野茂英雄一覧

【野茂英雄】に関するニュースを集めたページです。

金田、ダル、木田勇、原辰徳他 1年目からスゴかった10人
金田、ダル、木田勇、原辰徳他 1年目からスゴかった10人
 長嶋茂雄や松坂大輔の鮮烈なデビューが印象に残っている人も多いかもしれないが、球史を紐解けば、1年目から大活躍した選手は少なくない。ここでは10人のスター選手たちのルーキーイヤーの卓越した成績を紹介しよう。35勝や22勝を挙げた選手までいるのだ。◆金田正一(1950年プロ入り) 1年目成績 登板試合:30 勝利:8 敗北:12 防御率:3.94 奪三振:143 高校を中退してシーズン途中で国鉄に入団。8月23日に初登板し、2か月足らずで8勝を挙げた。実質的な1年目となった翌年は、全107試合中44試合に先発し、22勝21敗の成績を残した。9月5日の大阪タイガース戦では史上最年少でノーヒットノーランを達成した。◆ダルビッシュ有(2005年プロ入り) 1年目成績 登板試合:14 勝利:5 敗北:5 防御率:3.53 奪三振:52 東北高時代、春夏4回出場(通算7勝2敗)。ドラフト1位で日本ハム入団。自主トレで膝を痛めて二軍スタートだったが、キャンプ中にパチンコ店での喫煙を写真週刊誌に報じられ無期限の謹慎となった。6月に昇格し、初先発で初勝利。ローテーション入りして5勝。◆尾崎行雄(1962年プロ入り) 1年目成績 登板試合:49 勝利:20 敗北:9 防御率:2.42 奪三振:196 浪商2年時に夏の甲子園で優勝投手となり、秋季大会に優勝してセンバツ出場権を置き土産に中退。尾崎家に各球団のスカウトが訪れる争奪戦の末、17歳で東映に入団した。17歳10か月のオールスター出場、18歳での新人王は今も破られていない最年少記録となっている。◆木田勇(1980年プロ入り) 1年目成績 登板試合:40 勝利:22 敗北:8 防御率:2.28 奪三振:225 1978年のドラフトで広島の1位指名を拒否し、翌年に日本ハムに入団。大小2種類のカーブとパームボールで三振の山を築いた。1試合16奪三振は野茂英雄に破られるまでルーキーの最多記録で、1シーズン毎回奪三振3回は史上唯一の新人記録となっている。◆原辰徳(1981年プロ入り) 1年目成績 出場試合:125 安打:126 打率:.268 本塁打:22 打点:67 1年目から4番候補として大切に育てられた。例えば巨人寮では池の葉っぱの掃除係を担当したが、これは歴代のエリート選手の中でも最も負担が軽い仕事だった。1年目から「美味しさホームラン」のセリフで明治プリンのCMに出演するなど人気もピカイチ。22本塁打で新人王を獲得した。◆近本光司(2019年プロ入り) 1年目成績 出場試合:142 安打:159 打率:.271 本塁打:9 打点:42 盗塁:36 関学大から大阪ガスを経て阪神に入団。開幕戦で2番センターで出場し、初安打初打点を記録。1年目は36盗塁を記録し、史上2人目となるルーキーでの盗塁王を獲得。61年ぶりにセ・リーグの新人記録を更新する159安打、オールスターでのサイクル安打達成。◆権藤博(1961年プロ入り) 1年目成績 出場試合:69 勝利:35 敗北19 防御率:1.70 奪三振:310 鳥栖高から社会人を経て中日に。伸び上がるようなフォームからの快速球で勝ち星を重ねた。35勝の新人最多勝記録で新人王を獲得。69試合に登板し、429回3分の1を投げた。8月にダブルヘッダーで1日に2勝したかと思えば、9月には2敗の珍記録も残している。◆稲尾和久(1956年プロ入り) 1年目成績:登板試合:61 勝利:21 敗北:6 防御率:1.06 奪三振:182 高校時代は無名。契約金は50万円(同期の畑隆幸は800万円)。キャンプで打撃投手を務め、コントロール抜群のスライダーが三原脩監督の目に止まった。21勝を挙げて新人王に。日本シリーズでは先発や中継ぎとして全6試合に登板。巨人相手に3勝を挙げた。◆杉浦忠(1958年プロ入り) 1年目成績: 登板試合:53 勝利:27 敗北:12 防御率:2.05 奪三振:215 立大のエースとして長嶋茂雄らと黄金時代を築いた。大学の先輩・大沢啓二に誘われ2人揃っての南海入団予定が、長嶋が翻意。「シゲ(長嶋)は遠慮せず巨人へ行け」と送り出し、杉浦は約束通り南海に入団した。開幕戦で初登板初勝利を飾ると27勝で新人王を獲得。◆中西太(1952年プロ入り) 1年目成績 出場試合:111 安打:108 打率.281 本塁打:12 打点:65 高松一高で甲子園に3度出場。すさまじいスイングスピードから繰り出される弾丸ライナーが持ち味の豪快な打撃で“怪童”と呼ばれた。西鉄に入団するとキャンプ初日の紅白戦で第一打席をバックスクリーンに叩き込んだ。シーズンが始まると12本塁打を放ち新人王を獲得。※週刊ポスト2020年4月10日号
2020.04.03 07:00
週刊ポスト
堀内恒夫は1966年にプロ入りした(時事通信フォト)
野茂、堀内、松井、大谷ら 新人時代から大活躍した名選手達
 プロ野球界にはルーキーイヤーから大活躍する選手たちがいる。ここでは野茂英雄、堀内恒夫、松井秀喜ら、7人の選手たちのデビュー当時を振り返ってみよう。◆堀内恒夫(1966年プロ入り) 1年目成績 登板試合:33 勝利:16 敗北:2 防御率:1.39 奪三振:117 開幕3戦目に高卒ルーキーとして初先発。これを初勝利で飾ると7月までに13連勝し、1年目は16勝2敗で終えた。最優秀防御率と最高勝率に輝き、新人王と沢村賞にも選ばれた。44イニング連続無失点は今も塗り替えられていない新人記録となっている。2年目以降もコンスタントに勝ち星を挙げ、巨人V9のエースとして活躍。13年連続2ケタ勝利をマークした。 ふてぶてしいまでのマウンド度胸からついた異名は“甲斐の小天狗”“悪太郎”。入団に際しての取材では、時間や場所を変えて1社ずつ同じような質問をされるのが面倒臭くなり、「誰かが代表して聞いてくれませんか」と言い放った。門限破りの常連で、鬼軍曹と呼ばれた武宮敏明寮長から叱られた時に「憲法で決まっているわけではない」と反論した逸話もある。◆松井秀喜(1993年プロ入り) 1年目成績 出場試合:57 安打:41 打率.223 本塁打:11 打点:27 12年ぶりに長嶋茂雄監督が巨人へ復帰したシーズンに華を添えたのが、甲子園での5打席連続敬遠が社会現象になったゴールデンルーキー・松井秀喜だった。