていました。ただ特別扱いだけはしなかった。結果が出なければカツを入れていましたしね。3度の三冠王とアンタッチャブルな存在だった落合さんを叱るのは星野さんしかいない。そこは新鮮でしたね。 でも、両者にわだかまりはないと思いますよ。星野さんが楽天の監督で、落合さんが中日の監督時代に談笑する姿が見られましたし。2人にしか理解できない絆があると思います」 落合氏は5月11日に更新された動画で、現役時代に仕えた監督について振り返っている。ロッテで山内一弘氏、山本一義氏、稲尾和久氏、中日で星野氏、高木守道氏、巨人で長嶋茂雄氏、日本ハムで上田利治氏と4球団・計7人の監督の下でプレー。印象に残っている監督に質問が及ぶと、「やっぱり稲尾さんじゃないのかな。野球を自由にやらせてくれたしね」と感謝の念を口にした。 そして、「人それぞれ役割分担っていうのはあってね、山内さんにはバッティングのこと教わった。それが理解するまでには5年くらいかかってるけどね。山本一義さんは熱い人だったけどね。星野さんは……あの通りの人だよ」と笑った後に、「高木さんはムッツリであまりものを喋らない」と振り返ると再び監督の数を確認。「山内さん、山本一義さん、稲尾さん、仙さん…」と名前を挙げた。動画のコメント欄では、〈仙さんって呼んだ瞬間ものすごく嬉しかった〉〈まさか落合さんの口から仙さんと言われるとは。嬉しいですね〉〈星野さんの事を『仙さん』って言ったのは、何だか感慨深いな〉などの書き込みが見られた。 星野氏は中日、阪神、楽天で計17年間監督を務め、すべての球団をリーグ優勝に導いている。一方、落合氏は中日で8年間を務めて全てのシーズンでAクラス入りし、4度のリーグ優勝、1度の日本一を達成した。星野氏は選手の好プレーにガッツポーズ、ミスには怒りを露わにするなど闘志を前面に出していたが、落合監督は「選手が顔色を窺うようになる」と試合中は喜怒哀楽の感情を出さず、試合中のミスに対しても「使った監督が悪い」と対照的だった。 星野氏、落合氏を取材したスポーツ紙デスクはこう振り返る。「チームを構築する手法は違いますが、共通するのは勝利への執念です。2人は大の負けず嫌い。落合さんは、選手との関係が険悪だと言われていましたが、試合になれば“勝利”という同じ目標に向けて戦う姿勢はブレなかった。そこはプロフェツショナルでしたね。そして、星野さんも、落合さんも選手たちに慕われていた。取材していると人間味を凄く感じるんです。星野さんは選手の奥さん、裏方にプレゼントしていました。グラウンド上では厳しいイメージがあると思いますが、ユニフォームを脱ぐと優しい。クールなイメージの落合さんも選手たちとの関係性は近かった。遠征先で宿泊するホテルの食事会場で、『監督に野球の話を聞きたいんです』と多くの選手が同じ卓でご飯を食べていました。落合さんは何時間も楽しそうに現役時代の話を語ってくれたそうです」 2人は名将として、現在も語り継がれている。犬猿の仲、不仲で片付けられるほど薄っぺらい関係ではないのだろう。
2022.05.17 16:00
NEWSポストセブン
中日の元祖・守護神は板東英二(時事通信フォト)
牛島和彦、郭源治、宣銅烈、岩瀬仁紀… 中日リリーフ投手の系譜を紐解く
 昨年、セ・リーグ3位になり8年ぶりのAクラス入を果たした中日ドラゴンズ。10年ぶりの優勝を狙う今年は、先発には沢村賞の大野雄大、中継ぎには昨年の最優秀中継ぎ投手である祖父江大輔、福敬登、抑えには昨年リーグ2位の21セーブを挙げたマルティネスが座り、投手陣各ポジションの柱は2連覇中の巨人に決して劣っていない。 中日の球団史を紐解くと、リリーフ陣の充実が目立つ。セーブという記録が新設された1974年、星野仙一が初代のセーブ王に。チームは巨人のV10を阻止し、20年ぶりの優勝を果たした。翌年からは鈴木孝政が抑えを務め、セーブ王を獲得。『最優秀救援投手』に名称の変わった1976年、1977年も鈴木が受賞。4年連続で中日の抑え投手が賞に輝いた。その後も牛島和彦、郭源治、宣銅烈、岩瀬仁紀などリーグを代表するクローザーを生んでいる。プロ野球担当記者が話す。「中日のリリーフ投手の起源を辿ると、近藤貞雄という指導者の存在が大きい。1リーグ時代から巨人や中日で主に投手として活躍し、1954年に引退して翌年から中日の投手コーチになった近藤は1960年代に『投手分業制』を提唱した。当時は先発投手が翌日リリーフとして連投することも珍しくない時代で、中日も同じような起用法でした。1961年、新人の権藤博は69試合、32完投、35勝、翌年は61試合、23完投、30勝とフル回転。結果、無理が祟ったのか後に肩を壊し、権藤の投手生命は短くなってしまった。投手起用の権限は監督にあったようですが、近藤はその反省を生かし、日本でも初期にリリーフ投手を確立させました」(以下同) 日本初の抑えは“8時半の男”こと宮田征典(巨人)と伝えられている。セーブという記録のない当時、救援登板して試合終了まで投げた場合に記される『交代完了』がクローザーの指標になる。川上哲治監督3年目の1963年、宮田は47試合でリーグ最多の25完了。V9の始まった翌々年には69試合で46完了を挙げ、20勝のうち19勝をリリーフで稼いだ。「この時代、中日では板東英二が守護神を務めました。完了数は1964年から20、29、40、35と4年連続で20以上を記録し、1967年からは2年連続でリーグ最多です。板東は高校時代に甲子園で投げ過ぎたこともあり、入団した頃から右ひじを痛めていた。近藤コーチは『先発完投は無理だが、リリーフなら使える』と考え、目立ちたがり屋の性格も見抜いた上で、抑えに抜擢しました。中日の元祖・守護神は板東と言っていいでしょう」 当時は先発のリリーフ兼任も多かったが、板東はリーグ最多完了をマークした2年とも先発は1試合ずつだった。近藤はロッテの投手コーチを経て、1972年から再び中日に舞い戻る。そして、星野や鈴木の適性を見定めて、抑えとして起用した。「近藤は度胸の良さやスピードボール、決め球を持っていることをクローザーの条件と考えていた。これは、今も変わらない要素です。また、当時から投手の球数を数えて、交代の指標にしていた。『打たれる前に早めに代える』がモットーで、マウンドで先発投手から強引にボールを奪うため、“もぎりの近藤”というニックネームまで付いたほどです。先発完投が主流の時代に、投手分業制を唱え、投げ過ぎにも警鐘を鳴らしていました。1966年のオフにデトロイト・タイガースの教育リーグに参加して学んだことも大きかったと語っています」 中日は1980年、12年ぶりに最下位に転落。オフに監督として招聘された近藤は高卒2年目の牛島をリリーフに回し、1982年には抑えを任せた。この配置転換が功を奏した同年、中日は巨人を0.5ゲーム差で振り切り、8年ぶりにセ・リーグを制した。 現役時代に近藤に抑えを任された初代セーブ王の星野仙一は1986年オフ、監督になると2年連続3冠王の落合博満をロッテからトレードで獲得。交換要員の1人だった抑えの牛島の穴は、先発で4年連続2桁勝利を挙げていた郭源治が埋めた。「雄叫びを上げる気合いの入った投球を見せる郭は翌年、7勝37セーブの44セーブポイントを挙げ、当時のシーズン記録を更新。優勝の立役者となり、MVPに輝きました。星野監督は自分の現役時代の経験から、郭が抑えに向くタイプと見抜いていたのでしょう。近藤貞雄コーチから始まった伝統を受け継いでいたのです。郭が故障した1990年には、現監督の与田剛が抑えを務め、ルーキーで最優秀救援投手を獲得しています」 星野は第2次政権の1999年には抑えの宣銅烈、中継ぎの落合英二、岩瀬仁紀、正津英志などを使いこなし、チームを11年ぶりの優勝に導いた。2004年、監督に就任した落合博満は入団以来中継ぎの岩瀬を抑えに回し、中継ぎには岡本真也、平井正史、落合英二を揃え、5年ぶりの優勝を果たした。「落合監督は就任時に、鉄拳制裁もあった星野野球からの脱却を図りました。ただ、後ろの投手を重視する姿勢は星野監督と変わらなかった。もちろん、当時は既に分業制が確立しており、特別なことではありませんが、この年の中日の完投は8でリーグ4位。継投策でセ・リーグを制しました。連覇を果たした2010年、2011年には浅尾拓也、岩瀬仁紀という鉄壁のリリーフ陣が他球団に立ちはだかり、浅尾は中継ぎ投手として史上初のMVPに輝いた。伝統的に、中日にはリリーフ投手が育つ土壌がある」 権藤博の故障を真摯に反省し、板東英二の抑えの適性を見抜いた近藤貞雄から始まった中日のリリーフ投手の歴史は、現在まで受け継がれている。
