街は歩き回って身体で覚える
「舞台を小金井にしたのは、コロナで行動制限がかかる中、地元の近くなら比較的歩き回れると思ったことと、中島飛行機の武蔵製作所がB29の初空襲の標的になり、結局は計9度に及ぶ攻撃で200名以上が亡くなった事実を知ったからでした。
実はこの空襲は史料自体乏しく、方々を歩き回り、武蔵野市や小金井市側にもいろいろ聞いて、ようやく被害の実態が見えてきた。元々私はその街をここからここまで何分とか、身体で覚えるタイプなんです」
そんな傷心の悌子を支える下宿先の面々がいい。気丈な下町っ子の朝子に、その母で悌子を権蔵の嫁に見込んだ〈富枝〉と何かにつけて毒舌な姑の〈ケイ〉。片腕を失いながら料理人を続ける朝子の夫〈茂樹〉や、彼らの娘〈智栄〉や長男の〈茂生〉。そして兵役にもとられない虚弱な自分を呪い、友人のラジオ運搬の仕事をたまたま手伝った縁で構成作家を志すことになる権蔵も、悌子とは体型も性格も真逆ながら、肝心な時に肝心な一言をサラリと言える憎めない人物なのだ。
「戦争中は大本営発表とか空襲の程度を聞くためのものだったラジオでジャズが流れた瞬間や、GHQの下で自分達なりの娯楽を模索した時代を私は書きたくて、権蔵はそういう表現者になりそうな気がしたんです。
私が戦争や世の中が逼迫して一番イヤだと思うのは、一つのものしか選べなくなることなんですね。2011年の東日本大震災の時も私は被災者にお勧めの本をやたらと訊かれましたが、自分が好きでもないものを押し付けられるだけで尊厳を奪われた気分になるだろうし、緊急時ほど流れが一本化されていくのが本当に怖い。
戦争や疫病でも何か一つ事が起きると個人の生活はもろに影響を受け、しかも人って得体の知れない恐怖を前にすると必ず誰かのせいにしたくなるんですよね。本当は国がおかしいぞってみんなで言うべき時なのに、同じ目に遭った仲間を叩き、そこは人類がいくら歴史に学ぼうと、懲りずに繰り返しそうな感じもするので」
そうした愚かさは戦争がなくとも引き出されるだけに、弱さも強さも両方併せ持った悌子や権蔵や息子の〈清太〉が、お互いに依存することなく思い合う姿はこの上なく心強い。たとえ血は繋がらなくても、三つ葉の雑草でも、彼らは彼らなりの幸せを自ら紡いでいける、紛れもない家族だった。
【プロフィール】
木内昇(きうち・のぼり)/1967年東京生まれ。中央大学文学部卒。出版社勤務を経てフリー編集者及びライターとして活躍し、2004年『新選組幕末の青嵐』で小説デビュー。『茗荷谷の猫』で話題となり、2009年に早稲田大学坪内逍遥大賞奨励賞。2011年『漂砂のうたう』で第144回直木賞。2014年『櫛挽道守』で第9回中央公論文芸賞と第27回柴田錬三郎賞と第8回親鸞賞。著書は他に『笑い三年、泣き三月。』『ある男』『光炎の人』『球道恋々』『万波を翔る』『占』『剛心』等。167cm、B型。
構成/橋本紀子 撮影/国府田利光
※週刊ポスト2023年8月18・25日号