4球団競合による抽選で引き当てた松井の背番号55は、王貞治の最多本塁打記録(当時)にちなんだ数字。長嶋監督の松井へのホームランバッターとしての期待の大きさがうかがえる。 キャンプでは場外弾を連発したが、オープン戦では不調(打率.094、20三振)だったため開幕は二軍で迎えた。5月に7番レフトで一軍デビューを果たし、2試合目に高津臣吾から初本塁打を放っている。 6月には二軍に降格したが、フレッシュオールスターでMVPを獲得し、8月に一軍へ再昇格するとヒットを連発し、3番に定着。ルーキーイヤーは11本塁打を放ち、セ・リーグ高卒ルーキーの本塁打記録を更新し、翌年からレギュラーに定着した。◆大谷翔平(2013年プロ入り) 1年目成績【投手】登板試合:13 勝利:3 敗北:0 防御率:4.23 奪三振:46【打者】出場試合:77 安打:45 打率:.238 本塁打:3 打点:20 花巻東高時代、地方大会でアマ野球史上最速の160キロを記録し、日米から注目された。大谷はメジャー挑戦を表明したが、日本ハムが投手と野手の二刀流育成プランを提示し、ドラフト1位で獲得。46年ぶりに高卒新人でプロ初勝利と初本塁打を記録した。◆野茂英雄(1990年プロ入り) 1年目成績 登板試合:29 勝利:18 敗北:8 防御率:2.91 奪三振:287 史上初の8球団競合の末、近鉄に入団。プロ初勝利を17奪三振の日本タイ記録(当時)で飾ると、5試合連続2ケタ奪三振を記録。ルーキーイヤーは最多勝、最優秀防御率、最多奪三振、最高勝率の投手4冠のほか、新人王、ベストナイン、MVP、沢村賞を受賞。◆田中将大(2007年プロ入り) 1年目成績 登板試合:28 勝利:11 敗北:7 防御率3.82 奪三振:196 夏の甲子園決勝で早実高の斎藤佑樹(現日本ハム)と投げ合い、ドラフトでは4球団が競合、楽天に入団。高卒1年目では歴代4位の196奪三振でシーズンを終え、186イニング1/3を投げて11勝。1999年の松坂大輔以来、8年ぶりに高卒1年目の新人王が誕生した。◆上原浩治(1999年プロ入り) 1年目成績 登板試合:25 勝利:20 敗北:4 防御率:2.09 奪三振:179 ドラフトでは松坂と話題を二分。巨人が逆指名を勝ち取った。初登板は黒星だったが、歴代4位タイの15連勝を記録し、33年ぶりに堀内が持つ新人連勝記録(13連勝)を更新。木田勇以来となるルーキー20勝をマークし、新人王と沢村賞をダブル受賞した。◆立浪和義(1988年プロ入り) 1年目成績 出場試合:110 安打:75 打率.223 本塁打:4 打点:18 PL学園の主将として甲子園で春夏連覇(1987年)を達成し、ドラフトでは南海と競合した中日が獲得。開幕で一軍メンバーに名を連ねると、2番ショートで先発出場。新人王に選ばれ、高卒ルーキーとしては史上初となるゴールデングラブ賞を受賞した。※週刊ポスト2020年4月10日号
2020.04.01 07:00
週刊ポスト
プロ野球OBが選んだ歴代No.1投手「分かっとる。ワッハハハ」
プロ野球OBが選んだ歴代No.1投手「分かっとる。ワッハハハ」
 プロ野球OBによる「史上最高の選手は誰か」という投票結果をまとめた『プロ野球史上最高の選手は誰だ?』(宝島新書)が話題だ。105人のOBが投手と野手の各5人を選出、1位の選手には5点、2位4点、3位3点、4位2点、5位1点を付与し、その合計ポイントによってランキングが作られている。 結果を見ると、投手の1位はやはり金田正一氏(現役/1950~1969年、所属/国鉄ほか)。「トルネード投法」でメジャーに旋風を巻き起こした野茂英雄氏(1990~2008年、ドジャースほか)には比較的若い世代のOBからの票が集まり2位となった。 3位にオールスター9連続奪三振などの伝説を残した江夏豊氏(1967~1984年、阪神ほか)が入り、そこに江川卓氏(1979~1987年、巨人ほか)、稲尾和久氏(1956~1969年、西鉄)が続いた。現役メジャーリーガーではダルビッシュ有(2005年~、現カブス)が6位、田中将大(2007年~、現ヤンキース)が9位で、大谷翔平(2013年~、現エンゼルス)は10位タイという結果となった。 野手では1位が王貞治氏(1959~1980年、巨人)、2位がイチロー氏(1992~2019年、マリナーズほか)で、3位に“ミスター・ジャイアンツ”の長嶋茂雄氏(1958~1974年、巨人)がランクイン。4位に落合博満氏(1979~1998年、中日ほか)、5位に松井秀喜氏(1993~2012年、ヤンキースほか)と続く。ちなみにメジャーでも二刀流を貫き、右肘の手術明けとなった今季は打者としてエンゼルスの主軸を張る大谷は、野手でも12位タイに入り、投打両部門で上位に名前が挙がる唯一の選手だった。 興味深いのは投手1位に金田氏を推したのは、野村克也氏(1954~1980年、南海ほか)、張本勲氏(1959~1981年、巨人ほか)、須藤豊氏(1956~1968年、巨人ほか)ら野手OBが圧倒的に多く、野手1位として王氏に票を投じたのは平松政次氏(1967~1984年、大洋)、齊藤明雄氏(1977~1993年、横浜)、北別府学氏(1976~94年、広島)ら投手OBが多かったことだ。 世代による意見の違いを超えたナンバーワンには、同じプロのなかでも“対戦相手の目線”から票が集まったことになる。投手1位に輝いた金田氏に話を聞くと、豪快に笑いながらこう話す。「他人様から史上最高の選手とか言われなくても、自分でわかっとる。大きなお世話だよ。ワッハハハ」※週刊ポスト2019年8月16・23日号
2019.08.09 11:00
週刊ポスト
サッカーU20W杯・決勝トーナメント1回戦(EPA=時事)
日韓スポーツ対決 五輪金メダル数、歴代メジャーリーガー数は
