ゲルマン民族vsスラブ民族
その大公夫妻を拳銃で射殺したのが、セルビア人テロリストのガヴリロ・プリンツィプである。産業革命によって欧米列強が台頭する以前は、西ヨーロッパの領域はイスラム系のオスマン帝国に深く侵食されていた。西洋文明の源流であるギリシアですらオスマン帝国の支配下にあって、住民は「潜伏キリシタン」となってキリスト教への信仰を維持していた。
しかし、西欧社会が産業革命そして市民革命による近代化によって軍事的にも強国になったのに対し、東洋における中国と同じように西洋におけるオスマン帝国はこうした近代化ができず没落への道をたどった。明治以前の日本が下関戦争や薩英戦争で惨敗したように、オスマン帝国のキリスト教徒支配はあらゆる地域で打ち破られた。
ちなみに、日本はその惨敗がきっかけで西洋近代化の道を歩んだが、中国・朝鮮はそれに失敗したことはすでに述べたとおりだ。しかしオスマン帝国の中核を占めるトルコ民族は日本を見習って近代化を成し遂げようという路線を歩み、それがトルコ共和国への成立とつながった。それゆえ、トルコは大の親日国なのである。
一方、セルビア人はゲルマン系では無くロシアと同じスラブ系で、宗教もキリスト教東方教会の流れをくむセルビア正教であった。セルビアの歴史は長く複雑なので要点だけ言うと、オスマン帝国の全盛期にはギリシアなどと同じくその支配下にあったが、その弱体化にともなってセルビア王国として独立した。問題はオーストリア=ハンガリー帝国の領域にもセルビア人の居住区があったことだ。
当然そこに住むセルビア人はセルビア王国との合体を望む。一方、オーストリア=ハンガリー帝国から見ればそれは帝国からの分離独立運動であり、いたずらに放置しておけば帝国の解体にもつながりかねないから、徹底的に弾圧することになった、逆にセルビア王国は分離独立運動を支援していたが、その推進母体が黒手組(セルビア語で「ツルナ・ルカ」)というテロ組織である。英語名「ブラックハンド」とも呼ばれる。
この組織の目的は、国外にあるセルビア人居住地域をすべてセルビア王国に組み込むことである。これを大セルビア主義と呼び、彼らはとくにオーストリア=ハンガリー帝国領であったボスニア・ヘルツェゴビナ(セルビア人居住者が多く、中心都市はサラエボ)の「奪還」を目標としていた。
それでは、この黒手組はセルビア国王に忠実だったかと言えば決してそうでは無く、創設者アピスことドラグーティン・ディミトリエヴィッチはセルビア国軍の青年将校でもあったにもかかわらず、セルビア国王アレクサンダル1世オブレノヴィッチを王妃とともに暗殺している。共和制を志向していたからであった。
こうした背景のなか、この大公夫妻暗殺事件が起こった。暗殺犯は直ちに逮捕されたが、オーストリア=ハンガリー帝国にとってセルビア王国の「行動」は見逃すことはできない。大公夫妻暗殺事件の一か月後の七月二十八日、オーストリア=ハンガリー帝国はセルビア王国に宣戦布告した。この際、大セルビア主義を叩き潰すしかない、と思い定めたのだろう。
当初、この戦いはオーストリア=ハンガリー帝国とセルビア王国の2か国間の限定戦争であり、軍事的に優位なオーストリア=ハンガリー帝国の勝利に終わると考えられていた。ところが、そうは問屋が卸さなかった。