紫式部についたあだ名は「ガリ勉」
かように共通点の多い2人だが、性格は対極だった。
「清少納言は明るく積極的。自由にズバズバものを言うタイプで、自分の教養を隠そうとはしなかった。強気で明るく、自分が一番じゃなきゃ嫌だという性格ですが、社交的で宮中に出入りする役人の男性たちからの人気も高く、彼らと即興で漢詩のやりとりなどもしていました。
宮仕えをする女性が軽んじられる当時、清少納言は『枕草子』のなかで、“宮仕えする女の悪口を言う男は、本当に憎たらしい”といったことを書いていて、陰口などにも毅然とした態度を貫いていたことが読み取れます」
かたや紫式部は、『紫式部日記』の内容から、かなり内向的で暗い性格だったことがうかがえる。
「清少納言とは対照的に、悲観的で他人からの評判ばかり気にするような、繊細な人だったようです」
宮中では同僚から、いじめを受けていたという。
「彰子には20人くらいの女房がいましたが、彼女が“鳴り物入り”で道長にスカウトされてきたことから、あまりいい感じを持たれていなかった。一緒に働く女房に無視されたりして、一度実家に帰ってしまったこともありました。
同じ牛車に乗った身分の高い女房に“嫌なヤツと乗ったわ”とボソッと言われたり、天皇が“『源氏物語』を書けるような人に『日本書紀』という歴史書の講義をしてほしい”と言ったことから、“日本紀の御局”というあだ名をつけられたりしました。それについても日記にグチグチと書き連ねています」
“日本紀の御局”とは、今風にいえば“ガリ勉”といった嫌み。こうした陰口を叩かれないよう、紫式部は「一」という漢字すら書けないふりをして教養を隠すなど、目立たないよう努めていたという。
「漢詩に興味を持った彰子に、中国の詩人・白楽天の『新楽府(しんがふ)』をレクチャーしてほしいと頼まれたときも、ほかの女房たちに気づかれないように、こっそり2人きりで講義したそうです」
そんな紫式部にとって清少納言は、たとえ面識はなくても「意識せざるをえない相手」だったのだ。
「日記のなかで清少納言を批判すると同時に、自分を卑下することも長々と綴っています。清少納言をひどくこき下ろしたのも、“本当は清少納言のように、他人の目を気にせず、自分をさらけ出してみたい”という羨望の気持ちからなのかもしれません。
紫式部が宮中で働き始めた頃も、まだまだ清少納言の人気が非常に高く、宮中での噂が絶えなかったのでしょう。それを聞いた紫式部が、清少納言に嫉妬したのではないかと思います」
すなわち、『源氏物語』という世界に誇るべき作品が生まれたのも、清少納言という存在があったからとも言える。いつの世も、高め合う相手がいてこそ、“光る自分”になれるのかもしれない。
※女性セブン2024年4月4日日号