その直後、川口は原田を訪ねた。
「グラウンドにやってきたあいつが、『監督さん、グラブいりますか?』と言うんです。左利き用やったら使うよと伝えると、車まで取りに戻ってくれた。『良かったら使ってください』と渡されたグラブをよく見ると、『69』という現役最後の背番号が書かれていたんです……」
それはトライアウトで使用した、現役最後のグラブだった。回顧した原田が突然目を赤らめ、嗚咽するように続けた。
「そういう言い方しかできないんです。そういう形でしか感謝の気持ちを伝えられないんです。あいつ、ほんまにええヤツなんです」
かねてより原田は川口を後継者として公言してはばからなかった。自身が初めて甲子園にたどり着いた時のエースに対する感謝の気持ちが強く、プロで苦労した経験や女子野球に10年以上携わった経験が平安でも活きると考えていた。
だが、川口本人はそうした「後継指名」を直接、原田から聞いたわけではなかった。
「報道を見た知人から僕も知らされて、監督からは何も聞いていなかった。女子野球に携わっている間は、高校野球の指導者になろうとか、母校に戻りたいというような気持ちはなかったんです。ただ、監督がそういう思いでいてくださるなら、準備をしておかないといけないと思っていました」
昨年4月、龍谷大平安の職員として採用が決まり、野球部のコーチに就任。現在は主に投手陣の指導を原田に任されている。もちろん、監督生活30年目を迎え、63歳になる原田が公言してきたとおり将来的な禅譲を見据えているのは間違いない。
◆820球投げても疲れなかった
1年夏の京都大会で、平安は斉藤和巳(元・福岡ソフトバンク)のいた南京都(現・京都廣学館)と対戦する。プロのスカウトが福知山球場のネット裏で見守る中、1年生の川口は「1」を背負って先発マウンドに上がるも、2対5で初戦敗退した。
「とにかく斉藤さんがエグいボールを投げていて、衝撃を受けたんです。191cmの高身長から、スリークオーターで投げて来て、めっちゃ手が長く見えるんです。そして、145キロぐらいのストレートが蛇のような軌道でストライクゾーンに飛び込んでくる。プロを目指すのであれば、このボールを投げられるぐらいのところまで到達しないといけないと思いましたね。夏の甲子園で対戦した(1歳下の)藤川球児(高知商)もすごかったんですが、斉藤さんほどの衝撃はなかった」
試合後、球場から出ようとしていた川口と原田の間に平安ファンが割り込み、原田に暴言を浴びせ、怒鳴り合いに発展したのは原田の熱血漢ぶりを表す有名なエピソードだ。
「監督が10人ぐらいに囲まれて。怒鳴り合いを耳にしながら、『オレのせいやな』と落ち込みましたね。でも最後、別れ際に監督がそのファンの方々に『みとけ、(甲子園に)連れてったるわ!』と言うてはったんです。その言葉に応えないといけないと思いました」
川口にとって高校時代は、走った記憶しかない。
「ずっと走っていました。とにかくずっとです(笑)。同級生が11人しかいなかったので、投手メニューをやるのは僕だけやったんですが、基本的には毎日がマラソンです。当時の亀岡グラウンドは外周が1キロぐらいあった。アップダウンの激しいその外周を、毎日最低20周(笑)。その上で、坂道ダッシュ50本とか、100本とか。監督から優しい言葉をかけられることなんて、当時はありません。毎日、監督に言われるのは『全部終わったか?』だけ。『終わっていません』と口にする時が一番怒られました。
スタミナや制球を安定させるためにも、下半身の強化は大事ですけど、走ることで一番培われるのは精神力ですね。こんだけやったヤツはおらんやろという自負はありましたし、おそらく日本の当時の球児で一番走ったんちゃいますかね。だから最後の夏の甲子園で820球を投げても、身体は疲れなかった。疲れたのは肩だけでした」
◆プロでの7年間があってこそ
件のビッグマウスも、それだけ練習したという自負があったからこそ口を滑らせてしまったのだ。プロ入り後、すぐに投球フォームを矯正され、左肩を痛めた。
「僕は投げる時、(軸足である)左足の膝を折るフォームだった。膝を折ることで、腕を回す時間を生み出していたんですね、ところが、膝を折るなと指導された。すると、腕を高く上げるための時間がなくなってしまうので、ヒジが下がった状態で投げることになる。のちのち理解したことですが、これが左肩を痛めた要因でした。その後も、いろんなコーチからいろんなアドバイスを受けましたが、そのすべてがしっくりこなくて、そこから彷徨い続けてイップスになりました。自分に合う投球フォームを試行錯誤しながら、気がつけば3~4年が過ぎていた」
2年目の1999年に1試合の登板があるとはいえ、2軍が居場所だった川口が1軍で投げ始めたのが2002年だ。当時、2軍の投手コーチだった酒井勉の一言は、川口にとって目からうろこだった。
「ある時、『お前はバント処理をしている時の投げ方が一番動きがスムーズやで』と言われたんです。バントを捕球して、素速く二塁に投げる時の動きが一番腕が振れている、と。バント処理の時の動きを自分なりに分解して、それを投球フォームに落とし込んでいくと、初めてしっくりきたんです。アプローチの仕方を変えるだけで、それまで目の前に広がっていたもやが晴れていきました」