愛之助を養子に迎えた秀太郎さん
秀太郎さんの養子になれば、上方歌舞伎の名門・松嶋屋の正式な継承者として、梨園での地位を確保できる。だがそれは、両親との決別を意味した。愛之助の背中を押したのは、ほかでもない父と母だった。
「愛之助さんに対してお父さんは“一生の仕事にする気なら最高の環境に行きなさい”と声をかけ、お母さんも“やりたいことをやりなさい”と告げて後押ししました。長男である愛之助さんを養子に出すのは両親にとってつらい決断だったでしょうが、息子の将来のためだと心を決めて快く送り出した。愛之助さんも両親の思いを汲み取り“絶対に歌舞伎で成功する”と決意を新たにしたといいます」(前出・歌舞伎関係者)
1992年、19才の愛之助は秀太郎さんと養子縁組をし、思い出の詰まった実家を去り、同年、大阪・中座の「勧進帳」の駿河次郎役などで六代目片岡愛之助を襲名した。その晴れ舞台を、両親は万感の思いで見つめていた。
「愛之助さんが家を出てからも両親は時間が許す限り舞台に足を運び、“わが子”の活躍を見守りました。みるみる成長する愛之助さんを目の当たりにして、お母さんが『私があの子にしてあげられることはもうなくなりました』と嬉しさと寂しさが入り交じった表情で語ったことが忘れられません」(前出・愛之助の両親の知人)
養子縁組後、名題に昇進するなど躍進を遂げた愛之助は、のちに悲劇に見舞われた。前述の通り、1999年に母が末期がんで他界し、2000年に父がくも膜下出血で急逝したのだ。
母が亡くなったとき、愛之助は20代。子役時代から舞台に上がる愛息を見守り続け、梨園の慣習に胸を痛め秘かに秀太郎さんに直訴して養子縁組への道を開き、他人の子供となることを快く許した母の非業の死。悲しみに暮れる愛之助を奮い立たせたのは父だった。『いきいき』(2014年8月号)のインタビューで、愛之助は母の骨壺を見つめながら父が残した言葉を明かした。
《そのとき骨壺を見て実父はこう言ったんです。「なあ、寛之(本名)。人は骨壺に入ったら終わりや。だから、自分が納得して生きられる人生を歩みなさい」と。その父も1年後、くも膜下出血で帰らぬ人となりました。父の言葉が、僕に大好きな歌舞伎役者として生きる覚悟をくれたんです》
亡き父の言葉を胸に、愛之助は歌舞伎役者として精進を重ね、大舞台に立ち続けた。さらに現代劇にも進出すると数々の賞を受賞。2013年にはドラマ『半沢直樹』(TBS系)のエリート官僚役で大ブレークし、2016年には藤原紀香と結婚するなど、歌舞伎以外の活動でも注目を集めた。
一般家庭出身という“ハンデ”を背負いながら歌舞伎界で頭角を現し、「納得して生きられる人生」を求めて、いまも歩みを止めない愛之助。そんな彼にとって愛する家族と過ごした実家はかけがえのないものだ。
「愛之助さんが養子縁組後も、さらに結婚後も本籍を実家に置いたままなのは、ここに“家族との絆”があるからです。彼にとって堺の実家は家族とともに過ごした大切な場所であり、両親、妹と自分をつなぎとめる存在でもあります。妹名義とはいえ、建物を売ったり更地にしないのは愛之助さんの意向も働いているのでしょう」(前出・愛之助の知人)