2021.02.11 19:00
NEWSポストセブン
名古屋vs大阪バトルにドアラも困惑?(時事通信フォト)
“名古屋嫌い”の大阪50代男性「星野監督も晩年は芦屋在住」
 愛知県の大村秀章知事が新型コロナの感染拡大をめぐり、「東京、大阪は医療崩壊に陥った」と発言したことから、吉村洋文・大阪府知事とのバトルに発展した問題。 2大都市のトップ同士がいがみあう前代未聞の騒動だったが、そもそも大阪人と名古屋人の“いがみ合い”は今に始まったことではない。 様々な分野で競い合う両者だが、特に争いの象徴と言えるのが「プロ野球」だ。阪神ファンと中日ファンは長く火花を散らしてきた。 大阪府出身の芥川賞作家・高橋三千綱氏が語る。「甲子園を埋め尽くす阪神ファンは、相手チームの選手がファインプレーすれば拍手しますよ。野球を心から楽しんでいる。ところがナゴヤドームのビジター席に座っていると、中日ファンからボロクソにヤジられる。相手チームの選手がファインプレーでもしようものなら、『このたわけぇ!』ですから」 大阪在住の50代男性もこう語る。「阪神ファンはタイガースが最下位になっても、翌年のキャンプが始まったら『今年こそ』と優勝を疑わへん。 ところが中日は、“ミスタードラゴンズ”と呼ばれた星野仙一もちょっと成績不振になったら阪神に手放した。星野は晩年、名古屋の自宅を売却して芦屋に居を構えて、楽天の監督時代も芦屋に住んどったで」 対するのは、愛知県蒲郡市出身の漫画家・高信太郎氏だ。「よく阪神ファンは熱狂的だと言われますが、中日ファンの熱量はそれ以上。尾張も三河も関係なく、愛知県人が一つになって応援する。 自分たちはジャイアンツに次ぐ2番だとの意識が強く、巨人には負けてもいいけど、阪神にだけは負けたくない。だからナゴヤドームの阪神戦には、巨人戦以上に中日ファンが集まります」※週刊ポスト2020年6月26日号
2020.06.17 16:00
週刊ポスト
今シーズン中に球団歴代1位の勝利数に到達しそうな巨人・原辰徳監督(時事通信フォト)
『ジャイアンツ愛』から18年、巨人・原監督の名将への軌跡
 昨年、5年ぶりのセ・リーグ優勝を果たした巨人。6月19日に開幕する今季プロ野球で通算14年目を迎える原辰徳監督はこれまで1024勝を挙げており、順当に行けばシーズン中に長嶋茂雄監督の1034勝、川上哲治監督の1066勝を抜き、球団歴代1位の勝利数になりそうだ。なぜ、原監督は“勝てる監督”になったのか。野球担当記者が話す。「時代によって、采配スタイルを変えてきたことが大きい。2002年、長嶋監督の後を受けて43歳で就任した時は『ジャイアンツ愛』をキャッチフレーズに、選手を尊重して情に厚い指揮官でした。松井秀喜が全試合4番に座り、二冠王を奪取。前年まで不振に陥っていた桑田真澄も復活して、最優秀防御率を獲得した。原監督が選手を信じ、我慢して起用したことで、斉藤宜之や鈴木尚広など長嶋政権時代には芽が出なかった若手が成長し、チーム全体がのびのびとしていました。毎年のように大型補強をしていた長嶋監督時代と異なり、この年の補強は新外国人のワズディン、クレスポ、中日からFAで前田幸長を獲ったくらいでした」(以下同) 2002年は序盤こそ星野仙一監督1年目の阪神が快走したが、夏場には巨人の独走状態に。2位・ヤクルトに11.0ゲーム差をつけ、原監督が宙に舞った。日本シリーズでもパ・リーグ王者の西武を圧倒し、4勝0敗で日本一に。選手時代の1990年、0勝4敗と叩きのめされた相手に雪辱を果たした。新たな黄金時代の到来かと思われたが、オフには松井がヤンキースに移籍。その一方で、松井と本塁打王を争っていたロベルト・ペタジーニをヤクルトから獲得した。「“脱長嶋野球”で日本一になったのに、他球団の4番を奪ってくるという補強に逆戻りしてしまった。原監督の意思というより、フロントの意向だったのでしょう。ペタジーニの本職である一塁には清原和博がいるため、外野で起用しましたが、開幕戦で本塁への送球を暴投するなど守備の乱れも目立った。この頃の原監督は良くも悪くも頑固で、前半戦は清原が欠場していてもペタジーニを外野で使っていましたし、抑えの河原純一が何度失敗しても9回を任せ続け、チームの調子は上がりませんでした」 この年は3位とAクラスを確保したが、原監督は球団代表との確執も噂され、辞任。後を受け継いだ堀内恒夫監督が3位、5位に終わると、2006年から第2次原政権が始まった。スタートダッシュに成功し、最大貯金14と首位を快走したが、交流戦で失速。6月に8連敗、10連敗、7月に9連敗を喫し、最下位に落ちた時期もあった。なんとか4位に踏みとどまるも、借金14で球団史上初の2年連続Bクラスに終わった。「この年がターニングポイントでしたね。故障者が続出したことで、『巧い選手ではなく、強い選手が欲しい』と言うようになった。時折非凡さを感じさせるプレーをする選手よりも、年間を通して働ける選手を望みました。“強い選手”は計画性や己を律する能力がある、と原監督は考えています。2006年の惨敗をきっかけに、完全な実力至上主義を打ち出し、情に厚いイメージが消えた。このオフから『ジャイアンツ愛』という言葉が、ほとんど聞かれなくなりました」 2007年の春季キャンプで、前年の後半戦に1番として起用した鈴木尚広、チームリーダーとしても期待の二岡智宏がケガで離脱すると、報道陣に〈鈴木? 痛いのかゆいの言って、土俵にも上がっていない。二岡? そんなのいたっけ?〉と突き放した。シーズンに入ると、二岡は139試合に出場し、打率2割9分5厘、20本塁打と主軸として活躍した。しかし、7月の広島戦では、チャンスの場面で代打に小関竜也を送るなど厳しい一面を見せた。「原監督はコーチの頃から二岡に大きな期待を掛けていましたし、レギュラー選手のプライドを重視していた第1次政権では考えられない采配でした。結果的に小関は凡退し、この用兵は当たらなかった。ただ、誰も特別扱いしないという方針を示したことで、チームに緊張感を生んだ。 この年、原監督は1番に高橋由伸を抜擢し、先発に拘っていた上原浩治を抑えに回した。オフにはFAで小笠原道大、トレードで谷佳知を獲得した。彼らがシーズンを通して働いて“強い選手”の模範となり、巨人は5年ぶりの優勝に輝きました。監督の意識改革が、そのままチーム改革につながった。小笠原や谷の補強は数字の面だけでなく、練習への姿勢などでも他の選手への影響を与えていた。指揮官にはそんな狙いもありました」 原監督は2007年から3連覇、2009年にはWBCで指揮を執り、世界一に導いた。落合博満監督の中日に2年間覇権を渡してしまうが、2012年からまた3連覇。2位に終わった2015年限りで退任したが、2019年に復帰するとチームを5年ぶりの優勝に導いた。「プロ野球の歴史を振り返ると、名将と呼ばれた監督たちも在任期間が長くなると、徐々に勝てなくなってくる。原監督のように“第3次政権”となると、過去の成功体験に囚われてしまいがちです。選手の考え方は世代によって変わっていきますし、時代に合わなくなっていくのです。 しかし、原監督は常に自身をブラッシュアップさせ、考え方も戦略も柔軟に変化させている。肉体は衰えますが、思考は何歳になっても変えられると示しています。昨年、丸佳浩や炭谷銀仁朗というFA組は活躍したが、期待された中島宏之や岩隈久志という移籍組、ビヤヌエバやクックといった新外国人は数字を残せなかった。エースの菅野智之も不調に陥る中、原監督が選手を適材適所で起用することで、なんとか優勝できた。第2次政権で山口鉄也や松本哲也などが育ったように、昨年も増田大輝や若林晃弘が伸びました」 今年の巨人はオフに目立った補強もできず、戦力的に頭抜けているわけではない。坂本勇人や大城卓三が開幕から全開というわけにもいかない。先発も、昨年の勝ち頭である山口俊がメジャーに行き、菅野以外で計算できる投手が少ない。苦しい状況の中、原辰徳はどう選手をやり繰りし、巨人監督最多勝利を実現するか。
