しかしオーストリア=ハンガリー帝国については、この暗殺事件(サラエボ事件)の原因に関わることだから、説明を省略するわけにはいかない。この国はオーストリア=ハンガリー二重帝国ともいう。オーストリア帝国がハンガリー王国を支配する形態で、ハプスブルク家のオーストリア皇帝がハンガリー国王を兼任するので「二重帝国」という。

 現在はオーストリアもハンガリーも共和国(君主のいない国)で、公用語もオーストリアは基本的にドイツ語、ハンガリーはハンガリー語であり、民族的にも異なる。つまり、この事件の背景には民族的対立があった。ハプスブルク家はドイツ、正確に言えばゲルマン系で、「神聖ローマ帝国およびオーストリアの王家。10世紀なかば南ドイツに興り、13世紀以降しばしばドイツ国王に選ばれ、1438年から1806年まで神聖ローマ皇帝、また1918年までオーストリア皇帝を占め、その間1516年から1700年までスペイン王、1867年以降はハンガリー国王を兼ねた」(『デジタル大辞泉』小学館)という名家である。

 ちなみに「神聖ローマ帝国」とは、「962年、オットー1世がローマ教皇の手で戴冠してから、1806年、ナポレオンに敗れたフランツ2世が帝位を辞するまで続いたドイツ国家の呼称。11世紀が全盛で、以後は衰退。13世紀以後は七選帝侯の互選で皇帝を選出したが、1438年以降はハプスブルク家が帝位を独占した」(引用前掲書)というものである。なぜ国王では無く皇帝なのかと言えば、「ローマ教皇が戴冠」したからである。

 これも前に述べたことだが、本来「皇帝」「国王」は中国語であり、皇帝は中国全土の支配者で国王はその皇帝の臣下である周辺国家の首長を指す。つまりこれらは純然たる東洋史の用語であるにもかかわらず、明治期の日本の西洋史学者はまったく異なる概念である「エンペラー」と「キング」の翻訳として皇帝と国王を採用してしまった。本来なら混乱を避けるためまったく別の、たとえば「教皇」のような新しい訳語を造るべきであった。

 ヨーロッパ社会において「皇帝」、正確には「ローマ皇帝」とはローマ帝国という多民族多宗教国家を総合的に支配する国の首長を指し、原則として一民族しか支配していない首長は国王と呼ぶ。ただ本当のローマ帝国が滅びてしまった後、西欧においては教皇がローマ帝国の後継者と認めた君主に対し、皇帝の冠を授けることによってそれを追認するという慣習ができた。

 たとえば、西欧をほぼ統一したカール1世(シャルルマーニュ、チャールズ)は、紀元八〇〇年に教皇から皇帝と認められた。だから単なる国王では無くカール大帝(偉大なる皇帝)なのである。逆にそういう習慣が成立する以前に実質的な世界帝国を築いたアレクサンドロスは、大王と呼ばれても大帝とは呼ばれない。またナポレオン・ボナパルトはフランス革命後、勝手に自分で戴冠して皇帝を名乗った。だからブルボン王朝のルイ一族は国王ではあるが皇帝では無いのだ。

 そしてアドルフ・ヒトラーのナチス・ドイツが第三帝国と名乗ったのも、神聖ローマ帝国の後継者だという意識があったからである。イギリスと革命以前のフランスは王国であったのに、ドイツとロシアは皇帝が君臨していたのもそういう事情による。ポイントは一民族一国家では無く、多民族を支配する帝国の首長だということだ。

 いまでこそオーストリアと言えばモーツァルトなど多数の芸術家を生み出した文化国家であるというイメージが強いが、第一次世界大戦までは列強の一員であった。だから民族的にはまったく違うアジアにルーツを持つマジャール人の国であるハンガリーを支配していた。そして、この時点でオーストリア皇帝の皇太子は早死していたため、皇帝の甥であるフェルディナント大公が後継者であった。

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