力道山と森徹(右)
記者が訪ねるといきなり本人が…
この写真が第三者の手に渡ったのが1962年10月9日である。この日、力道山率いる日本プロレスは台東体育館で興行を行っている。力道山は『週刊明星』記者の美濃部脩を控室に呼んで、敬子の写真を手渡すとこう告げた。
「お前ならオレの好みはわかっているはずだから、名代になって、どんな人だか見てきてくれないか」(『週刊明星』1963年1月27日号)
美濃部脩は力道山が、自分に託した理由をこう述べている。
「七、八年前、私は力道山の主演映画の製作に関係している。リキさんとは、それ以来のおつきあいである。そこで、職業がら調査や取材には比較的なれている友人として、私に白羽の矢が立ったというわけだ」(同)
そこでまず、美濃部は横浜の田中家を訪ねた。当人に会うより先に、父親の田中勝五郎に会って感触を確かめようとしたためで「見ず知らずのお嬢さんにいきなり、『力道山とお見合いしませんか』などといったら、頭から☓☓☓☓扱いされるのがオチだと思ったからだ」(同)とある。
しかし、ここで思わぬことが起きてしまう。玄関の呼び鈴を鳴らすと、敬子本人が現れたのだ。美濃部はこう言う。
「私はいきなり本人の敬子さんと対面するハメにおちいってしまった。敬子さんは、これからパレス・ホテルで行われる、日航南回り線の開航記念パーティに出かけるところとかで、着かざった和服姿で出てきた」(同)
美濃部は動揺しながら「お父さんはいらっしゃいますか?」と尋ねると「父は母と中学生の弟二人と茅ケ崎の官舎に住んでいます。ここにいるのは、叔母夫婦と、日大に通う上の弟しかいません」と敬子は答えた。
「あまりにも荒唐無稽な話だった」
数日後、美濃部は茅ケ崎の官舎を訪ねている。週刊誌の一記者がここまでやるのは、「力道山結婚」という特ダネを掴むため以外なく、それだけ、大物スターとの関係性は、記者にとって今も昔も生命線である。
美濃部が茅ケ崎署長となっていた勝五郎に、力道山の意向を伝えると、大変な剣幕でこう返された。