好評発売中の「マッシー 憧れのマウンド」(牧野出版)
一般観客が翻訳した「メジャー契約書」をもとにサイン
村上氏が所属したジャイアンツ傘下の1Aチームの環境は過酷だった。キャンプでは契約を勝ち取るため、メキシコから野球道具すら持っていない青年が参加するなど、多くの若者が集まり、しのぎを削っていた。当時は文無しで食事をまともに食べられないような選手も多く、村上氏に食事をねだる同僚がいたほど。このほかバスによる長距離移動や、到着したと思えば生活の世話をする現地スタッフが現れず、村上氏自ら安ホテルを探す必要に迫られたこともあったという。
「太平洋戦争の傷痕もまだ残っていて、反日感情を抱いている選手も少数ですがいました。バスの中で後方から何度も丸めた紙をぶつけられたときは、運転席の下にあったスパナを振り上げ、選手一人一人に『Are You?』と詰め寄ったこともありましたね」(村上氏)
1Aで好投を続ける村上氏に突然のメジャー昇格が決まったのが1964年8月末。9月1日からメジャーの選手枠が広がることを受けたことによるものだが、2A、3Aを飛ばした昇格は異例だった。増田氏が続ける。
「9月1日にチームに合流したマッシーは試合直前にロッカー室に呼ばれ、球団代表から契約書へのサインを求められます。もちろん全文が英語。サインしないと投げることはできないと言われますが、周囲から契約社会のアメリカでは“サインには気をつけろ”と言われていたこともあり、日本語がわかる人を連れてくるよう伝えたものの誰もおらず。
ようやく球団職員が観客の中に日本人を見つけて、契約書を読み上げてもらい、試合開始15分前にサインする──そもそも南海からは当初3ヶ月の留学予定と言われていたのが、本人にもわからないまま帰国が延びていました。日本人初のメジャーリーガー誕生の瞬間は、いまでは考えられないような状況が重なって実現したものでした(笑)」
昇格当日にリリーフとして対ニューヨーク・メッツ戦のマウンドに上がった村上氏。1回を1被安打2奪三振と好投したのを皮切りに、メジャー初勝利も果たした。オフには予想外の活躍を果たした村上氏の翌シーズンの契約をめぐって、ホークスとジャイアンツの球団間で問題になったこともあったが、結果的に2年間のメジャー生活で54試合で5勝1敗9セーブ、防御率3.43という記録を残した。
「いまの若い世代はマッシーのことを知らないでしょうし、それは仕方ないことです。60年も昔のことなのですから。しかし、まだ日系人差別が根強く残っている時代に、通訳もいない環境の中で、現在の大勢の日本人大リーガーが活躍する礎となる若者がいたことを忘れてはいけないと思います。
彼が開いた扉を通り、野茂英雄が、イチローが、大谷翔平が大リーガーとしての道を歩き始めたのです。そして、彼は事故死したアメリカ野球殿堂に選ばれたロベルト・クレメンテとの約束で、長年にわたる社会貢献活動を行ない、2023年には日米交流に貢献のあった人物に贈られる『マーシャル・グリーン賞』をスポーツ界で初受賞しました。これは野球というスポーツの枠を超えた特筆すべき功績だと思います」(同前)
いまでも村上氏は毎朝、メジャーリーグの中継を見るのが日課だ。「時代の変化を感じるか?」と聞くと、「私の時は活躍しても全然給料が上がらなかった。いまは平気で何億円も年俸が出るから羨ましいよ」と笑いながらも、こう口にする。
「私の時代はやはり圧倒的な個を持つ選手が多かったね。たった1人でチームを牽引するような絶対的な選手が各球団にひとりはいたと思う。いまはそうした選手が少なくなって、チーム全体で勝つとでも言うのかな。だからこそ、日本人選手にとっては活躍の機会が増えていると思っている。
昔の選手とは体格も変わってメジャーでも見劣りしなくなってきた。自分の野球人生は一度きり。ぜひ、NPBの選手だけでなく、野球少年にもどんどんメジャーの場を目指してほしいね」(村上氏)