2020.06.17 16:00
NEWSポストセブン
野田浩司との交換トレードで阪神入りした松永浩美(写真:時事通信フォト)
阪神1990年代の暗黒時代を生んだ「ベテラン補強」の失敗
 1950年、プロ野球が2リーグに分裂してから今年で70周年を迎える。数え切れないほどのドラマが生まれてきた中でも、1985年の阪神タイガースの日本一は未だに語り継がれ、その後の低迷期も含め、多くのファンの記憶に残っている。阪神はなぜ、栄光の日本一から一気に転落していったのか。ベテラン野球担当記者がトレードやFA補強に注目して分析する。(文中敬称略。年齢はその年の満年齢。名前は当時)「1985年の優勝は先頭打者の真弓明信、クリーンアップのランディ・バース、掛布雅之、岡田彰布の破壊力が群を抜いていた。これは衆目の一致するところでしょう。それに加え、ベテランの移籍組も要所で活躍していた。 36歳の弘田澄男は前半戦、2番・センターで主軸につなぐ役割を果たし、日本シリーズでも全戦先発出場した。35歳の長崎啓二は右投手の時のスタメンや代打の切り札で欠かせない存在で、西武との日本シリーズでは第6戦で先制の満塁ホームランを放ち、日本一に貢献しました。同じく35歳の永尾泰憲は左の代打としてシーズン打率3割を超えました」(以下同) 弘田は1984年にロッテから藤倉一雅、長崎は1985年に池内豊との交換トレードで、永尾は1982年に近鉄から金銭トレードで阪神に。30代半ばのベテランが最後の一花を咲かせていた。「1980年代に入ってから、阪神は実績のある選手をトレードで獲得していました。1983年に横浜大洋から野村収が加藤博一との交換で、1984年に南海から山内新一が無償で入団した。2人とも通算100勝以上の投手でしたが、1985年は野村が39歳、山内が38歳と全盛期を過ぎており、1勝ずつに終わりました。ただ、移籍1年目は野村が12勝、山内が7勝と復活しました」 ベテランの獲得は即効性があり、短期間で見れば効果はあった。1985年の日本一で味をしめたのか、阪神は翌年以降も30代の選手をトレードで獲得していく。 1986年、34歳の柏原純一は日本ハムから金銭トレードで移籍し、規定打席未満ながら打率3割1分3厘、17本塁打と相次ぐ故障に泣いた掛布の穴を埋めた。しかし、翌年からは低迷し、在籍3年で現役引退した。そして1987年には、優勝メンバーで26歳と脂の乗った吉竹春樹、23歳の左投手である前田耕司を西武に放出し、33歳の田尾安志を獲った。「1981年から4年連続3割を打っていた田尾は1985年、中日から西武に移籍。パ・リーグの水に合わなかったのか、2年間不振を極めた。それでも、阪神のフロントはセ・リーグに戻れば変わると見込んだのでしょう。しかし、1年目の成績は打率2割2分1厘とさらに落ち込みました。田尾は翌年、3本のサヨナラ本塁打を放ち、規定打席不足ながら3割を打って復活しますが、37歳の1991年限りで引退。吉竹は堅実な守備を売りに黄金期の西武で準レギュラーとして1995年までプレーしました」◆トレードで放出した野田はオリックスで最多勝 1987年は田尾だけでなく、打者も投手も全く調子が上がらず、勝率3割3分1厘で最下位に沈んだ。球団史上初の2年連続最下位に終わった1988年には31歳の金森永時が西武から、30歳の久保康生が近鉄から、1989年には31歳の住友一哉が近鉄から交換トレードで移籍。低迷にあえぐチームの中でそれなりの働きをしたように、この頃のトレード全てが失敗に終わったわけではない。しかし、1990年代に入ると補強の失敗がさらに目立ってくる。「阪神は1989年5位、1990年6位と下位に定着してしまいます。打開策として1991年にダイエーと4対5のトレードをしたが、結果的に大損した。ダイエーに行った池田親興は抑えとして復活を果たし、大野久は盗塁王を獲得した。南海時代2ケタ勝利を挙げていた藤本修二や西川佳明は1勝も挙げず、わずか2年で阪神を去りました。池田は1985年の優勝以降、伸び悩んでいましたが、大野久は村山実監督が和田豊、中野佐資とともに“少年隊”と名付け、1989年には3割を打っていた。我慢して育てた選手を放出したように、球団に一貫性がなかった」 同じ1991年には、23歳の遠山昭治を出して、ロッテから33歳の高橋慶彦を獲得。しかし、高橋慶彦はオープン戦の始球式でタレントの山田雅人からデッドボールを食らったことが話題になったくらいで、打棒は影を潜めた。「広島の黄金時代を築いた慶彦は田尾と似たようなケースで、たった1年でパからセに戻ってきた。中村勝広監督は慶彦の良い時のイメージを忘れられず、開幕から1番で使ったが、打てなかった。この頃は知名度の高い選手に飛びつく傾向がありました」 補強の失敗を重ねた1991年は2年連続の最下位に終わった。交換トレードのなかった1992年、亀山努、新庄剛志の“亀新フィーバー”、仲田幸司など投手陣の急成長によって2位に躍進する。中村監督は、あと1歩で優勝を逃した原因は打線にあると考え、オリックスから32歳の松永浩美に触手を伸ばし、3年連続8勝以上を挙げていた24歳の野田浩司とのトレードに踏み切った。しかし、野田は移籍1年目の1993年に17勝で最多勝に輝き、1995年からの連覇にも先発の柱として貢献。松永は度重なるケガで80試合出場に留まり、オフにFAを行使してダイエーに移籍してしまった。「若手を出してベテランを獲るというトレードは博打に近い。仮に1年働いても、長い目でみれば損をする。それなのに、何度も繰り返すのは、移籍組のベテランの活躍もあって日本一になった1985年が脳裏に焼き付いていたのかもしれません。ただ、その年の1番・真弓は1979年に田淵幸一を放出した時のトレード相手で、阪神1年目は26歳だった。ミスター・タイガースを出す代わりに、伸び盛りの若手を獲ったことが1985年に生きたことを覚えておくべきだった」◆星野監督の補強はそれまでと何が違ったのか 1993年、阪神は4位とBクラスに逆戻り。オリックスから1994年に石嶺和彦を、1995年に山沖之彦をFAで獲得したが、往年のような働きはできなかった。特に山沖は故障のため1試合も登板せず、自由契約となった。「1994年、渡辺伸彦との交換トレードでオリックスから移籍した古溝克之が抑えのエースとして復活したように数は少ないが、成功例もある。しかし、球団に首尾一貫したポリシーがあるわけではなく、山沖のように手を挙げたから取りに行くというような場当たり的な補強が目立ちました」 1994年は4位だったが、1995年から2年連続最下位に沈む。すると、1985年の日本一監督である吉田義男氏が再登板。1998年、関川浩一、久慈照嘉という29歳の2人を放出し、中日から35歳の大豊泰昭、30歳の矢野輝弘を獲得した。「前年、本拠地が狭いナゴヤ球場から広いナゴヤドームに変わり、大豊の成績は急落した。それなのに、同じように広い甲子園での活躍を望むのは酷でした。矢野はレギュラー捕手に定着しますが、1999年に関川と久慈が中日の優勝に貢献したことで、当時は阪神のトレード下手がクローズアップされました」 野村克也監督が1999年に就任。前年に阪神に戻っていた遠山、2001年に入団した成本年秀という他球団の自由契約選手の再生には成功しているが、トレードやFA補強が上手くいったとは言い難かった。これを変えたのが、2002年から監督を務めた星野仙一氏だった。2003年にはFAで広島から金本知憲を獲得。日本ハムと3対3の大型トレードも敢行し、坪井智哉、山田勝彦、伊達昌司を出して、下柳剛、野口寿浩、中村豊を手に入れた。大量の選手入れ替えを行ない、チームに喝を入れた星野は18年ぶりの優勝に導いた。「金本も下柳も35歳で阪神に入団。生え抜きスターの坪井智哉は29歳と脂の乗ってくる時期でしたし、伊達昌司も27歳だった。年齢だけ見れば、それまでのベテラン補強と同じでしたが、星野監督は過去の実績だけではなく、将来を見越す眼力があった」 金本は在籍9年間で4度の3割、1度の打点王、下柳は在籍8年で5度の2ケタ勝利、1度の最多勝に輝き、2003年と2005年と2度の優勝に主力としてチームを引っ張った。「下柳はトレード相手の3人よりもNPBで現役を長く続けた。1980年代や1990年代、阪神に移籍してきたベテランは活躍しても1年程度で、3年程度で引退や自由契約になる選手がほとんどでした。単に年齢だけでなく、本当に数年働けるかを見極める力、情報収集力が暗黒時代の現場、フロントにはなかった」 これ以降、阪神は若手を出してベテランを獲るという場当たり的な交換トレードはしなくなった。目先の勝利を求めるだけの補強戦略にピリオドを打った星野監督は、文字通り阪神を変えていた。
