この草案が作られた時期だが、西園寺自身の回想(『自伝』)では、第二次伊藤内閣で文部大臣に起用されたときとしている。これだと一八九四年(明治27)十月のことになるのだが、岩井忠熊立命館大学名誉教授はその著書『西園寺公望-最後の元老-』のなかで、これは西園寺の記憶違いで実際には第三次伊藤内閣のとき(1898年〈明治31〉)のことだと指摘している。
それは「第二の教育勅語」の「関係事務の取扱を特命されていた」竹越与三郎勅任参事官兼秘書官の談話筆記を根拠とする見解で、それによれば〈第三次伊藤内閣の文部大臣の時に成案ができていた〉が、〈西園寺が病臥したので、伊藤に対して竹越が西園寺の枕頭で閣議を開くことを要求し、伊藤の拒否にあって、竹越は辞表を出した〉とあるからだ(〈 〉内は前出岩井著作からの引用)。
この見解は正しいだろう。なぜならば、一八九四年の段階ではまだ日清戦争は始まったばかりであり「戦後」では無い。条約改正は一部(日英通商航海条約締結)進んでいたが、外国に対して「其危激ノ言行ニ?ハントシ、朋党比周上長ヲ犯ス」典型的な事例とも言うべき「閔妃殺害事件」も起こっていない。まさに「戦後」急速に盛り上がった「清国蔑視」あるいは「朝鮮蔑視」を直視し憂慮してこそ、この勅語の文言が生まれる。
それに、この第二勅語が結局日の目を見なかった事情も「竹越証言」ではある程度説明できる。もちろん「ある程度」であって、さらに考究しなければならないがそれは後回しにして、とりあえず内容の分析から始めよう。
「神」に等しい天皇は誤らない
まず大前提がある。それは「綸言汗の如し」という古くから伝わる言葉である。現在ではこの言葉の意味をすぐに語れる人間はきわめて少なくなった。だが日本という国では、古代から明治、大正そして昭和二十年に大日本帝国が崩壊するまでこの言葉は常識中の常識であったことを認識する必要がある。ではどんな意味かと言えば、「天子の言葉は、出た汗が体内に戻らないように、一度口から出れば取り消すことができない」(『デジタル大辞泉』)ということだ。
この辞書もそうだが、この言葉の出典は『漢書「劉向伝」』としている。劉向は前漢時代の著名な儒学者だから、この言葉は「四面楚歌」とか「五里霧中」などのように中国の故事成語だということだ。ところが実際に劉向伝を紐解いてみると、この言葉そのものは無い。それに近いのは、兵法にも通じていた劉向の「言号令如レ汗、汗出而不レ反者也(号令は汗の如し、汗は出でて反らざるものなり)」である。つまり綸言(天子=天皇のお言葉)では無く、号令(軍の命令)は一度出したら取り消せない、ということだ。おわかりだろう、この言葉はじつは「日本製」なのである。
中国ではいかに皇帝が偉いといっても、いったん口にしたことを絶対取り消せないなどというルールは無い。それはそうだろう、近代以前の中国で忠臣の義務として推奨されたのが「主君に諫言する」ことだった。よくよく考えてみれば、それはたとえ皇帝といえども「間違うことはある」が大前提だ。だからこそ「諫言」の価値が認められる。では、日本ではなぜ「綸言汗の如し」なのか? それは日本において天皇は神に等しい存在だからだ。
誤るのは「人間」であって「神」は誤らない。それでも天皇がなにか過ちを犯しているように見えたとしたら、それは天皇自身では無く取り巻きの悪臣つまり「君側の奸」が大御心(天皇の本心)に反することをやっているということだ。だからその場合は挙兵し、君側の奸を排除しなければならない。禁門の変(蛤御門の変)のときに長州藩が京都御所を攻めたのも、先の話になるが二・二六事件の青年将校が元首相や蔵相を射殺したのも、同じ考えに基づく行為である。
だから西園寺は勅語の「改定」や「刷新」をめざしたのでは無い。もちろん「補正」でも無い。補正とは「足りないところを補って、誤りを正すこと」(『デジタル大辞泉』)で、この言葉は「誤り」が存在することが前提になっている。だが、すでに出された教育勅語は「綸言(天皇のお言葉)」であり「汗の如きもの」だから「改定」はできないし、また「綸言」であるがゆえに「絶対正しい」から「補正」もできない。これはとくに堂上公家の出身である西園寺には、絶対に越えられない「障壁」である。