1982年、シャンソニエの老舗・銀座「銀巴里」でプロ活動をスタートしたクミコ
残間里江子氏のコメント
私が初めて「シャンソン」を意識したのは金子由香利さんの歌を聴いた時です。月刊誌から人物評を書かないかとの誘いを受け、その第一回のゲストが谷村新司さんでした。インタビュー当日、話が一段落した時、谷村さんが「これを聴いてみて」と言って、聴かせてくれたのが金子さんのアルバムでした。
「僕が今一番素敵だと思っているアーティストなんだ。銀座7丁目の『銀巴里』というシャンソン喫茶で歌っているから、是非聴きに行って!」と勧めてくれたのです。決まった仕事がほとんどない浪々の身でしたから、早速「銀巴里」に行き、金子さんの生の歌を聴きました。囁くようなピアニッシモ。物語が目に浮かぶ独り芝居のようなステージ。その日を境に私は金子さんが出演する日は「銀巴里」にいました。
そんなある日『週刊現代』の浅利慶太さんの連載対談に山口百恵ちゃんがゲストで出ていたのを見つけました。読み進めていくと彼女が発した「一言」が目に飛び込んで来ました。浅利さんが「好きな歌手は?」と問いかけた時、百恵ちゃんは「金子由香利さんです」と答えたのです。当時百恵ちゃんは19歳。私は記事をコピーして西武劇場に持って行き交渉を続けました。
しかし、それだけでは了承を得ることはできませんでした。そこで直接百恵ちゃんに会って、金子由香利さんに対する思いを語ってもらおうと百恵ちゃんの所属事務所に取材要請をしたのですが、トップアイドルだった百恵ちゃんに実際に会えたのは2ヶ月ぐらい経った頃でした。
取材時間はラジオ番組の収録の合間の15分間です。有楽町ニッポン放送の旧社屋。スタジオ脇の椅子に座った百恵ちゃんは取材意図を聞くと、持っていた自分の手帳を1枚破いて、万年筆で7行ほど金子さんへの賛辞を記してくれました。通常は喋り言葉でコメントを言い、それをこちらがリライトするという段取りになるのですが、百恵ちゃん自らがペンをとって文章を書いたことに少なからず驚きました。文章の仔細は覚えていませんが「いい文章だった」という記憶はあります。私はこの時素直に「ああ、書くことが好きな人なのね」と感じていました。
嘆願書のようなこの直筆コメントの効果はてきめんで、1979年3月、金子さんのコンサートは実現しました。百恵ちゃんも忙しいスケジュールの合間を縫って劇場に駆けつけてくれました。ふだん感情をあまり表に出さないと言われていた百恵ちゃんでしたが、ハンカチで涙を拭いながら金子さんの歌に聴き入っていました。谷村さんも自身の深夜放送でPRをしてくれて3日間の公演は満員でした。