“日本プロレスの父”力道山が大相撲からプロレスに転向し、日本プロレスを立ち上げてから2023年で70年が経つ。力道山はすぐに国民的スターとなったが、1963年の殺傷事件で、39年間の太く短い生涯を終えた。しかし、力道山を取り巻く物語はこれで終わりではない──。彼には当時、結婚して1年、まだ21歳の妻・敬子がいた。元日本航空CAだった敬子はいま81歳になった。「力道山未亡人」として過ごした60年に及ぶ数奇な半生を、ノンフィクション作家の細田昌志氏が掘り起こしていく。第17話ではCAになるべくハードな「研修」が始まり、生活が一変していく。【連載の第17回。第1回から読む】
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第17話「10年は飛んでいられる」
3000人に1人という超難関を突破し、日本航空の客室乗務員採用試験に合格した田中敬子は、年が明けて1961年1月から3か月間の研修に入った。
当初は15名が合格したが、1人が辞退して14名の採用となった。結婚が決まったのだという。
「JALの試験を受けて合格するくらいだから、良家の子女であるのは間違いないと思うんだけど、年齢的にもお見合いと並行して試験に臨んでいた人も多かったの。実際に『結婚したら辞めなきゃいけない』っていう決まりもあったしね」(田中敬子)
今ならCAの採用を蹴って、結婚を選択する20代前半の女性は、おそらく皆無だろう。「外交官になりたい」という夢がありながら「スチュワーデスを辞めてから外交官になればいい」と叔母に諭され「それもそうだ」と悟った田中敬子は、ある意味、当世風と言えた。また、日航の男性社員からはこうも言われた。
「君は19歳だそうだね」
「はい、そうです」
「一番若いんだから、10年は飛んでいられるな」
独身という条件付きだが、30歳まではスチュワーデスの職に居続けられる暗喩である。敬子自身はこう回想する。
「同級生にも高校を卒業して、すぐ結婚する人もちらほらいました。縁談がまとまれば結婚をするという時代だったし、短大に行って結婚する子も増えてきてはいたと思う。でも、私の場合は予備校に行ってたくらいだから、縁談なんか最初からなかったし、あるわけないと思っていた。だから呑気に“よし、じゃあ、10年は勤めてみよっか”なーんて思ったりして」