2020.05.12 16:00
NEWSポストセブン
2年連続の三冠王となったランディ・バース(時事通信フォト)
「1985年とバースの幻想」に捉われ続けた阪神90年代の暗黒期
 新型コロナウイルスの感染拡大の影響で、プロ野球はいまだに開幕日が決まらない。そうした中、テレビ各局では過去の名場面などを放送している。5月6日には、NHK総合で『あの試合をもう一度!スポーツ名勝負 2003虎の夢 星野阪神18年ぶりV』と題して、赤星憲広がサヨナラヒットを打って優勝を決めた2003年9月15日の阪神対広島戦(甲子園球場)が放送された。1985年の日本一以降の17年間で、Bクラス15回、そのうち最下位10回という暗黒期を乗り越えての優勝に、阪神ファンは歓喜乱舞した。 球団創設以来、Aクラスの常連だった阪神はどうして1980年代後半以降、低迷したのか。野球担当記者が分析する。「1985年のインパクトがあまりに大き過ぎた。三冠王のランディ・バースを始め、1番・真弓明信、4番・掛布雅之、5番・岡田彰布が3割、30本塁打以上を記録し、リーグ最多の219本塁打、731得点を叩き出して優勝したため、その後も“打ち勝つ野球”という幻想を追い求めてしまったのではないでしょうか」(以下同) 日本一の翌年、バースは2年連続の三冠王に輝くが、掛布の度重なる故障もあり、阪神は60勝60敗10分で3位に終わる。1987年、西武から田尾安志、新外国人にメジャー通算58勝のマット・キーオを獲得し、シーズン前には優勝候補の呼び声さえあった。しかし、3月に掛布が飲酒運転、バースがスピード違反と相次いで不祥事を起こしてしまう。開幕すると投手陣は壊滅状態で、打線も火を噴かない。結局、球団史上最低の勝率3割3分1厘で、断トツの最下位に。2年前に日本一になった吉田義男監督はチームを去った。「1988年、ミスター・タイガースの村山実監督が就任しましたが、バースはシーズン途中に退団、掛布は引退。主軸2人を失い、2年連続の最下位に。ここから、阪神に弱小球団のイメージがつきつつありました」 セシル・フィルダーが活躍した1989年は5位に浮上したが、村山監督は辞任。40歳の中村勝広監督が誕生するも、1990年は最下位に逆戻り。阪神の低迷が始まる1987年に入団し、4年間で45勝を挙げていたキーオは7勝に終わった同年限りで解雇された。1991年、中村監督は“打ち勝つ野球”を掲げ、トーマス・オマリーとマーベル・ウインの野手2人を獲得。また、23歳の遠山昭治との交換トレードで、ロッテから33歳の高橋慶彦を呼び寄せた。オマリーはフル出場で打率3割7厘、21本、81打点と期待通りの活躍をしたが、ウインや高橋慶彦は不振を極め、阪神は2年連続最下位に沈んだ。◆甲子園ラッキーゾーン撤去で投手陣が奮起するも… 開幕前、大方の評論家が最下位予想をした1992年、猛虎が復活する。本拠地・甲子園のラッキーゾーンが取り外され、両翼が5メートル伸びたことで、投手有利の環境になった。すると、仲田幸司や湯舟敏郎などの投手陣が奮起し、チーム防御率は2.90でリーグ1位に。ヤクルトに競り負けて優勝は逃すも、投手力を武器に7年ぶりのAクラスとなる2位に躍進した。主戦投手は伸び盛りの20代ばかりで、阪神黄金時代到来の予感すらあった。「この年はリーグ最小の475得点しか挙げられなかった。そのため、阪神は先発の一角を占める野田浩司を放出し、オリックスから松永浩美を獲得する1対1のトレードを敢行。24歳の伸び盛りの投手と32歳のベテラン野手の交換で、貧打を解消しようとしました。ただ、1992年の1年間は投手陣が良かったとはいえ、14勝の仲田、9勝の中込はともに前年1勝でしたし、11勝の湯舟は当時まだ2年目。一方で、野田は3年連続8勝以上で、阪神の中では最も計算のできる投手でした」 1993年、投手陣は前年のようには機能せず、防御率は3.88でリーグ5位に。松永はケガで2度の戦線離脱。打力向上を目指したトレードだったが、得点は478で前年とほぼ変わらなかった。チームは4位に終わり、オフになると松永はFAでダイエーに移籍してしまった。 ラッキーゾーンが撤去されたことで、それまでのように本塁打が期待できなくなっていたが、阪神は長距離砲の外国人選手にこだわった。1994年、メジャー通算226本塁打のロブ・ディアーを獲得。スポーツ紙は“バースの再来”と煽ったが、70試合出場で76三振。打率1割5分1厘、8本塁打に終わった。8月にケガをして帰国し、そのまま退団。チームは2年連続の4位となった。ディアーに続いて、まさかの解雇もあった。「来日以来4年連続3割を達成し、3年連続でリーグ最高出塁率を記録したオマリーのクビ切りには驚きました。“長打力不足”が理由に挙げられましたが、この年のチーム最多本塁打は石嶺和彦と新庄剛志の17本。オマリーは15本。ホームランはもう1人の助っ人に期待すればいいですし、広い甲子園ではそうそう打てない。阪神は、一体どんな外国人選手が来れば認めるのか。バースのような三冠王級の活躍をできる助っ人は、数十年に1人しか現れません。バースの残像を忘れられなかったのかもしれません」◆オマリーを放出してグレンとクールボーを獲得 翌年、ヤクルトと契約したオマリーは31本塁打を放ち、5年連続3割、4年連続最高出塁率を記録。チームを優勝に導き、セ・リーグのMVPに輝いた。オマリーを手放した阪神は開幕から低迷し、シーズン途中に中村監督が辞任。藤田平監督代行になっても浮上できず、リーグ最低の451得点に終わり、4年ぶりの最下位に転落した。「オマリーの代わりに獲得したグレンが2割5分6厘、23本、77打点、クールボーが2割7分8厘、22本、77打点。及第点と言えるかもしれませんが、オマリーに比べれば物足りない数字でした。120試合に出場したグレンの成績を前半60試合、後半60試合に分けると、前半は2割9分3厘、16本、50打点でしたが、後半は2割1分9厘、7本、27打点と不振に陥った。それなのに、球団は残留を決めました」 1996年、グレンは藤田監督とソリが合わず、クールボーも不調になり、シーズン途中に揃って解雇された。阪神は見せ場を作ることなく、2年連続の最下位に終わった。あと一歩で優勝まで迫った1992年の灯火は、トレードや外国人補強のチグハグさから、たった数年で完全に消えてしまった。「1997年には“1985年の日本一監督”の吉田義男氏が再登板。ただ、中日からタイトルホルダー経験のあるパウエル、大豊を獲得したように10年以上経っても、1985年の“打ち勝つ野球”の幻想が消えていませんでした」 吉田監督が5位、6位と低迷すると、1999年に他球団出身の野村克也監督が就任。左腕の井川慶や俊足の赤星憲広などを育て、2002年から星野仙一監督がバトンを受け継ぎ、翌年に18年ぶりの優勝を果たした。「この年の5月、濱中治、片岡篤史、アリアスの3者連続本塁打が生まれました。これは、1985年のバース、掛布、岡田以来の快挙でした。試合後、そのことを記者に問われると、星野監督は『85年、85年と言っているからダメなんだ』『亡霊みたいなことをいつまでも引きずってたらいかん!』と一喝した。過去にそんなことを言う監督はいなかった。当時の熱狂を知らない、“外様”の星野監督がようやく1985年の呪縛を解いたんです」 2003年、日本一は逃したが、18年ぶりの優勝に関西が沸いた。あれから16年間で、阪神は優勝1回を含み、Aクラス10回を数え、暗黒時代は消え去った。2003年、2005年優勝時の正捕手だった矢野燿大監督の元、阪神は黄金時代を築けるだろうか。
2020.05.09 16:00
NEWSポストセブン