 昨今韓国に関する話題がメディアを騒がせている。韓国には、なにかと日本を意識して、「我が国こそ優れている」と主張したがる側面もあるようだ。そして、文在寅大統領が悲願とする北朝鮮との統一が実現すれば、日本を完全に凌駕する国力を持てると考えているのかもしれない。 では、スポーツに関して、この3か国の力をデータで比較してみよう。夏季五輪金メダル数は日本(142個、韓国90個、北朝鮮16個)に、冬季五輪メダル数では韓国(31個、日本14個、北朝鮮0個)に軍配が上がった。 サッカーW杯の最高成績は、日本がベスト16で、韓国はベスト4。直接対決でも、日本の13勝36敗21分けで負け越している。 野球は日本にアドバンテージがあり、歴代メジャーリーガー数は日本57人(野茂英雄、イチロー、大谷翔平他)に対して韓国は21人(朴賛浩、秋信守、柳賢振他)。日韓の直接対決でも62勝40敗2分と勝ち越している。長年北朝鮮を取材しているジャーナリストの鄭美華氏はこう指摘する。「金正恩もスポーツに力を入れており、平壌中心部にはサッカー、野球、バスケット、テニス、器械体操、テコンドーなどのスタジアムが設立され、選手たちは日々厳しいトレーニングを積んでいます。ただ、選手育成のノウハウはまだこれからで、国際大会での活躍は、少し先のことになるでしょう」※週刊ポスト2019年8月2日号
2019.07.28 07:00
週刊ポスト
野茂英雄氏の代理人が今明かす「MLB移籍への作戦A、B、C」
野茂英雄氏の代理人が今明かす「MLB移籍への作戦A、B、C」
 平成の31年間では数多くのアスリートが輝きを放った。そのなかでもひときわ強い光を放ち、人々の記憶に残る選手のひとりに、「トルネード投法」と呼ばれる独特の投法でメジャーリーグのマウンドに立ち、三振の山を築いた野茂英雄氏(50)の名前が挙がるだろう。日本球界からメジャーリーグへ移籍するには、様々な困難があった。それまで契約していた近鉄バファローズを退団し、1995年にロサンゼルス・ドジャースとの契約にこぎつけたときのエージェント、団野村氏が、MLB移籍への3つの作戦を語った。 * * * 野茂君と初めて会ったのは、彼がメジャー移籍する前年、1994年の春でした。共通の知人を通じてアプローチがあり、野茂君の口から「メジャーでプレーしたい」と聞きました。早速私は日本球界からメジャーへ行く方法を調べ始めました。その過程で浮かび上がったのが、最終的に彼をメジャーに導く「任意引退」という言葉です。 私は日米協定や日米の野球協約を読み返すうちに、この言葉が日本にだけあることに気が付きました。まず日米のコミッショナー事務局へ確認。すると米国では日本の野球協約は適用外で、日本の任意引退はFAと解釈されており、覚書もあることがわかった。これによって「任意引退すれば、国内では最終所属球団が保有権を持つので自由に移籍してプレーはできないが、米国は対象外のためプレーできる」という確信を持ちました。 すぐに米国のエージェントから問い合わせ、「日本の任意引退選手は海外ではプレー可能」という日本のコミッショナーからの書面も残すことができた。これがオールスターの時点。問題はどうやれば任意引退にできるか、それが最大の難関でした。 そこで私は3つの作戦を立てました。まず作戦Aは契約更改で巨大契約を要求すること。具体的にはFA取得までの6年間で24億円です。当時あまり例のなかった複数年契約を持ち出せば、球団は認めるどころか、怒って他球団でもプレーできないよう任意引退にする制裁措置に出るだろうと読みました。万が一認められてもそれは野茂君の利益になる。彼は「6年契約を認められるより、すぐにメジャーへ行くほうが嬉しい」と本音を漏らしていましたが、「時代を変えていく一つのきっかけにはなる」と乗り気でしたね。 作戦Bは契約を蹴られた場合に徹底抗戦すること。春季キャンプにも参加せず、1年間プレーしなければ自動的に任意引退となるので、これを狙いました。 そして作戦Cは任意引退が封じられた場合。米国で裁判を起こす予定でした。職業選択の自由に反すると、労働側が強いカリフォルニア州で訴えれば99%勝てるといわれていました。この作戦は半年ぐらいかかるが、日本ではもう少しイメージがよかったかもしれませんね。 結局は当初の読み通り作戦Aが当たり、「契約しないと任意引退にする」というセリフが出た。球団は脅しのつもりが、野茂君が素直に応じたので困惑したみたいです。翌日、球団関係者やマスコミが任意引退の意味がわかって大騒ぎとなりました。 ただ、ルールを守ったはずなのに我々はマスコミから大バッシングを受けました。これを覆すには成績を残すしかないと決意した野茂君は、1年目から素晴らしい活躍を見せ、日米で「NOMOマニア」という言葉が生まれるほどの人気を得たのは、周知の通りです。まあ、私はいまだに悪者ですけどね(苦笑)。●取材・文/鵜飼克郎※週刊ポスト2019年5月3・10日号
2019.04.22 07:00
週刊ポスト
記者会見に臨んだイチロー(EPA=時事)
イチロー 成功という言葉を嫌い「野球の神様」に愛された男
 メジャー19年目の開幕の地、東京ドームに 「イチロー!イチロー!」の大合唱が、地鳴りのように響き渡った。最後の打球はショートに飛び、1塁を駆け抜けたイチローの現役最後の打席が万雷の拍手の中で終わった。2653試合に出場し、メジャー史に刻んだヒットは「3089」安打。不世出の男は、最後の雄姿を見せた後、引退会見で何を語ったのか。これまでメジャーリーグ2千試合を取材してきたスポーツジャーナリストの古内義明氏が、イチロー引退を振り返った。 * * * マリナーズのサービス監督がライトの定位置にいたイチローを指さす。マリナーズナインがフィールドから退く。イチローはライトスタンドに振り向き、その後ドームのファンに別れを告げた。アスレチックス・ナインも拍手を送る中、イチローがナインと抱擁した。これぞメジャー。これぞイチローへのリスペクトだった。終電が迫っても東京ドームのファンは帰らなかった。「僕に感情がないと思っている人がいるみたいだが、ある、意外とある。だから結果を残して最後を迎えられたら、一番いいなと思っていたが、それはかなわなかった。それでもあんなに球場に残ってくれて。死んでもいいという気持ちはこういうことだろうなと。死なないですけど。そういう表現するのは、こういうときだろうと思った」。 日米通算4367安打(日本1278、米国3089)を刻んだ安打製造機は、グラウンドを一周して、ファンに別れを告げた。 2001年、マリナーズの本拠地セーフコフィールドでメジャーリーグ・デビューを果たしたイチローだが、当時はその活躍に、懐疑的な意見が少なくなかった。無理もない。