高校入学後に行われた体力測定の「ソフトボール投げ」で50メートル投げたというエピソードも飛び出した
──運動の才能がありながら、演劇の世界へのめり込んでいったんですね。
演劇コンクールに出たとき、審査員の先生が褒めてくださったんですよ。それでプロでもやれると舞い上がっちゃって(笑)、高校を卒業したら上京して役者を目指そうと決めました。私は高知出身なんですが、そんな地方まで来て舞台をやってくれる劇団となると、俳優座とか文学座とかすごいところばかりなんですよ。「よし! 俳優座に入るぞ!」と大きすぎる目標を立てたはいいものの、その頃の俳優座には養成所がなくて、桐朋短大で演劇を学べば受験資格を得られる仕組みでした。それで桐朋短大に入学しました。
──ご両親に反対されませんでしたか?
ありがたいことに「好きなことをやりなさい」と送り出してくれました。ただ学費もそうだし、仕送りもそうだし、お金はかかりますよね。なので「25歳までやって芽が出なければ諦める」と約束しました。夢を追うタイムリミットとしては短いようだけど、やっぱり当時の田舎の感覚としては、結婚を考えるなら25歳も微妙な年齢だったんですよね。
声の仕事への葛藤
上京の際に「25歳までやって芽が出なければ諦める」と両親に約束したという
──役者として食べていけるようになったタイミングはいつ頃でしたか?
クラリスのときはアルバイト生活で、ナウシカのときもまだバイトをしていました。バイトを辞められたのは、ナウシカの後くらいだったかな。いろいろやりましたけど、一番安定して働けたのはパーティーコンパニオン(笑)。すっごく健全なやつですよ! 企業の社長就任パーティーなんかに呼ばれて、着物姿でお酌しました。スケジュールの調整が効くのがよかったんですが、着物は全部自分でそろえなくちゃいけませんし、美容院代もかかります。でもまぁ2時間で1万円もらえるから、なかなか良いですよね。
──女優を志望だった島本さんが、どういう経緯で声の仕事をするようになったんですか?
劇団の先輩が声の仕事をしていらっしゃって、「すみちゃん見学に来ない?」と誘われて現場に行ったら、ちょっとしゃべってみることになりました。それがきっかけで『ゼンダマン』で声優として本格デビューしました。