プロ野球監督、「評論家から」「コーチから」どちらが有利か
プロ野球監督、「評論家から」「コーチから」どちらが有利か
 新型コロナウイルスの影響で、開幕時期すら危ぶまれている状況だが、今年のプロ野球界には、広島・佐々岡真司氏、ヤクルト・高津臣吾氏、楽天・三木肇氏という3人の新監督が誕生している。いずれも数年間に及ぶコーチ生活を経て、指揮官に昇格した。野球担当記者が話す。「今季、12球団の監督の中でコーチ経験がないのは栗山英樹氏(日本ハム)、工藤公康氏(ソフトバンク)、井口資仁氏(ロッテ)の3人。アレックス・ラミレス氏(DeNA)は2014年に独立リーグの群馬ダイヤモンドペガサスで選手兼任コーチ、翌年にはオリックス巡回アドバイザーをしていました。NPBでの1年間専任コーチを務めていないという点では4人です」(以下同) 逆に言えば、12球団の中で、ラミレス監督を含めて4分の3は指導者を経験してから、監督になっている。かつては長嶋茂雄氏(巨人)や有藤通世氏(ロッテ)のように現役引退後即監督になる場合もあれば、金田正一氏(ロッテ)や鈴木啓示氏(近鉄)、田淵幸一氏(ダイエー)のように引退後、解説者として活動し、コーチ経験なしで監督に就任する人物も多数いた。「昭和や平成の初期までは、指導者としての実力を評価するよりも現役時代の実績や知名度、人気を優先させる傾向が強かった。もちろん、西本幸雄氏(阪急、近鉄)や上田利治氏(阪急、日本ハム)のように、現役時代はスター選手と呼ばれる存在ではなかったが、長年のコーチ生活を経て常勝監督になった人もいますが、そうした監督は少数派でした。一時期、コーチ経験なしで失敗する監督が目立ったこともあり、徐々に変わっていったのでしょう」 現在は少なくなっているが、必ずしもコーチを経験しなければ監督として大成しないわけではない。「ノムさん(野村克也氏)は現役引退後、解説者時代にむさぼるように読書をして言葉を覚え、講演会や解説で話術を磨いた。それが、ヤクルトの監督になった時に生き、1990年代に黄金時代を築けたと語っています。王(貞治)さんは引退後、助監督を3年間務めて巨人の監督になりましたが、5年間でリーグ優勝1回と期待されたほどの成績は残せなかった。のちに、権限のない助監督という中途半端な立場はあまり経験にならず、外から野球を勉強したかったと話しています。解説者生活が勉強になる面は十分あるでしょう」◆コーチを経験しなかった工藤監督、栗山監督ら 一方で、張本勲氏や江川卓氏のように現役引退後、解説者を何十年も続け、一度もユニフォームに袖を通していない大物OBもいる。「著名になればなるほど、コーチ業よりも評論業ほうが儲かる。今は1試合あたりの解説のギャラも減っていますが、それでも講演などもありますし、コーチよりは羽振りはいいはず。監督のオファーなら乗るのでしょうけど、2人とも機を逸した気がしますね。江川さんは長嶋茂雄監督の時に投手コーチとして名前が上がり、第2次原辰徳政権の時にヘッドコーチの噂もありましたが、実現しなかった。本人もコーチではなく、監督として勝負したいと語っていました。今年65歳になりますが、日本の平均寿命も延びていますし、完全に監督の可能性が断たれたわけでもないでしょう。一度、江川監督を見たいファンも根強く残っています」 1988年の引退後、解説者生活を送っていた“ミスター・タイガース”掛布雅之氏は、26年経った2014年から阪神のゼネラルマネージャー付育成&打撃コーディネーター(DC)となり、2016年から2年間は二軍監督を務めた。しかし、一軍監督就任は実現せず。現在は『阪神レジェンドテラー』という肩書きで球団に残っているが、縦縞のユニフォームには袖を通していない。「同じ時代に活躍した岡田彰布さんが引退後、オリックスや阪神の2軍監督やコーチを務め、一度も現場から離れずに阪神の監督になったのとは対照的です。岡田さんは評論家をするよりも、現場にいたほうが指導者として勉強になるという持論です。コーチとして指導者経験を積む、評論家として外から野球を見るという2つの選択は、どちらが正しいかではなく、どちらが自分に合っているかなんでしょう。考え方や取り組み方の問題だと思います。ただ、最近の傾向を見れば、なるべく現場からは離れず、コーチのオファーがきたら素直に受け入れたほうが、いずれ監督になれる可能性は高そうですね」 ケースは減っているものの、コーチを経験せずに、解説者から監督になって結果を残している人物も多数いる。「現在のソフトバンク工藤監督や日本ハム栗山監督は、そのパターンで日本一になっています。星野仙一さんも選手兼任コーチはありましたが、専任では務めていない。しかし、指揮官2年目に優勝をして中日、阪神、楽天の3球団をリーグ制覇に導いた。東尾修さんもコーチ経験はないですが、西武で1997年からパ・リーグ連覇を果たしている。落合博満さんもコーチをせずに監督になりましたが、2000年代に中日の黄金時代を築いています」 引退後、一度もユニフォームを着ていない大物OBが監督を務める姿を見たいファンもいる。現在の12球団監督の結果次第で、時代の流れが再び変わることもありそうだ。
2020.05.06 16:00
NEWSポストセブン
プロ野球指導者たちに多くの教えを遺した野村克也氏
「ノムさんと飲みながら野球談義」 佐藤義則氏が思い出語る
 84歳で亡くなった故・野村克也氏は、プロ野球指導者たちに多くの教えを遺した。投手コーチとして阪神や楽天などで野村監督を支えた佐藤義則氏も薫陶を受けた一人だ。佐藤氏が思い出を振り返る。 * * * 野村さんといえば、阪神の秋季キャンプで1か月だけ一緒に指導させてもらったことと、楽天監督時代に私をコーチとして呼んでくれたことが良き思い出ですね。 野村さんは「アイディアを持っているのが良いコーチ」という考えを持っていました。阪神のとき、1年目の藤田太陽のコントロールをなんとか矯正しようと、片足で投げるなどの色んな投げ方でストライクを取る練習をしているのを面白がって見てくれていましたね。〈2001年10月、佐藤氏は野村監督の要望で阪神の投手コーチに就任。しかし野村氏は直後、沙知代夫人の脱税が発覚し12月に監督辞任。阪神に残った佐藤氏は井川慶らを育て、2003年に星野仙一監督の下で阪神を18年ぶりのリーグ優勝に導く。〉 奥さんの脱税事件で野村さんは阪神を辞めることになり、結局阪神では一緒にシーズンを戦うことができなかったんだけど、在任中は私と木戸(克彦)と3人でいつも晩飯を一緒に食べながら野球の話をしてくれました。葛西(稔)も交えて4人のときもあったかな。自分がテスト生で入ったときの話や南海時代の話、いつも難波で飲んでいた話、キャッチャーの配球面のこととか、飲みながら色々と教えてもらって、本当に楽しかったですよ。 ただ話が長くなることが多くて、監督から逃げるにはどうしたらいいかって木戸と相談した。それであるとき監督を交えて、木戸とジョッキで焼酎をガンガン飲み始めたら、「おまえらとはつきあえない、帰る」って、すぐに切り上げたことがあった。木戸と顔を見合わせて「これだ!」って言い合ったっけ。〈2005年、佐藤氏は日本ハムの投手コーチとしてダルビッシュ有を育て、日本一になる。2009年、再び野村監督に呼ばれ楽天投手コーチとして田中将大らを育成する。その後、田中はシーズン24勝0敗の記録を作り、楽天の日本一の原動力となった。〉 野村さんが楽天の監督になってまた俺を呼んでくれたんです。秋のキャンプのミーティングで「今年のドラフトの成功は、佐藤が来てくれたことだ」と皆の前で言ってくれたのが、すごく嬉しくてね。1年間野村さんの下でしっかり野球を教わることができました。 当時、誰もが楽天が優勝できるとは思ってなかったと思います。でも私は就任1年目から優勝できると思っていました。現に1年目でCSに出ましたしね。CS最終ステージでの日本ハム戦第一戦(2009年10月21日)で、ベンチワークのミスが原因で負けたけど(球界では「福盛の21球」と呼ばれる)、こっちは田中(将大)と岩隈(久志)が残っていたし、日本ハムはダルビッシュ(有)が投げられないから、この試合にさえ勝てば絶対イケると思っていました。最後はスレッジに満塁弾を打たれてサヨナラ負け。この試合を勝たせてやれなかったことで最終ステージを敗退し、結局野村さんが辞めることになりました。そういう苦い思い出もありますね。 とにかく野村さんにも、星野さんにも「コイツは良いコーチだ」って世の中に言ってもらい、私もすごく嬉しかった。特に野村さんがそう思ってくれたのは、本当にありがたいなと感じながらコーチ業に励んでいましたよ。◆取材・文/松永多佳倫
