名将の名を辱める「出来の悪い甥」
ドイツが電撃作戦で最短攻撃ルートのベルギーへ侵入(通過)作戦を取ったことは、イギリスに参戦の口実を与えてしまった。当然この事態は予測できていたのだが、それでもドイツがこの作戦に踏み切ったのは、シュリーフェン・プランというあらかじめ準備された戦略計画があったからだ。
地図を見れば一目瞭然だが、ドイツは東にロシア、西にフランスという二大強国に挟まれている。そして、これもすでに述べたとおり二十世紀初頭のドイツは、さまざまな事情からロシア、フランスと対立を深めていた。そこで、この時期に露仏両国と同時に戦端が開かれた場合どうやって戦うべきかを陸軍参謀総長だったアルフレート・フォン・シュリーフェンが策定した。これがシュリーフェン・プランである。
ドイツはまずフランスに対し可能な限り迅速に攻撃して主力を撃滅した後にロシアに侵入し、態勢が整わないうちに撃破するというもので、これがうまくいけば戦争はたった六週間で終わるはずだった。だが、世の中はすべてプランどおりにうまくいくとは限らない。しかも、この時点で肝心のシュリーフェンはこの世を去っていた。そこで、このプランは次の参謀総長「小モルトケ」ことヘルムート・ヨハン・ルートヴィヒ・フォン・モルトケによって実行されることになった。あの「大モルトケ」ヘルムート・カール・ベルンハルト・フォン・モルトケの甥である。
「大」は普墺戦争(1866年)、普仏戦争(1870年)で祖国プロイセンを勝利に導きドイツ帝国の誕生に貢献した名将だが、「小」はその伯父の名を辱める出来の悪い甥だった。まずベルギーに侵入したのは最短ルートでフランスを撃破するためだったが、ベルギー軍の抵抗に遭ってなかなかフランスに入れなかった。愚図愚図しているうちにロシア軍が態勢を整えて攻めてきたので、慌てたモルトケは対フランスつまり西部戦線から数個師団を移動させ参戦させた、その甲斐あって対ロシアつまり東部戦線ではタンネンベルクの戦いに勝利した。
だが、その後がいけない。この師団移動で西部戦線が弱体化したため、九月に始まったフランスとのマルヌの戦いでドイツ軍は敗退してしまった。じつはシュリーフェン・プランの眼目は「緒戦は全力を集中して(手強い)フランス軍を叩け。ロシア軍はその後でいい」というものだったのに、モルトケは目先の勝利にこだわってシナリオを台無しにしてしまったのである。結局、西部戦線も東部戦線も膠着状態になってしまった。持久戦、消耗戦の様相を呈し、戦争は長期化することになった。
同月、モルトケは敗戦の責任を取る形で更迭され、後任の参謀総長にはエーリッヒ・ゲオルク・セバスチャン・アントン・フォン・ファルケンハインが就任した。彼は西部戦線重視の姿勢に徹した。フランスを集中的に攻撃して消耗戦に追い込み、まず戦争から脱落させようという作戦だ。そこで目を付けたのが、パリ防衛の要ともいえるヴェルダン要塞だった。簡単に言えば、この要塞を完全包囲し「兵糧攻め」して陥落させ、フランス軍の戦意を喪失せしめようということだ。
この攻防戦、前に乃木希典の旅順要塞攻防戦を分析したときに何度も引き合いに出したのを覚えておられるだろうか。簡単に繰り返せば、「日本の陸軍参謀本部は乃木が旅順要塞を陥落させるため一万五千人も兵を失い、四か月もかかった」とまったく評価しなかったのだが、ロシア軍の総司令官つまり敵将クロパトキンは、「あのように堅固な要塞をわずかの犠牲で、しかも四か月という短期間で陥落させるとは、乃木は名将の中の名将だ」と考えた。
皮肉なことにエリートぞろいの陸軍参謀本部の考えよりも、敵将クロパトキンのほうが事態を正しく見ていたのだが、そのことは日本側の常識とはならなかった。