自分にビジネス書が書けるなんて夢にも思わなかった

 この本は、基礎科学の研究者である今井さんにとって、初めてのビジネス書である。

「最初に編集者から提案していただいたときは、自分にビジネス書が書けるなんて夢にも思わなかったですけど、これはいい機会かもしれないと思いました。これまでの私の本は自分の研究を紹介するものでしたから、専門である認知心理学が社会の中でどんな風に使えるのかを広くお伝えするのは面白いチャレンジかもしれない。企画書をいただいたのがコロナ禍で、たまたま時間があったことも大きかったですね」

 今井さんは慶應義塾大学SFCの教授。将来、心理学の研究者をめざす学生は少なく、卒業してビジネスパーソンになる人がほとんどなので、基礎研究ではなく、ビジネスの現場でも役に立つような、人はどう世界と向き合っているかを科学的に掘り下げる授業をしているという。人間は外界の情報をどうすくい取り、どう解釈し、どう記憶し、どう意思決定するかを、認知心理学の知見を通して解説する授業だ。

 本書でも、「話してもわからない」「言っても伝わらない」とき、どのようなことが起きているのかが、とてもわかりやすく書かれている。読み進めるうちに、伝わらないのが当たり前で、ふだん何気なく人と意思疎通できていることが奇跡のように思えてくる。

 私たちの認知は時にバイアスがかかり、記憶を書き換えることもある。そう認識したうえで、どうすれば言ったことが伝わり、言われたことが理解できるか、コミュニケーションの具体的なコツも示される。ビジネスの現場だけでなく、学校や家庭でも役立ちそうな内容だ。

「それは確かにそうですね。ふだん私はビジネスパーソンよりも学校の先生を相手に話すことが多いんですが、コミュニケーションに関してビジネスパーソンに言えることはほとんど先生にも当てはまります。もちろん、家庭でのコミュニケーションにも同じことが言えます」

 私たちの記憶容量は「1GB」ほどしかないという、アメリカの認知科学者の話が紹介されていて衝撃を受けた。コンビニで数百円出せば買える16GBのUSBメモリにもはるかに及ばない容量で、私たちは記憶を出し入れしながら日々暮らしているのか。人間には直観があり、直観を磨き続けることができるが、AIが人間から直観を奪うかもしれない、という指摘も興味深い。

 いかにも経済界が関心を持ちそうな分野なので、基礎科学である認知科学が産業とそれほど直接の結びつきがない、と書かれているのは意外に思えた。

「アメリカだと、たとえば私が学んだノースウェスタン大学の心理学部の隣にケロッグスクールという全米でトップクラスのビジネススクールがあって、そこの学生は認知心理学の授業を受けに来ていました。ビジネススクールで経済やマネジメントを学ぶには、認知心理学の知見が絶対必要だというのはアメリカでは当たり前ですが、日本ではそれほど認知されていないですね」

 ノーベル経済学賞を受賞したダニエル・カーネマンはもともと基礎心理学の研究者だが、経済学者と紹介されることも多いという。

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