2020.03.06 07:00
NEWSポストセブン
運動音痴で野球に興味がなかったという
星野仙一氏の「優勝宣言」が阪神選手、フロントの意識変えた
 2003年に18年ぶりのセ・リーグ優勝を決めたのは、星野仙一監督率いる阪神タイガースだった。39年ぶりの本拠地・甲子園での優勝決定で、5万3000人のファンが歓喜に沸いた。優勝を報じるデイリースポーツ一面のロゴのしっぽも光る特別仕様だ。負けてもどこか諦める癖がつきかけた阪神ファンに、勝つ楽しさを思い出させてくれたシーズンだった。 就任1年目を4位で終えた星野氏は、大胆な“血の入れ替え”を断行した。20人以上を解雇し、フリーエージェントで金本知憲、伊良部秀輝を獲得。さらにトレードで下柳剛と中村豊、外国人選手ではウィリアムスとアリアスを補強し、「勝ちたいんや!」を合言葉に序盤から突っ走った。 4月18日に首位に立つと、7月にはマジックが点灯。終わってみれば87勝51敗2分、2位に14.5ゲーム差をつけての圧勝だった。当時、球団社長だった野崎勝義氏が語る。「星野さんはフロントも含めたチームの意識改革に成功したのが大きい。当時は最下位が4年間も続き、誰もが恥ずかしくて『優勝』なんて口にできませんでした。そんな中、就任1年目のキャンプで星野さんが優勝を宣言したのです。お陰で1年目のオフには皆が意識するようになった。ファンの声援も力にして、圧倒的な強さでゴールインしたシーズンでした」※週刊ポスト2019年11月8・15日号
2019.11.10 16:00
週刊ポスト
14年間で11度の日本一を経験した川上ジャイアンツ。日本シリーズ2戦目を落としたのは3度だけという(1973年。写真:時事通信フォト)
データで検証 日本S「2戦目に勝利すると有利」は本当か
 10月19日、巨人とソフトバンクが戦う日本シリーズが始まる。過去3年の交流戦での対戦成績は巨人の5勝4敗だが、ソフトバンクは最近5年で4度の日本一を達成しており、短期決戦での強さも光る。今年、通算1000勝を挙げた巨人・原辰徳監督が前年の王者をどう切り崩していくか。原監督は15日の練習で報道陣に、「1勝1敗という数字が決まっているのならば、2戦目を取りたい」と独特の言い回しで『第2戦重視』を説いた。野球担当記者が話す。「V9時代の巨人・川上哲治監督が『第2戦重視』を言い始め、V9の正捕手だった森祇晶が西武の監督で黄金時代を築いた時も同じ説を唱えたことで、球界の定説となりました。2戦目に勝つと、移動日も気分良く過ごせて3戦目に臨めるため、同じ1勝1敗なら、1戦目に勝つより2戦目のほうが良いという理論です」(以下同) 1961年に就任した巨人・川上監督は14年間で11度のリーグ優勝を果たし、そのいずれも日本一に輝いている。そのうち、2戦目を落としたのは3度だけ。1986年に就任した西武・森監督は9年間で8度のリーグ優勝、6度の日本一に導いているが、日本シリーズで敗れた1993年、1994年はともに2戦目に負けている。 やはり、2戦目を取ったほうが有利なのか。 平成の日本シリーズで2戦目に勝ったチームの日本一回数を挙げてみよう。1989年から1999年までの11年では7回。1990年代までは、たしかに定説が当てはまっていたようにも思える。 しかし、2000年から2009年までの10年では5回、2010年から2018年までの9年でも5回。必ずしも『第2戦を取ると有利』の法則が働いているわけではなさそうだ。「ただし、2戦、3戦と連勝したチームは平成の30年で13例あります。そのうち、3連勝から4連敗した1989年の近鉄を除いた12例は全て日本一になっています」 全て挙げてみると、巨人を4タテした1990年の西武、ヤクルトと激闘を演じた1992年の西武、長嶋茂雄監督が初の日本一に輝いた1994年の巨人、ID野球でイチローを封じた1995年のヤクルト、神戸に初の栄冠をもたらした1996年のオリックス、原監督初の日本一を4タテで飾った2002年の巨人、4試合で33得点を奪った2005年のロッテ、新庄剛志フィーバーに沸いた2006年の日本ハム、山井大介・岩瀬仁紀が「継投による完全試合」を達成した2007年の中日、星野仙一監督が宙に舞った2013年の楽天、秋山幸二監督が有終の美を飾った2014年のソフトバンク、DeNAを退けた2017年のソフトバンクという12例が残っている。このデータを見る限り、2戦目と3戦目に連勝すれば、日本一を手繰り寄せる確率がグッと上がるようだ。
2019.10.19 16:00
NEWSポストセブン
広島・佐々岡新監督誕生へ 「投手出身」監督の向き不向き
広島・佐々岡新監督誕生へ 「投手出身」監督の向き不向き
 昨季までセ・リーグ3連覇を成し遂げたものの、今季は4位に終わった広島は緒方孝市監督が辞任。佐々岡真司1軍投手コーチが監督に昇格する見込みだ。4日には球団本部長との会談で来季監督を打診され、本人も受諾する以降を示している。 佐々岡コーチは、1990年のプロ入り1年目に13勝17セーブを挙げる活躍を見せ、2年目には最多勝と最優秀防御率、沢村賞、ベストナインを獲得。チームを優勝に導き、MVPに輝いた。2003年には江夏豊氏、大野豊氏、斉藤明夫氏、山本和行氏、郭源治氏に続いて史上6人目となる100勝100Sを達成。2007年の引退後、解説者を経て2015年から2軍の投手コーチとなり、今季は1軍投手コーチを務めていた。 昨今の球界では“投手出身は監督に向いていない”という説も囁かれている。実際、21世紀になってから投手出身の優勝監督は数えるほどしかいない。セ・リーグでは2003年の阪神・星野仙一監督のみ、パ・リーグでは2008年の西武・渡辺久信監督、2013年の楽天・星野仙一監督、2015年、2017年の工藤公康監督。両リーグ合わせて、のべ38シーズンで5例しかない。当の広島でも長谷川良平監督以来、実に53年ぶりの投手出身監督誕生となる。野球担当記者が話す。「よく言われるのは『投手は自分中心の考え方なので監督に向いていない』という理由です。ただ、巨人の藤田元司監督が1989年、1990年と連覇した頃は『投手出身監督は投手心理がわかるので指揮官に向いている』とプラスに考えられていました。現に、1980年代のセ・リーグでは、10年のうち5年は投手出身監督のチームが優勝しています」(以下同) 過去には、“外野手は監督に向いていない”という説もあった。しかし、2015年のヤクルト・真中満監督、2016~2018年の広島・緒方孝市監督とセ・リーグの覇者は昨季まで4年連続で外野出身。パ・リーグの最近10年を見ても、2010、2011、2014年のソフトバンク・秋山幸二監督、2012、2016年の日本ハム・栗山英樹監督と半数は外野出身。秋山氏は現役6年目までは三塁だったが、22年の現役生活で3分の2以上は外野を守っている。「定説は時が経てば変わりますし、あくまで“投手”“捕手”“内野手”“外野手”という4つの属性に分けた場合の傾向でしかない。それよりも、個人の資質がどうか。佐々岡氏は前任の緒方監督ほど闘志をむき出しにするタイプではないので、中には物足りないと捉える人もいるかもしれません。しかし、最近は『俺に付いてこい』と引っ張るタイプだけでなく、日本ハムの栗山監督しかり、巨人の宮本和知投手コーチしかり、選手に寄り添える指導者もきちんと評価されています。佐々岡監督は現代向きの指揮官ではないでしょうか」 選手として優勝も暗黒期も体験し、指導者としても歓喜と辛酸を味わった佐々岡コーチ。球団本部長も「選手を見る目はある。人柄は言うことないし。ピッチャーの能力もある」と評価しており、来季以降の采配に期待したい。
2019.10.06 07:00
NEWSポストセブン
星野仙一さんの「お別れの会」(時事通信フォト)
元プロ野球選手の葬儀 現役時と引退後所属先、仕切るのは?