日本野手初のチャレンジであり、前例がなかった。「アメリカのファンの方々、最初は厳しかったですよ。最初は日本に帰れ!って、しょっちゅう言われましたよ」。1年目の活躍は、そんな逆風を追い風に変えるのに、十分すぎるほどだった。ルーキーとして、首位打者、盗塁王、そしてリーグMVPに輝いた。「結果を残した後の敬意というのは、手のひらを返すというか。行動で表す敬意は迫力があるという印象です。認めてもらった後はすごく近くなると言う印象で、ガッチリ関係ができあがる。シアトルとのファンとはそれができたという勝手な印象ですけど」。だからこそ、マリナーズのユニホーム姿を、「最後にシアトルのファンに、見せられなかった申し訳なさはあります」と、地元ファンをおもんばかった。 パワー全盛のメジャーで、イチローの「走攻守」に渡る活躍は異彩を放った。内野の守備体系にプレッシャーを与え、バッテリーは打席と塁上にも極限の集中力を使い、フィールドのどこにいても警戒しなければいけない存在になった。2004年にメジャー新記録の262安打をマークし、2度目の首位打者。2001年から2010年まで史上初となる10年連続200安打という金字塔を打ち立てた。守備の栄誉であるゴールドグラブ賞、そして、オールスターには10度ずつ選ばれた。「こんなものかな、という感覚ですかね。それは200本もっと打ちたかったし、できたと思うし。(チームが)1年目100勝して、2、3年目まで93勝して勝つことは大変でないと思ったが、勝つのは大変なことだった。この感覚を得たことが大きなことだった」と、19年間でポストシーズンはわずか1度だけの出場となり、勝つことの難しさだと述懐した。 イチローの言葉に、エッジが立ってきたと感じたことがあった。2009年の第2回WBCの決勝の韓国戦。延長10回、不振にあえいでいたイチローはセンター前に決勝タイムリーを放ち、日本を2連覇に導いた時だ。「やっぱりボクは(なにか)持ってますかね?(決勝打のときは)神が降りてきました。気持ちよかったです。ほぼ(エクスタシーに)イキかけました」。この頃から、イチローの言葉の節々に、人間味がより加わったように感じた。 選手としての曲がり角は、2012年7月23日だった。前年の成績は184安打で、打率2割7分2厘で、シーズン200安打、打率3割、オールスター出場、ゴールドグラブ賞獲得が10年でストップ。イチローは、若手2投手とのトレードで、ヤンキースへ電撃移籍。ユニホームの背番号は「31」になった。 過去に引退を考えたことよりも、「クビになるのではないかな」と心配した日々があったという。「毎日そんな感じでした。ニューヨークは特殊な場所です。マーリンズも特殊な場所です。毎日そんなメンタリティーで過ごしていたんです。クビになる時はそうなるだろうと思っていたんで」。ヤンキース時代は、「NYは厳しい所だったが、やればどこよりも熱い思いがある」と振り返ったが、ワールドチャンピオンになるためのパズルのピースの一つでしかなく、悲願の世界一は遠かった。 2015年には、マーリンズと1年契約。ベンチを温める日々。代打や守備要員という起用法も経験した中で、日々の準備は変わらずに続けてきた。6月15日のパドレス戦で2安打し、ピート・ローズの持つメジャー通算安打記録の4256本を抜くと、同8月7日のロッキーズ戦では、史上30人目のメジャー通算3000安打を達成。レジェンドの仲間入りを果たした。「成功かどうかはよく分からないですよね。全く僕には判断ができないから、僕は成功という言葉が嫌いなんです。メジャーに挑戦するということは大変な勇気だと思うんですけど、あえて成功と表現しますけど、成功すると思うからやってみたい、それができないと思うから行かないという判断基準では後悔を生む。やってみたいなら挑戦すればいい。その時にどんな結果が出ようとも後悔はでない。基本的にはやりたいと思ったことに向かっていった方がいいですよね」 成功の基準など、個人の記録や優勝回数では表せない。数字以上のモノが28年間の野球人生でハッキリと見えてきたから、そう口にしたのだろう。 彼が残した言葉で、秀逸だったのが、次のフレーズだ。「(4000本安打について)いい結果を生んだことを誇れる自分ではない。誇れることがあるとすると、4000のヒットを打つには、8000回以上悔しい思いをしている。それと常に自分なりに向き合ってきた事実はあるので、誇れるとしたらそこじゃないかと思います」 陽ではなく、失敗という陰に光を当て、そこをどうすれば、変えられるか、にこだわってきたのだろう。そうい小さな積み重ねが、前人未到の領域に立ったイチローの真価だったと言える。 そして、現役生活は、彼一人の戦いではなかった。会見の終盤、妻・弓子さんと愛犬への感謝も口にした。「アメリカで3089本のヒットを打ったが、妻が握ったおにぎりの数が2800個くらい。(彼女は)3000個いきたかったみたい。そこは3000個握らせてあげたかったと思う。我が家の愛犬、現在17歳7カ月の一弓(イッキュウ)。さすがにおじいちゃんになってきて、毎日フラフラなんですが、その懸命に生きる姿を見ていたら頑張らないと本当に思いました。妻と一弓には感謝の思いしかない」。公の場でプライベートの話題を滅多に口にしなかったイチローが、独特の表現で感謝の意を述べた。 私は常々、野球の神様がいると思っている。イチローはその野球の神様に、最も近づいたに選手の一人だ。「カタカナのイチローってどうなるのか? 元イチローになるのかな。どうなんだろう? 何になるか……、監督は絶対に無理。これは絶対が付く。人望がない。本当に人望がない」と、笑わせた。 平成最後のメジャー開幕戦に、生まれ育った日本で、そのバットを置いたイチローは、「鈴木一朗」に戻る。これからは、「元イチロー」と呼ばれる彼が、新しい時代に、どんな形で野球にたずさわるのか、楽しみでならない。【PROFILE】古内義明(ふるうち・よしあき)/立教大学法学部卒、同時に体育会野球部出身。1995年の野茂英雄以降、これまで二千試合を取材。著書に、『メジャーの流儀~イチローのヒット1本が615万円もする理由』(大和書房)など、これまで14冊のメジャー書籍を執筆。(株)マスターズスポーツマネジメント代表取締役、テレビやラジオで高校野球からメジャーリーグまで多角的に比較・分析。立教大学や早稲田大学エクステンションでは、「スポーツビジネス論~メジャーの1兆円ビジネス」の教鞭を執る。
