畜産家は皆、家畜が生きている間は幸せ且つ快適に過ごせるように尽力しており、アニマルウェルフェアの観点から業界全体で改善が進められている。しかし未だに完全な解決には至っていないらしい。
高級和牛として販売されている肉に、乳牛から生まれたビタミン欠乏症の牛のものが含まれているのだ。知れば知るほど、複雑な気持ちになってしまう。
高額な費用を投じて、人間の都合だけに合わせた生き方を強要された動物の肉を食べることが、狩猟によって肉を得ることより、倫理性が優っていると言えるのだろうか。
と、色々と考察してみたものの、実はこれらは、僕が自分で鹿を撃っていることを正当化するための、単なる言い訳なのかもしれない。
野生動物と同化したい
どうして僕は狩猟をしているのか。なぜ、自らの手で野生動物の肉を得ることに、強いこだわりを持っているのか。
野生動物の命を奪うことに心を痛めながら、やめようと思わない本当の理由は、一体どこにあるのだろう。
批判を恐れず、正直に述べると、社会的な意義といったものは二の次だ。それは僕という人間の、極めて個人的な衝動に端を発している。
率直に言うと、僕は野生動物と同化したいという、潜在的な欲望があるのだ。食べるというのは、それに直結した行為だ。
まずは、彼らが暮らす山を、自分の足で歩く。彼らの日常を追体験する中で、途轍もない強さを思い知らされる。苦労を重ねれば重ねるほどに、憧れや畏敬の念は増すばかりだ。
ようやくのことで対面できた時。神々しいまでの美しさに目を瞠る。そして、仕留めた瞬間に湧き上がる、喜びと悲しみ。息の根を止めたことによって生まれる責任感。そこまでして僕は生きていたいのだという自覚。それらを丸ごと、自らの掌中に収める。
更に自力で獲った野生動物の肉を食べると、自分の奥底に眠っていた狩猟採集民族としての血が沸き立ってくる感覚がある。