帝政ロシアの政治改革に力を発揮した反面、反対派を徹底的に弾圧した(Getty Images)
しかし、次々に改革を成功させいていくストルイピンは、レーニンらの革命勢力はおろか、皇帝ニコライ2世からも危険視されるようになったという。
〈皇帝は、ストルイピンの改革が自分の権限を縮小させるとして、次第にストルイピンへの反感を強めます。
皇帝の信を失ったストルイピンは、1911年夏に首相の辞任を申し出ます。その辞表が受理されずに時間が経過する中で、ストルイピンは9月1日(グレゴリウス暦9月14日)にキエフで観劇中に、アナーキストで警察の手先であるドミトリー・ボグロフによって銃撃され、4日後に死亡します。
ストルイピンはヴィッテとともに帝政ロシアの最も優れた政治家でしたが、こうして世を去ります。帝政下で立憲民主主義を確立しようとする彼の改革は、テロリストの暴力によって葬り去られてしまいます。ロシアでは、それ以降も暗殺やテロが政治の手段となっていきます〉(前掲書)
では、現代ロシアの指導者・プーチンは、自らをどうストルイピンに重ねているのか。舛添氏が言う。
「『プーチンの世界』の共著者フィオナ・ヒルとクリフォード・ガディが言うように、『プーチンはピョートル・ストルイピンのような過去数世紀に活躍した国家主義者たちと自分を重ね合わせ、自らをロシア史の主役へと変身させた』のです。
たとえば、ストルイピンは新生のドゥーマに政府と協力する役割を期待しましたが、プーチンも同様に、現代のドゥーマ(下院)は大統領を支えるのが仕事だと喝破するのです」