桂亡き後「自分が首相になるための親分」を求めていた平沼と、「自分の理想を汚した国賊内閣を絶対に潰す」と考えていた山県とは、利害がピタリと一致する。「史料が無い」ですって? この二人は「冤罪デッチ上げ」および「汚職」の専門家ですぞ。「名人」と言ってもいい。証拠(史料)など残すはずが無いではないか。
これまで何度も紹介した『史話・軍艦余録 謎につつまれた軍艦「金剛」建造疑獄』(光人社刊)のなかで、著者の紀脩一郎は「わが国を亡ぼし、海軍を崩壊にみちびいた原因は三つある」と述べている。その第一に挙げているのが、この「軍艦『金剛』建造疑獄」によって「山本権兵衛、斎藤実両大将」が予備役に編入されてしまったことだという。予備役は通常の形で現役に復帰するのは不可能であるため、事実上の引退を意味する。
つまり「長州軍閥の独裁に対する強力な制動機となっていた、海軍というよりも実力者山本権兵衛の失脚は、陸軍の独裁への扉を開き、ひいては昭和軍閥台頭の布石となり、やがて敗戦への一歩を踏み出したことは否定できない歴史的事象である」ということだ。
この著者の立場を私は「海軍弁護人」と評したが、この見解つまり「軍艦『金剛』建造疑獄」によって山本・斎藤両大将が「失脚」したことが、「昭和軍閥台頭」を呼び「敗戦への一歩」となったことは、多くの史家、研究者が認める客観的事実だと思う。だからこそ、この「シーメンス事件」の陰に隠されてしまった「金剛・ビッカース事件(軍艦『金剛』建造疑獄)」の真相を究明することは、歴史のキーポイントを探ることにもなる。
じつはこの二人、のちに奇跡の復活を遂げた。元老西園寺の篤い支持によって、二人はともに首相となったのである。しかし、まず関東大震災(1923年〈大正12〉)直後に首相に返り咲いた山本は、共産主義者が摂政宮(のちの昭和天皇)を狙撃するという不祥事が起こったため総辞職に追い込まれた。
こうした「主義者」を追い詰めたのは陸軍・長州閥であって海軍・薩摩閥では無かったのだから不運もいいところだが、これで山本の政界復帰の道は閉ざされた。おそらく西園寺は唇を噛み、山県はもう死んでいたが平沼はこっそり祝杯を上げたのではないか。
「右翼」としての正義
ところが、平沼にとってまたも不愉快な事件が起こった。一九三二年(昭和7)五月十五日、首相官邸に武装した陸海軍の青年将校たちが乱入し犬養毅首相を射殺するという、五・一五事件が起こった。これが平沼にとって不愉快だったのではない。いや、むしろ愉快だったかもしれない。平沼は右翼で陸軍とも友好関係にあったから、こっそり祝杯を上げた可能性もある。なによりも愉快だったのは、陸軍が後継首相候補に平沼を考えだしたことだ。
ところが、その「平沼首相誕生」を潰したのが、元老西園寺であった。政党政治こそ本道と考えていた西園寺は、後継首相も政党人から選ぼうとしたが陸軍の反発が強くままならない。そこで妥協策として海軍穏健派の筆頭であった斎藤を天皇に推薦したのである。もちろん西園寺には、この非常時を利用して斎藤を復権させようという狙いがあったことは間違い無い。
このころ海軍は軍縮して英米と協調していこうという「条約派」と、英米との対決も辞さないという「艦隊派」が対立していた。「条約派」のリーダーであった斎藤は、当然「英米協調路線」の支持者である。斎藤がその後も現役として生き残れば、結局反英米親独路線をとったその後の日本あるいは陸軍に対する歯止めになったかもしれない。西園寺も当然それを期待していただろう。しかし、斎藤内閣はある疑獄事件で吹き飛んでしまった。帝人事件という。
〈帝国人造絹糸(株)(現、帝人)の株式売買が汚職として追及され、斎藤実内閣の倒壊を招いた事件。1927年金融恐慌で鈴木商店が破産したとき、子会社の帝人株を台湾銀行が担保としてとったが、台銀も日銀から特別融通を受けたため、その担保として同株は日銀に入れられた。その後、帝人が好調に業績をあげたので、同株を入手しようという動きが活発となり、33年5月財界グループ番町会の河合良成らが10万株を入手した。これに対し34年1月武藤山治(元鐘紡社長)経営の《時事新報》が〈番町会を暴く〉を連載して番町会の帝人乗っ取りで、中島久万吉商工相らも関与した不正があると攻撃、3月武藤の暗殺で疑惑が拡大した。東京地裁への告発を機に、4月関係者が拘引され、5月次官黒田英雄ら大蔵省幹部の逮捕に発展し、さらに中島、三土(みつち)忠造鉄道相にも取調べが及ぶ形勢に、7月3日斎藤内閣は総辞職した。被疑者には200日以上の長期拘留、革手錠などの過酷な扱いがなされ、〈司法ファッショ〉の非難を呼んだ。16名が背任罪・贈賄罪などで起訴されたが、37年12月虚構による起訴として全員無罪の判決が下った。平沼騏一郎を中心とする右翼勢力の倒閣策動に連なって仕組まれた事件とみられる。〉
(『世界大百科事典』平凡社刊 項目執筆者江口圭一)