2019.03.22 11:00
NEWSポストセブン
平成スポーツ史 若貴ブーム時のパレードでは隣家の塀壊れた
平成スポーツ史 若貴ブーム時のパレードでは隣家の塀壊れた
 1993(平成5)年のJリーグ開幕を機に始まったサッカーブームは、その後の日本代表W杯初出場、日韓共催W杯で一気に定着。代表戦で日本が勝利すると喜び勇んだ若者が街中でハイタッチする様は、今や当たり前の光景となった。スポーツで平成を振り返ると、様々なスター選手や出来事が思い出される。 外国出身力士で初の横綱となった曙、ロサンゼルス・ドジャースで13勝6敗の好成績をあげて新人王に輝いた野茂英雄、シドニー五輪女子マラソンで金メダルを獲得した高橋尚子など、数々のスターアスリートも誕生。不況が長引くなか、スポーツは明るいニュースを振りまいた。 先日、日本相撲協会を退職して元親方となった花田光司氏(元横綱・貴乃花)は、まさしく平成を象徴する人だろう。兄の若乃花とともに大相撲で活躍し若貴ブームを巻き起こした。当時の熱狂を、中野新橋商店街理事長の荒田太一氏が振り返る。「若貴兄弟が優勝すると両国国技館からパレードが出発して、藤島部屋(のちに二子山部屋)があったこの小さな中野新橋の商店街に戻ってくる。ファンの数、実に5万人でした。1992(平成4)年1月場所で貴花田(当時)が史上最年少で初優勝したときは、パレードを隣で見ていた母娘が広島から応援に来たというのでびっくりしました。 近所の住民はまともに外を歩けないし、部屋の周りをファンが何重にも取り囲んでいる。一目見ようと隣家の塀の上によじのぼる人まで現われて、隣家の塀が壊れたことも。今では考えられないほどの人気でしたよ」◆「スポーツ」で振り返る平成1991年9月:大相撲に巻き起こった若花田、貴花田の若貴ブーム1993年10月:W杯最終予選「ドーハの悲劇」。本大会出場権を逃す1995年5月:全仏オープンテニスで伊達公子がベスト4進出1998年8月:夏の甲子園決勝で松坂大輔がノーヒットノーラン達成2003年9月:阪神タイガースが18年ぶりの優勝2005年10月:ディープインパクトが史上2頭目の無敗の三冠馬に2006年3月:第1回ワールドベースボールクラシックで日本が優勝2007年4月:“ハンカチ王子”斎藤佑樹が早大野球部入部2011年7月:女子サッカー「なでしこジャパン」がW杯初優勝2016年9月:広島カープが25年ぶりにリーグ制覇※週刊ポスト2019年3月1日号
2019.02.21 07:00
週刊ポスト
本塁打数歴代4位の「ミスター赤ヘル」こと山本浩二もランクインせず(写真:時事通信フォト)
歴代プロ野球選手の人気投票、あの選手が上位に入らない理由
 12月24日、『プロ野球総選挙~レジェンド選手編~』(テレビ朝日系)が放送された。今回は、既に引退した選手のみで一番すごい選手を決めるという企画。球場に訪れていた野球ファンのみならず、プロ野球OBや監督、コーチ、現役選手にもアンケートを実施し、1万人の投票でランキング上位30人を決めた。 同番組に関して、野球担当記者はこう語る。「このような投票をすると、必ず『なぜあの選手は入ってないんだ』『恣意的に選んでいるのではないか』という意見が出てきますが、それはプロ野球が人気ある証拠です。ある程度の偏りは仕方ないですし、数十年前に活躍した選手よりも、どうしても記憶に新しい最近の選手を選んでしまう傾向がある」(以下同) 今回のベスト30のなかで、投手は10人。ベスト10に絞ると4名になる。4位の沢村栄治(巨人)、5位の野茂英雄(近鉄、ドジャースなど)、6位の金田正一(国鉄、巨人)、10位の黒田博樹(広島、ヤンキースなど)がランクインした。「日本人メジャーリーガーのパイオニアとなった野茂、空前絶後の400勝を挙げた金田は別格。黒田は日米通算勝利数では野茂を上回り、歴代1位の203勝。年俸20億円のメジャーよりも、5分の1の4億円で広島に復帰し、優勝を果たしたというストーリーが記憶に新しい。そのことも、加味されたのでしょう。沢村栄治は野球史を紐解くと、必ず出てくる名前なのでファンの記憶に残っている」 歴代勝利数ベスト20のなかで、今回の企画でランクインしたのは金田、山本昌(中日)、村田兆治(ロッテ)だけ。歴代2位の米田哲也(350勝)、3位の小山正明(320勝)などは選ばれなかった。「江夏豊(16位)、稲尾和久(14位)より星野仙一(12位)の順位が上だったのも意外でした。あくまで現役時代を対象に聞いているはずですが、アンケートの回答者の中には監督時代のイメージが強く残っている人もいたのでは。現役時代の成績は、星野146勝34セーブ、江夏206勝193セーブ、稲尾276勝です。逆に言えば、星野のインパクトはそれほど強かったという証明ですし、良い意味でメディア操縦術に長けていたとも言える」 ベスト30のうち野手が20名を数えた。ファンの記憶に残りやすいのは、毎試合出場する野手のようだ。「30名中13名が巨人在籍経験のある選手だった点も注目です。その中で投手は金田、桑田真澄(20位)、江川卓(21位)の3名だけ。毎試合のようにゴールデンタイムで視聴率20%を獲っていた時代の巨人のレギュラー野手の知名度、印象度が高い証拠でしょう」 ベスト3は1位・王貞治、2位・長嶋茂雄、3位・松井秀喜と、巨人の生え抜きが独占した。「この番組を通して、人は記憶、印象で物事を判断しがちだということも分かりました。当たり前のことですが、自分の知っている範囲でしか何かを語れない。今回のベスト30には、1960年代以前に引退した選手は沢村栄治、金田正一、川上哲治、稲尾和久の4名しか入りませんでした。当時のことを知る人が少なくなってきていますから、ある程度仕方のないことかもしれません。今回のような人気投票はあくまで主観にすぎないなのです。 しかし、プロ野球には記録という客観的なデータが残っている。これが素晴らしいところ。安打数歴代4位、本塁打数歴代3位の門田博光(2566安打、567本)、本塁打数歴代4位の山本浩二(536本)などは今回、ベスト30に入りませんでしたが、功績は決して色褪せない。逆説的になりますが、この番組によって、客観的な数字を残しておくことが、いかに大切かも分かりました。歴代のプロ野球記録員の功績といっていいでしょう」 思い入れのある選手は人それぞれ。84年に及ぶ歴史を誇るプロ野球の中で、人気投票をすれば順位に批判はつきもの。その中で、放送を決断したテレビ朝日にも拍手を送るべきだろう。
