普段は都内で暮らす愛之助(左)と紀香(写真は2023年1月)
「人は骨壷に入ったら終わりや」
中世には海外交易の拠点として繁栄し、「東洋のベニス」と称された堺市。1972年、愛之助はこの町に生まれた。一家は歌舞伎とは縁がなく、愛之助の祖父が貨物船などのスクリュープロペラを作る町工場を経営し、父もその工場で働いていた。
「工場は繁栄して多くの人が働いており、広大な敷地内にある自宅で愛之助さん家族は3世代で同居していました。愛之助さんは家の中で遊ぶことが多く内向的な子供でしたが、工場で働く人たちと入る大きなお風呂は大好きだったそうです」(愛之助の知人)
あまり外で遊ばず内向的だった愛之助を不憫に思った両親は、「友達作りの一環」にと5才の息子に松竹芸能の子役オーディションを受けさせた。以降、愛之助は松竹芸能の稽古場に出入りするようになり、7才で子役としてテレビドラマに初出演した。1981年、小学4年生のときに人生の一大転機が訪れた。歌舞伎役者としての将来性を二代目片岡秀太郎さんに見込まれ、梨園の世界に誘われたのだ。
「松竹といえば、歌舞伎の製作、興行を担う会社です。彼が通っていた稽古場にも歌舞伎関連の人が出入りしていたこともあり、興味を抱いた愛之助さんは、早くから歌舞伎の稽古も始めていました。
才能豊かな愛之助さんは小学2年生のときには大阪・中座で歌舞伎の舞台に立っていました。その姿に魅了された秀太郎さんのとりなしで、十三代目片岡仁左衛門に弟子入りし、『片岡千代丸』を襲名。実子と同じように楽屋で行儀や芸を教えられる『部屋子』として歌舞伎を学び始めました」(歌舞伎関係者)
厳しい梨園の世界に飛び込み、一人前の歌舞伎役者を目指すようになった頃、愛之助一家は同じ堺市内にある、現在の実家に引っ越した。
「愛之助さんは実家から中学、高校に通いながら舞台や稽古に明け暮れていました。忙しくて自由な時間はあまりなかったでしょうが、時折、ご両親や妹さんと楽しそうに団らんする姿を見かけました」(愛之助の両親の知人)
中学2年生で初めて女形を演じ、歌舞伎役者としての幅を広げた。その後も努力を重ねて精進したが、“血筋”を何よりも重んじる歌舞伎界には「ガラスの天井」が厳然と存在し、たとえ部屋子であっても町工場に生まれ育った愛之助に与えられるのは、せりふのない役ばかりだった。
どれほど才能があったとしても、家柄や血統が重視される門閥中心の歌舞伎界でどこまで活躍できるのか──高校卒業を控えた愛之助はこの問いに頭を悩ませた。このとき、奔走したのが愛之助の母だった。
「息子の将来を案じたお母さんは、大学に進学させた方がいいのではないかと真剣に悩みました。そして愛之助さんの師匠にあたる秀太郎さんの元を息子に内緒で訪れ、どうすべきか相談しました。秀太郎さんは熟考の末、愛之助さんを自らの養子として迎え入れることを提案したんです」(前出・歌舞伎関係者)