中森明菜は1982年10月、新宿音楽祭で審査員特別奨励賞を受賞。『少女A』でブレイクした最中の受賞だった(写真/女性セブン)
小柳と明菜は所属レコード会社が同じワーナー・パイオニアだった。
「私のアシスタントディレクターだった島田(雄三)君から『今度、中森明菜という歌手を担当します。ぜひ応援してください』と言われたんです。初めてテレビで見た時、絶対に売れると思いました。(山口)百恵ちゃんと同じような人を引きつける神秘性を感じました」
歌番組などで頻繁に顔を合わせる小柳と明菜は電話番号を交換。時折、連絡を取り合っていた。
「40年くらい前のお正月、夜中の3時に電話が鳴ったんです。寝ぼけながら出たら、男のような低い声で『中森です』って。間違いだなと。『どちらの中森さんですか?』『中森です』『すいません、お間違いじゃないんですか?』とガシャって切ったんですね。朝起きて、よく考えたら『中森……え、明菜ちゃん?』って。ひょっとしたらね、1人でお正月を迎えて、寂しくなったのかな。次に会った時、『もしかして明菜ちゃんだったの? ごめんなさい』と謝りました。手紙も書いてマネージャーに届けてもらいました。でも、それ以降は素っ気なくなっちゃって……」
明菜はその後も『難破船』『TATTOO』などヒット曲を連発。1989年秋頃、2人は偶然イタリアンレストランで再会した。
「すごく悩んでいて、私の席に来て『ルミ子さん、自信がないんです』と呟いた。だから、『自信がないと言うだけじゃ、何も進まないよ。自分を作るのは自分しかいない。明菜ちゃんには類稀な才能と魅力があるんだから』と優しく話したら、ワーッと泣き出しちゃって。周りの人も驚いていました。でも、その繊細さが明菜ちゃんの魅力でもある。感情移入して泣きながら歌って、絵になる人っていない。夜に光る月です。また歌い始めてくれて、私もすごくうれしいです」
同じ時代を生きた2人は何かと対比される。しかし、両極端な魅力がお互いをより際立たせ、照らし合っていることも間違いない。
【プロフィール】
小柳ルミ子(こやなぎ・るみこ)/1952年7月2日生まれ、福岡県出身。1971年、デビュー曲『わたしの城下町』がオリコン年間シングル売上1位に。
取材・文/小野雅彦、岡野誠
※週刊ポスト2024年7月19・26日号