2018.12.27 16:00
NEWSポストセブン
江川・KKから根尾・吉田まで…「ドラフト1位指名」53年史
江川・KKから根尾・吉田まで…「ドラフト1位指名」53年史
 4球団競合の末に、中日が大阪桐蔭・根尾昂の交渉権を獲得し、金足農・吉田輝星を日本ハムが外れ1位で指名──ドラフトの歴史に新たなページが刻まれた。その光景は、50年以上にわたる数々のドラマ・内幕を知る“伝説のスカウト”の目には、どう映ったのか。ノンフィクションライターの柳川悠二氏がリポートする(文中敬称略)。 * * *◆「故障を知らずに1位指名」 1965年11月17日、プロ野球ドラフト会議は初めて開催された。男は、53年前の記憶の断片をつなぎあわせるように口を開き始めた。「非常にファジーな形でドラフト会議はスタートし、各球団が見切り発車で選手を指名していた。ですから、契約したもののまったく使い物にならなかった選手もいた。江川(卓)の事件や他の不正もあって、ドラフト制度は大きく変わり、今はクリーンに整備されている。そういった機運を作ったのは、やはり1985年のKK(桑田真澄、清原和博)のドラフトだと思います」 82歳になる男の名は井元俊秀。長く高校野球に携わる者に、彼が残した足跡はよく知られている。現在は秋田・明桜高校に籍を置く井元であるが、2002年までPL学園で全国の選手をスカウト(選手勧誘)する仕事に従事し、KKコンビや立浪和義らを同校に導き、常勝軍団を陰から作り上げた。 井元はPL学園1期生であり、同校を卒業後、学習院大学に入学。同大が初めてにして唯一、東都大学リーグを制した“神宮の奇跡”の時のエースだった。 卒業後、PL学園野球部の監督に就任すると、1962年の選抜で甲子園に初出場を果たす。その後、選手の進学先の世話に悩み、野球人脈を築こうとスポーツニッポンの記者に転身。新米記者として派遣された現場が、第1回ドラフト会議だった。「かつてのプロ野球界には、伝説を持つスカウトがたくさんいました」と井元はいう。阪神、東京オリオンズのスカウトを歴任した“マムシの一三”こと青木一三や“スカウトの神様”と呼ばれた広島の木庭教、そして中日の柴田崎雄──。「そうしたスカウトたちが、自由競争で選手を獲得していたのが1965年以前。しかし、いろいろと暗躍する人も多かった。あるひとりの選手の獲得に熱心な球団の横から、別の球団が『うちはこれだけ(契約金を)出すよ』と獲る気もないのに大きな金額を提示する。すると先に声をかけていた球団は条件を釣り上げますよね。そうした嫌がらせが横行し、契約金が高騰していた」 井元がスポニチに入社した1964年、東京オリオンズに上尾高校の山崎裕之の入団が決まった。契約金は史上最高額となる5000万円。そうした高騰を防ぐため、翌年からドラフト会議が実施された。「初めてのことで、リストに挙げていた選手を他に獲られたりしたらもうてんやわんや。『休憩をくれ』と言い出す球団まであった」 その日、大洋に1位指名されたのが、岡正光(保原高)という左腕。しかし入団後、ヒジの故障が発覚する。井元は翌1966年に大洋の担当記者としてキャンプを取材。この新人投手がブルペンで投げた瞬間、「あちゃー」と落胆する大洋首脳陣の声が聞こえたという。◆桑田・清原「二本釣り」計画 1968年には法政大の田淵幸一が阪神に、同じく山本浩二が広島に、明治大の星野仙一が中日に指名された。大豊作のドラフトであった。井元は翌1969年にはPLに戻り、教え子をプロに送り出すスカウトという立場でドラフトとかかわってゆく。 ドラフトにまつわる二大事件といえば、巨人が制度の盲点を突き、1978年のドラフト前日に江川卓と電撃契約をかわした「空白の一日」事件。そして、井元がPLに導いた清原、桑田の命運が、真っ二つに分かれた1985年のKKドラフトであろう。井元の負った傷も深い。「既に亡くなっている人も多く、真相というのは、誰にも分からない。私にも、そして桑田にも。とにかくあのドラフトはPLにかかわるすべての人間にとって不幸な出来事だった」 5季連続で甲子園に出場し、20勝を挙げた桑田と、春夏通算13本塁打を放った清原。桑田はドラフトを前に早稲田大への進学を表明し、清原はファンであった巨人への入団希望を公言してやまなかった。 しかし、ふたを開けてみれば、巨人が桑田を単独指名。清原は6球団の競合となり、西武が交渉権を獲得した。清原に同情の声が寄せられ、巨人と密約があったのではないかと、桑田には非難の目が向けられた。そして、この事件の黒幕と噂されたのが井元だ。しかし井元はKKの進路にはまるで関与していなかった。「桑田を早稲田の練習に連れて行ったことはありましたが……。だからドラフト会議の日も、僕は自宅で寝ておった。そこに飛び込んできたのが桑田だった。『先生、僕は巨人とできてなんていません』と。しばらくして、清原の母親が我が家を訪れ、『どうしてこんなことになるんですか』と……。家内は泣いてしまってね。うちの息子が同級生でしたから、親同士、仲が良かったんですよ」 もし巨人が桑田を指名していなければ、KKは揃って西武に入団したのではないか──改めて振り返っても、そんな思いが巡る。 西武では当時、管理部長として“球界の寝業師”と呼ばれた根本陸夫が辣腕を振るっていた。根本に可愛がられていた井元は、中学生でも有望な選手を見つけたら囲い込むような強引な手腕に驚かされながら、そのスカウト術に多くを学んだ。「西武は情報を絶対に漏らさず、独自のドラフト路線を貫いていた。これはあくまで私の憶測ですが、根本さんはKKの二本釣りを狙っていたのではないでしょうか。早稲田進学が有力視されていた桑田よりも、清原の方が競合になる可能性があった。だからまず、清原を獲りに行った。もし西武が両取りに成功していたら、誰も傷つかなかったという思いは抱えています」 井元は後年、江川が桑田に対し、こんな発言をしたという話を耳にした。「お前は良かったな。俺のプロ入りは他人が決めたけど、お前は早稲田にするか、巨人に入るかを自分の意志で決められたんだから」 ドラフトは、時に有望選手の人生を狂わせてきた。