 ジャニー喜多川氏(享年87)の「家族葬」には所属事務所のタレント総勢100人以上が集まった。さらに8月には「お別れの会」が予定されている。有名人の葬儀の裏には花の並べ方や焼香の順番まで、慎重かつ入念に準備された“序列”がある。 スポーツ選手の場合も、交際範囲が広く、ファンも多い有名選手となれば、葬儀は大規模なものになる。 2018年4月に亡くなった衣笠祥雄氏(享年71)のお別れの会は6月28日に広島市内のホテルで行なわれたが、選手や野球界OB800人とファンを合わせて約3000人が参列した。「引退後は監督として広島に復帰することがなかったため、現役時代の広島球団と衣笠氏が亡くなるまで専属解説者を務めていたTBSで“どちらが仕切るか”を話し合ったそうです。最終的に発起人には広島のオーナーとTBSの社長の2人が並び、それに名球会が協力する形に収まった。緒方孝市監督がユニフォーム姿で参列するなど、やはりカープカラーが強かったですね」(球団関係者) プロ野球選手の場合、現役時代に活躍した球団と監督・コーチなど引退後の所属先のどちらが仕切るかが難しい。衣笠氏は“広島一筋”だったが、監督として複数球団で監督を務めたりした場合は、特に複雑になる。 2018年1月に死去した星野仙一氏(享年70)はまさにそのケースだ。「監督としては中日、阪神、楽天と3球団を渡り歩いたので、それぞれの関係者やファンのために、名古屋・大阪・東京の3か所でお別れの会が開かれました。メインは都内のホテルでのお別れの会。中日、阪神、楽天のユニフォームを着た星野さんの写真が3枚飾られ、最後の所属だった楽天の三木谷浩史・オーナーが挨拶しました。球団副会長まで務めたので、重きを置いたということでしょう。球界代表としては、六大学時代以来のライバルで親友でもある山本浩二氏が弔辞を読み上げました。 大阪で阪神球団が主催したお別れの会では、弔辞を阪神オーナー、金本知憲・阪神監督(当時)、六大学時代のライバルで元阪神選手の田淵幸一氏が読むなど阪神カラー一色でした」(スポーツ紙記者) 星野氏は現役時代は中日一筋で、監督としても球団を優勝に導いた功労者だが、他の2か所に先駆けて名古屋のホテルで催されたお別れの会は様相が違った。「星野さんが中日と疎遠になっていたからでしょう。それでも名古屋の財界人には人気があったので、発起人は中日とは関係のない大村秀章・愛知県知事で、星野さんの個人後援会が仕切った。中日のオーナーや森繁和監督、現役選手の姿はありませんでしたが、監督時代の主力だった球団OBの立浪和義氏やファンら約2000人が駆けつけました」(中日担当記者) さまざまな配慮やしがらみはあろうが、故人を悼む気持ちが最も大切であることは、どんな大物でも変わりがない。※週刊ポスト2019年8月2日号
2019.07.28 16:00
週刊ポスト
巨人・原監督&阪神・矢野監督の「公開説教」はアリなのか?
巨人・原監督&阪神・矢野監督の「公開説教」はアリなのか?
 同僚たちの前で上司がミスを咎めて大声で説教──昭和のサラリーマン社会では当たり前だった光景だ。だが、時は令和。“パワハラ”と見なされかねない叱り方では平成生まれの部下はついてこない。 そうしたなかでも、「公開説教」のシーンが珍しくないのがプロ野球の世界である。この“指導法”の是非をめぐって、大物OBの間でも賛否が分かれている。 マウンドを見つめる巨人・原辰徳監督(60)の表情がみるみる険しくなっていく。5年ぶりの交流戦優勝が懸かった6月23日のソフトバンク戦。エース・菅野智之(29)が初回から先頭打者弾を含むいきなりの4失点。さらに2回、先頭打者の9番ピッチャー・和田毅(38)に四球を出したところで、原監督は“甥っ子”に早々と見切りを付けた。 攻撃陣も1点しか奪えず完敗──憤りを隠せない原監督は試合後、報道陣に対し「先頭打者に本塁打、四球、四球。リズムもへったくれもあったもんじゃないですね」と、まくし立てた。記者が質問しようとするや、「智之のことはこのぐらいでいいんじゃないですか?」と、有無を言わせぬ様子で遮った。「原監督は菅野がなぜ昨年までの安定感抜群の投球ができないのかに苛立っている。会見でわざわざ触れるのは期待の裏返しとはいえ、記者たちを前にあそこまで怒りを露わにするとは驚きました」(巨人番) 昨年末の就任当初は“のびのび野球”を掲げていた原監督だが、ここにきて公衆の面前で選手を叱咤する場面が目立つ。 6月20日のオリックス戦では若手の重信慎之介(26)が対象になった。出塁した重信が二盗を試みる姿勢を見せなかったことが、指揮官の逆鱗に触れたのだ。 攻撃終了後、ベンチで重信を呼びつけて叱責。テレビでもおよそ10秒にわたり、期待の若手が直立不動で青ざめた表情になる様子が映し出された。 奇しくも同じ日、甲子園の阪神ベンチでも矢野燿大監督(50)の“公開説教”があった。雷を落とされたのは、新人ながらショートのレギュラーを張る木浪聖也(25)。1点を追う8回無死一、三塁の場面。打者の近本光司(24)の打球は高いバウンドの三ゴロだったが、三塁走者・木浪は本塁に突入しなかった。「矢野監督は木浪の消極的な走塁姿勢に怒りを爆発させた。“いけるやろ”とつぶやき、次打者の糸原健斗(26)がカウント1-1になったところで、代走を起用。木浪をベンチに下げる“懲罰交代”に踏み切った。それでも怒りが収まらない矢野監督は、ベンチで木浪を叱責した」(トラ番) 数十秒にわたってテレビに大写しになった矢野監督の叱責に木浪の瞳がうるみ始める。説教が終わった後も、ベンチの最前列で涙目で声を出す木浪の姿が幾度となく映し出され、翌21日のデイリースポーツは一面で『懲罰交代 公開説教』と大きく報じた。「矢野監督は選手と一緒にガッツポーズをするなど距離感が近かっただけに、ベンチ内も静まり返った。中継でも『(本塁に突入するか)難しい判断』と解説されていたので、“あれで怒られるのか……”と唖然とする選手もいた」(同前)◆叱られた経験がない 中継画面に映ることは稀でも、こうした光景は球界では決して珍しくないという。「公開説教は監督が特定の選手を厳しく叱り、選手全員をピリッとさせる手段のひとつです。ただ、叱られるのが実績のない若い選手であることが多いので、人気球団の巨人や阪神、あるいは有名な監督が絡まないとなかなか記事にならないだけ。 少し前まではさらに過激でした。野村克也監督はボーンヘッドをした選手にベンチで1時間以上説教したことがあったし、星野仙一監督のように怒鳴った後に、ベンチ裏での鉄拳制裁もあった」(ベテランスポーツ紙デスク) ただ、平成生まれの選手が中心となった今の時代に、その“常識”は通用するのか。高校野球でも「選手を怒鳴りつければ休んだり、退部してしまうので強豪校でも怒る指導法は減っている」(同前)という。当然、怒られ慣れせずにプロになる選手も出てくる。 あるセ・リーグの20代現役選手はこう語る。「公開説教ですら萎縮してしまう若手ばかりで、殴られたら野球を辞めちゃう選手も出てくるんじゃないですか。一般企業なら完全にパワハラでしょう。公開説教は、わざわざみんなの前で……という思いはあります。誰もわざとミスしているわけじゃないですから」 こうした球界の変化に現場の首脳陣はどう向き合っているのか。昨年までソフトバンクのヘッドコーチで甲斐拓也(26)らを育成し、古巣・広島での監督経験もある達川光男氏は自らの経験を元にこう分析する。「(公開説教は)相手を見てやっています。みんなの前で叱っても平気なヤツもおれば、そういう教育を受けていないと落ち込んでしまうヤツもおる。 ただ、公開説教をされる選手は期待されていることが多い。まだ実力はないけど、育てないといけない選手ですね。木浪も重信もこれから主力にならなければいけない選手ですから」 その意味では、大エース・菅野にも容赦なしの原監督は異色だが、そこは“第3次政権”が実現したベテラン監督のカリスマ性ゆえにできることなのかもしれない。 ただ、達川氏は、“かつての指導法”では若い選手の育成が難しいことも率直に認める。「球界でもゆとり世代の影響はありますよ。昔は試合中のミスに対し、手を出さないまでも、ベンチで“二軍に行くか、坊主頭になるか、どっちがいい”とやったものですが、今の時代は“もう一回、一から出直すか”という選択肢も付け加えないといけない。“一から頑張ります”と答えれば、それでその場を収めて翌日もチャンスを与える。それがパワハラだとソッポを向かれないためのポイントなんです。 練習中も“グラウンドから出ていけ、帰れ”と指導していたが、今は“しばらくグラウンドから出て、そこで見ておけ”と言うようになった。決して『帰れ』というワードは使わない。そして、“理解できたら練習に加われ”と言います。このように言葉を選んで指導している。昔のように鉄拳制裁ですべて終わりというのは楽だったが、今はいろんな意味で大変ですよ」(達川氏) 6月20日に公開説教を受けた重信と木浪は、翌日の試合にスタメン出場して共にヒットを放ち、汚名返上を果たしている。「原監督にしても矢野監督にしても長時間にわたってガミガミ叱りつけたわけじゃないし、挽回のチャンスをすぐに与えた。同じミスを繰り返した時に初めて二軍に落とす。いわば、公開アドバイスです。私の時代は“なにしよるんじゃ、明日からファームじゃ”で、本当に二軍に落とされて終わりでしたから、えらい違いです」(達川氏)※週刊ポスト2019年7月12日号
