一九一六年(大正5)二月に始まったヴェルダン要塞攻防戦は、独仏軍合わせてなんと約二十六万人の戦死者が出た。二万六千人では無い、二十六万人である。そのうちドイツ軍の戦死者は十万人を数えた。「乃木は一万五千人の犠牲で旅順要塞を陥落させたが、ファルケンハインは十万人の戦死者をもってしてもヴェルダン要塞を落とせなかった」のである。
もちろん要塞の構造などさまざまな相違点はあるが、この戦いで近代要塞の重要性というものが再認識された。とくにこの時点では兵器としての航空機がまだ初期の段階で、空からの効果的な爆撃というものが不可能だったので要塞が見直されることになった。
戦争が長期化すると、現在のウクライナ戦争もそうだが、「落としどころ」を誰もが考える。タッグを組んでいた英仏両国が取りあえず恐れたのは、ロシアが単独でドイツと講和を結ぶことだった。日本でも小牧・長久手の戦いに敗れた羽柴秀吉は、敵つまり徳川・織田連合軍の一方の盟主である織田信雄と単独講和を結ぶことによってピンチを免れたが、海千山千のロシアがなんらかの利益を得ることを条件に「対独包囲網」から離脱する可能性は、じゅうぶんにあった。
ドイツに勝つには西(フランスとイギリス)と東(ロシア)で挟み撃ちにしてこそ効果がある。そのロシアを離脱させないためには、なにか「アメ」を与える必要がある。そこでイギリスが音頭を取って、一九一六年五月にサイクス=ピコ協定が結ばれた。これは、勝利の暁にはドイツに味方したオスマン帝国をどのように分割するかというもので、イギリス代表マーク・サイクスとフランス代表ジョルジュ・ピコの名前で知られているが、じつはロシアも参加していた。
というよりもイギリスがロシアを味方にとどめるために、「アメの分割協議」にロシアも「入れてやった」のだ。まるでケーキを切るように単純な直線でオスマン帝国を分断するというやり方は、後に中東問題の複雑化を招き、いまでもその悪影響は残っていると言えよう。
中東問題の複雑化と言えば、アラブ民族にこの地にアラブ国家の建設を約束した一九一五年十月のフサイン=マクマホン書簡と、ユダヤ人民族にはこの地にユダヤ国家を再建することに同意した一九一七年のバルフォア宣言、つまり後にイギリスの「三枚舌外交」が展開されたのも、この第一次世界大戦中である。勝つためには手段を選ばないということだ。
その点はドイツも同じである。ロシアでは帝政に対する国民の長年の不満が爆発し、ついに一九一七年、革命が起こった。それは最初のうちは小規模なものでリーダーであるレーニン(本名ウラジーミル・イリイチ・ウリヤノフ)もスイスにいたためいま一つ盛り上がらなかったのだが、革命成功の絶好のチャンスと見たレーニンは、「敵の敵は味方」とばかりにドイツと交渉した。われわれをドイツルートでロシアに送ってくれ、というのだ。ドイツはドイツ通過時に他の人間と一切接触しないことを条件に列車を仕立ててレーニンらをロシア国内へ送り込んだ。世に名高い「封印列車」である。
この「毒物の注入」は大成功で、ロマノフ王朝は倒されロシアはソビエト連邦となり戦線から離脱した。しかし、一方でアメリカが参戦しドイツに宣戦布告したため窮地に追い込まれたドイツでは反乱が起こり、帝政は崩壊した。この間オーストリアでも帝政が崩壊し、オスマン帝国は降伏していた。力尽きたドイツ(もはや帝国では無い)は一九一八年十一月十一日、事実上の降伏文書にサインし四年三か月にわたった大戦はようやく終結した。
あとは、戦後体制をどのように築くかである。
(「国際連盟への道5」編・完)
【プロフィール】
井沢元彦(いざわ・もとひこ)/作家。1954年愛知県生まれ。早稲田大学法学部卒。TBS報道局記者時代の1980年に、『猿丸幻視行』で第26回江戸川乱歩賞を受賞、歴史推理小説に独自の世界を拓く。本連載をまとめた『逆説の日本史』シリーズのほか、『天皇になろうとした将軍』『「言霊の国」解体新書』など著書多数。現在は執筆活動以外にも活躍の場を広げ、YouTubeチャンネル「井沢元彦の逆説チャンネル」にて動画コンテンツも無料配信中。
※週刊ポスト2024年1月12・19日号