◆高卒プロ入りがいいとは思わない しかし、井元にはドラフトに対する信念がある。「それはね、クジになろうが、ドラフトで決まる球団が、その選手に最も相応しい球団だろうということ」 8球団が競合した1989年の野茂英雄や1998年の松坂大輔ら、井元が直接、関わっていないスターたちに対しても、その思いは同じだ。ドラフトとは運否天賦で、決まった球団が最良の道──。 1987年に春夏連覇を達成した時の主将である立浪には、当時の南海監督・杉浦忠がご執心だった。しかし、中日の星野仙一も後発ながら名乗りを上げ、ドラフト前にその理由を井元が問うと、星野は「立浪が来てくれたら中日のショートは10年は安泰だ」と答えたという。その星野が、クジを引き当てる。直後、井元は杉浦からこんな言葉をもらった。「申し訳ない。日頃、酒ばっかり飲んで、不摂生のバチが当たってしまった」 井元は通算187勝した球界の大エースからの謝罪に恐縮しきりだったという。 1991年にドラフト外入団が廃止に。1993年には逆指名制度が導入されるなどしたが、07年に西武の裏金問題が発生し、完全撤廃。その間も、井元は教え子をプロの世界に送り出し続けた。 「高卒でプロに入ることを、私が積極的に薦めたことは一度もない。高校生が夢を持つのはいいが、早急にプロに行けば、結果を残せず、失望する結果になってしまうことだってある。大学、社会人を経ることも、決して遠回りではないわけです。PLでいえば、今岡(誠)がそう。高校時代に阪神から話があったが、私はまだ早いと思って東洋大を紹介した。すると1年生からチャンスを掴み、五輪にも出た。結果、逆指名の1位で阪神に入ったわけです」 今年は、春夏連覇を達成した大阪桐蔭の根尾昂が中日に、夏の決勝で大阪桐蔭に敗れた吉田輝星は日本ハムから指名を受けた。 吉田とも井元は浅からぬ因縁がある。井元が選手勧誘を担当する明桜と金足農業はライバルで、2年連続で秋田大会の決勝を戦った。 明桜の山口航輝は、井元が声をかけ、大阪から秋田に向かわせた教え子である。昨夏の決勝までは吉田を上回る評価の投手だったが、吉田の牽制で帰塁した時、右肩を脱臼し、この夏までに完全回復は叶わなかった。しかし、広角に力強い打球を放てる打力が評価され、ドラフト候補となっていた。 井元はドラフト前、山口にこう告げていた。「何球団から調査書が届いたとか、いろいろと一喜一憂しておったから、『指名はないと思っておいた方がいい』と伝えていたんだよ」 それは杞憂に終わり、山口は4位で千葉ロッテに指名された。体が続く限り野球に携わっていたいと常々話している井元。次にプロに送り出す選手は、誰になるのか。※週刊ポスト2018年11月9日号
2018.10.30 07:00
週刊ポスト
阪神大震災、地下鉄サリン、Win95、野茂…平成7年の出来事
阪神大震災、地下鉄サリン、Win95、野茂…平成7年の出来事
 残り少しとなった平成を振り返るにあたり、重要な1年となったのが平成七年(1995年)だ──。 平成7年1月17日午前5時46分、兵庫・淡路島北部を震源とするマグニチュード7.3の直下型地震が発生。神戸では震度7の激震を記録。建物の倒壊や火災が相次ぎ、死者約6400人、重軽傷者約4万人、被害家屋約64万棟にも達した。震災後も避難所暮らしを強いられた被災者の数は31万人以上。仮設住宅では高齢者の孤独死も深刻な問題に。また、多くの震災遺児らも心に深い傷を負った。 3月20日、東京の地下鉄で通勤ラッシュの時間帯を狙い、猛毒ガス・サリンが撒かれる事件が発生。死者13人、負傷者6000人超という大惨事に。警視庁はオウム真理教の教団施設を強制捜査。5月、山梨・上九一色村(当時)の教団施設「サティアン」の隠し部屋に潜んでいた教祖・麻原彰晃こと松本智津夫を逮捕。幹部・信者ら14人も逮捕され、これによって前年の長野・松本サリン事件、1989年の坂本堤弁護士一家殺害など一連のオウム真理教による犯罪が徐々に真相解明されていった。 スポーツでは近鉄からドジャースに移籍した野茂英雄投手が大リーグ初勝利。新人王、奪三振王を獲得するなど投法のごとくトルネード旋風を巻き起こした。相撲では、横綱・貴乃花が元フジテレビアナウンサーの河野景子さんと結婚。同年、9月に長男誕生。芸能界では『時の流れに身をまかせ』や『つぐない』など数々のヒット曲で知られる“アジアの歌姫”テレサ・テンが旅先のタイ・チェンマイで急死。42才の若さだった。 また、この年はパソコン用OS『Windows95』の日本初上陸で大賑わい。安さと軽さがウリの“ピッチ”(PHS)も登場した。女子高生の間では「プリクラ」が大人気。中高年の間では恋愛映画『マディソン郡の橋』が話題に。海藻入りの“やせる石鹸”などもヒットした。【平成七年の主な出来事】1月17日 阪神・淡路大震災発生2月6日 ダイアナ妃が最後の日本訪問3月20日 地下鉄サリン事件発生4月9日 統一地方選挙で東京都知事に青島幸男、大阪府知事に横山ノックが当選5月8日 歌手のテレサ・テンが死去(享年42)5月16日 山梨・上九一色村にてオウム真理教教祖の麻原彰晃を逮捕5月29日 貴乃花と河野景子さんが結婚6月2日 野茂英雄投手が大リーグ初勝利9月4日 沖縄で3人の米兵による女子小学生暴行事件発生11月23日 『Windows95』 日本発売12月8日 高速増殖炉『もんじゅ』ナトリウム漏れ事故※女性セブン2018年10月11日号
2018.10.01 07:00
女性セブン
日大悪質タックル問題 醜聞にまみれた米名門大の「前例」
日大悪質タックル問題 醜聞にまみれた米名門大の「前例」