2019.07.01 11:00
週刊ポスト
巨人の若き主砲が悩んでいる
中日・高橋周平と巨人・岡本和真 新監督で明暗分かれる
 熱心な“竜党”にとっては、「やっと」という感慨もあるのだろう。プロ野球の中日・高橋周平(25)のバットがついに覚醒した。打率.344でリーグトップをひた走り、交流戦に入ってからは主砲・ビシエド(30)を退けて4番に座る(数字は6月11日終了時点、以下同)。「8年目を迎えた今季、与田剛・監督からキャプテンに指名され火が付きました。5月は、日本記録に並ぶ月間8度の猛打賞を記録するなど、25歳での抜擢に応える活躍を見せています。 高橋は長年、未来の“竜の顔”として期待されながらも伸び悩んできた。昨季は初めて規定打席に到達しましたが、チャンスで森繁和・前監督に代打を送られ、ベンチで悔しさを滲ませる場面もあった。昨年コンバートされたセカンドから、今年は本職のサードに復帰したことも大きかった」(スポーツ紙デスク) 対照的に“ブレーキ”がかかっているのが巨人・岡本和真(22)だ。昨季は全試合に出場し、打率・309、33本塁打、100打点をマーク。22歳シーズンでの100打点は、1996年の松井秀喜を抜いて最年少記録だった。 だが飛躍のシーズンから一転、打率は.256と低迷する。「岡本は昨季の春季キャンプでその松井氏から直接指導を受け、打撃のコツを掴んだのか、見違えるように良くなりました。その様子を見ていた高橋由伸・前監督は直接指導はせず、二岡智宏・打撃コーチに任せて、我慢強く4番で使い続けました。 ただ今季は事情が違う。ヘッドコーチを置かず、チーム全体に厳しく目を光らせる原辰徳・監督は、春季キャンプから岡本へのマンツーマン指導を行ない、シーズンに入ってからも、雨天中止となった甲子園の室内練習場で指導するなど“教え魔”のように試合前の微調整を繰り返している。だが、マジメな性格が災いして原監督のアドバイスを過剰に気にしすぎているように見える」(番記者) 明暗分かれる両者に共通するのは、今季「新監督」のもとでプレーしていることだ。もちろん、選手の調子の浮き沈みには、個々人の努力や慢心など、様々な要因がある。しかし、選手にとって、「監督との相性」も重要な要因となることは間違いない。 過去には、前年に成績が振るわなかった小早川毅彦や遠山奨志が、名将・野村克也・監督のもとに移籍してかつての輝きを取り戻したケースがあった。 だが、その野村監督のもとで芽が出なかった今岡誠が、代わって就任した故・星野仙一・監督に抜擢されて主軸を担った例もある。“野村再生工場”で復活を遂げた遠山氏が語る。「監督が代わると、チームカラーも変わる。固定観念がリセットされます。とくに、くすぶっている選手にとっては絶好のアピールチャンスになる。僕の場合は、野村監督が『野球の“や”の字』からやり直そうとしてくださった中で、“何でもしてやる”という気持ちでしたからね。監督が代わって指導がマッチすれば、色々な可能性は出てくると思います」◆原監督に合う選手、合わない選手 前出・スポーツ紙デスクが続ける。「中日・与田監督も“広報担当”と親しまれるほど、メディア対応を丁寧にすることで、選手に対する批判をかわしている。落合博満・監督時代は、メディアに全く対応せず、批判的な報道が選手に向いたこともありましたからね」 一方、野球評論家の江本孟紀氏は、ビヤヌエバ(27)とゲレーロ(32)の両外国人を同時に二軍に落とすことができる原監督を「危うさのある全権監督」としつつも、その采配をこう評価する。「投手陣では、中川皓太(25)や桜井俊貴(25)ら台頭してきた若手をすかさず抜擢し、そういった選手が結果を残している。この判断力は、3度目の政権となる原監督の経験が生かされているように思います」 自主性に任せて伸びる部下がいれば、厳しく指導して伸びる部下もいる。“部下への指導”が難しいのは、プロ野球の世界でも変わらない。※週刊ポスト2019年6月28日号
2019.06.18 07:00
週刊ポスト
矢野阪神キャンプ“臨時コーチ”が中日OBばかりで大混乱
矢野阪神キャンプ“臨時コーチ”が中日OBばかりで大混乱
 昨年最下位の屈辱を晴らすべく、矢野燿大・新監督のもとキャンプに励むタイガース。とりわけ若手選手の成長が急務といわれるが、キャンプ地に現われた“臨時コーチ”をめぐって、ギクシャクした空気が漂っている──。 2月5日、阪神キャンプ地の沖縄・宜野座で、若手投手たちが“臨時コーチ”の指導に目を輝かせていた。矢野監督が先発ローテーションとして期待を寄せる3年目右腕・浜地真澄(20)が指導を求めたのは中日のエースとして2度の最多勝を獲得した川上憲伸氏。川上氏の決め球だったカットボールの投げ方を教わったのだ。「浜地は『リリースの感覚が全然違いました。無理に曲げなくていい、と教えてもらいました』と嬉々として語っていた」(番記者)◆“聖域”に中日OBが“進駐” 同日、川上氏のほかにも通算219勝の山本昌氏、通算403本塁打の山崎武司氏もキャンプを訪れた。2人とも川上氏とともに中日の全盛期を支えた“ドラゴンズの元看板選手”だ。 山本氏は左腕の飯田優也(28)に、自身の代名詞・スクリューボールを伝授。3年目の才木浩人(20)や小野泰己(24)をはじめ、長くスランプにあえぐ藤浪晋太郎(24)にもアドバイスし、ブルペン滞在時間は2時間以上に及んだ。山崎氏は、本塁打王を2度獲得した打撃理論を主砲候補の大山悠輔(24)に授けた。 その様子が報じられると、「なんで中日のOBばかり?」と疑問に感じた虎党も多かったようだ。熱狂的な阪神ファンで知られる関西大学名誉教授・宮本勝浩氏もその一人だ。「阪神は、巨人と並んで生え抜き意識が高い球団です。優れた成績を残したOBも多いだけに、他球団OBに頼らないといけないとすれば複雑な気持ちです。確かに野村克也さん、星野仙一さんと“外部の血”を入れて強くなった過去もあるのですが……」 在阪スポーツ紙のベテラン記者が語る。「阪神で他球団のOBがこれほど積極的に指導するのは初めてではないか。ブルペンの捕手側のネット裏は、基本的に評論家か関係者以外は立ち入り禁止で、どこのキャンプもその球団のOBが多い。阪神OB陣も連日視察に訪れますが、監督や選手と談笑はするものの、練習中のブルペンやグラウンドで直接指導することは滅多にない。そんな“聖域”にライバル球団の元看板選手たちが入ってくるわけですから、戸惑いを感じたベテラン選手も少なからずいたようです。 異例の臨時コーチは、現役時代、中日に7年間所属した矢野監督の“古巣人脈”で実現した。キャンプを訪れた旧知の3人に指導をお願いしたそうです」◆「コーチを信用できなくなる」 1週間後の2月12日、阪神OB会による陣中見舞い贈呈式が催され、OB会長の川藤幸三氏が「優勝して、いい酒を飲まんかい!」とハッパをかけた。今キャンプは吉田義男、掛布雅之、岡田彰布、真弓明信、江夏豊といったOBたちが視察したが、金本知憲・前監督は一度も姿を見せていない。「金本氏が顔を出さないのは、矢野監督への配慮があってのことでしょう。矢野監督が今年のキャンプテーマに掲げたのは、『自主性と競争』。“やらされる練習に意味はない”と考え、昨年までの金本氏の厳しい指導を反面教師にしている側面がある。ただ、矢野監督のこの方針には、OBから“練習が緩すぎる”という批判的な声もあがっている」(前出・番記者) そんな中での矢野監督による“臨時コーチ”招聘は、阪神OBの目にどう映っているのか。生え抜きとして球団初の2000本安打を放った藤田平氏はこう語る。「他球団のOBが教えるのは善し悪しだと思うな。1日で教えられるもんやないし、それができるならコーチが不要になってしまう。ワンポイントアドバイスだからこそ、選手がどう受けとめているかが問題。シーズンが始まって“もっと教えてくれ”と頼める相手ではないからね。 今季から加入した西勇輝(28)とガルシア(29)で20勝の上積みが期待できる。今年の阪神は面白いだけに、雑音はできるだけ少ないほうがいい」 阪神に選手、コーチとして在籍経験のある通算350勝投手・米田哲也氏の指摘は手厳しい。「ライバル球団の中日OBが阪神で教える。絶対にやっちゃいかんことです。たとえワンポイントでも直接選手にアドバイスすると、本人だけでなく現場のコーチが混乱する。私もキャンプで監督から選手を見てくれとよく言われるが、見たこと、気づいたことは監督やコーチに伝えればいいんです。不用意な助言で、選手がコーチを信用しなくなるのが怖い。そういった不安を、新人監督の矢野監督はわかっていないようだ」 矢野監督が乗り出した“開国政策”は吉と出るか、凶と出るか。※週刊ポスト2019年3月8日号
2019.02.25 16:00
週刊ポスト

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