 日大アメフト部の悪質タックル問題、2つの会見を経た後も釈然としない思いが残った。立教大学体育会野球部に所属していた過去があり、現在も立教大学非常勤講師として、「スポーツビジネス論~メジャーリーグ1兆円ビジネス」の教鞭を執るスポーツジャーナリストの古内義明氏が指摘する。 * * * 5月22日に日本記者クラブで、日本大学アメリカンフットボール部の当該選手の会見を見て、胸が痛くなった。日本中が注目し、社会問題となる中、彼は身分を証し、自分の言葉で謝罪する決断をしなければならなかった。会見場には日大アメリカンフットボール部はおろか、日大の関係者の同席もない中で、20歳の若者一人が350人を超えるメディアの前に立つような状況に、なぜ追い込まれてしまったのか、大学スポーツに関わる身として、激しい憤りを感じざるを得なかった。 コンタクトスポーツの世界において、彼が行った故意によるラフプレイは許されるものでは決してない。しかし、彼が発した「事実を明らかにすることが、償いの第一歩」という真摯な態度は関西学院大学アメリカンフットボール部のクオーターバックの選手とそのご家族、そして関係者の方々に届いていたと信じたい。 私はアメリカの大学院に進み、スポーツ経営学の修士課程で学ぶ中で、全米大学体育会協会(NCAA)の存在意義、そして、カレッジスポーツの関係者と話す機会に幾度となく恵まれた。その経験から今回の問題で、真っ先にNCAAの歴史に汚点を残したペンシルベニア州立大学のスキャンダルを思い出した。 ペンシルベニア州立大学アメリカンフットボール部は「ビッグ10カンファレンス」に所属する強豪であり、2度の全米チャンピオンに輝く名門校だ。陣頭指揮を執るジョー・パターノ監督は46年間もサイドラインに立ち続けたカリスマ的な名将であり、カレッジフットボールの殿堂入りも果たしている。 2011年、その名将の右腕のアシスタントコーチだったジェリー・サンダスキーが15年間に渡り、8人の少年に性的虐待をしていたことが発覚し、全米を震撼させた。大学理事会の対応は迅速だった。事の重大性に鑑みて、元FBI長官のルイス・フリー氏を長とする外部委員会を設置し、調査を依頼。出来上がった報告書によると、「パターノ監督が事件の隠蔽工作を積極的に指揮していた」という衝撃的な事実が明らかになった。 パターノ監督はシーズン終了後の辞任を表明していたが、大学理事会はそれを許さず、伝説的な名将は解任された。と同時に、学長、副学長、体育局長という大学の要職も解任したのだ。さらに、10万6572人を収容するビーバー・スタジアムの前に立つパターノ監督の銅像も重機によって撤去された。 統括団体となるNCAAの制裁措置は関係者の予想を上回る徹底したものだった。まずは、パターノ監督が「不祥事を知り得た時点」までさかのぼって、それ以降に記録した111勝は抹消された。これにより409勝の通算勝ち星は298勝となり、「歴代最多勝利監督」という栄誉も剥奪された。また制裁金として、当時のレートで約48億円という巨額の罰金の支払いを命じ、4年間に渡ってプレーオフ進出禁止と毎年10人分の奨学金停止も通達された。 同校のあるペンシルベニア州のステートカレッジは4万人という小さな町であり、ペンシルベニア州立大学フットボール部はおらが町の誇りだった。スキャンダルが与えた経済的損失はもちろんのこと、何よりも名門校が受けたイメージダウンは避けられないものとなった。それでも、ペンシルベニア州立大学は高等教育機関として、ゼロからの出発を選んだ。監督はもちろんのこと、大学トップをも解任して、自らの襟を正す決断をしたのだ。 だからこそ、今回の日本大学とアメリカンフットボール部の対応、そして世論との間にこそ大きな「乖離」があると言わざるを得ない。 立教大学では「RIKKYO ATHLETE HANDBOOK」を作成し、体育会51部56団体に所属する2400人のすべての部員に配布している。この中には、立教大学の体育会活動を支える考え方をまとめた「立教大学体育会憲章」が掲載され、体育会学生であることの心構えが記載されている。学生は内容を習熟することで、スポーツ活動と学業を両立させる文武両道の精神のもとに、人間性を養うことがうたわれている。 その憲章の中にある第7条(監督・コーチとの関係)では、「体育会各部の監督・コーチ(以下「指導者」という。)」は、体育会員に技術を指導し、スポーツを理解せしめ、その心身の健全なる育成を行う」(原文ママ)とある。指導者とは技術指導はもちろんのこと、学生に対してルールに基づいたスポーツの本質を教えることで、社会のためになる人間形成が求められている。 23日夜になって日本大学アメリカンフットボール部の内田正人前監督と井上奨コーチがようやく会見を開いた。だが、該当選手の会見と、内田前監督や井上コーチの会見を聞き比べると、やはり何か釈然としない。また、2人の指導者が質問に対して、的確な回答をせず、どこか他人事であり、全て保身に走る内容という印象が残った。結果、該当選手か、指導者のどちらかが嘘をついていると言わざるを得ない歯切れの悪さが残る会見となった。 今回の一連の問題で、大学は誰のためにあるのか、指導者は誰を守るのか、という本質論が浮き彫りになった。学生スポーツに関わる大人が、「選手に対して、自分の息子、娘のように考えられるか、どうか」。いま、その姿勢そのものが問われているような気がしてならない。【PROFILE】古内義明(ふるうち・よしあき)/立教大学法学部卒、同時に体育会野球部出身。ニューヨーク市立大学大学院修士課程スポーツ経営学修。立教大学では、「スポーツビジネス論~メジャーの1兆円ビジネス」の教鞭を執る。1995年の野茂英雄以降、これまで二千試合を取材するスポーツジャーナリスト。著書に、『メジャーの流儀~イチローのヒット1本が615万円もする理由』(大和書房)など、これまで14冊のメジャー書籍を執筆。(株)マスターズスポーツマネジメント代表取締役、テレビやラジオで高校野球からメジャーリーグ、スポーツビジネスまで多角的に比較・分析している。
2018.05.24 07:00
NEWSポストセブン
大谷・羽生など1994年世代 キーワードは“グローバル”
大谷・羽生など1994年世代 キーワードは“グローバル”
 メジャーリーグでも二刀流で活躍する大谷翔平や、五輪2連覇を果たしたフィギュアスケートの羽生結弦など、1994年生まれのアスリートには錚々たる面々が名を連ねている。水泳の萩野公介・瀬戸大也、サッカーの浅野拓磨・南野拓実、柔道のベイカー茉秋、卓球の丹羽孝希、スピードスケートの高木美帆、バドミントンの桃田賢斗・奥原希望など、世界を舞台に活躍する若きアスリートたちはみな、1994年生まれだ。 世界を視野に入れつつ、楽しみながら成長する1994年組。そんな彼らの活躍ぶりを読み解くキーワードは、「グローバル化」だ。石川教育研究所代表で教育評論家の石川幸夫さんが言う。「1993年に法隆寺地域の仏教建造物や姫路城が日本で初めてのユネスコ世界遺産となり、大相撲では曙が外国人初の横綱になりました。向井千秋さんが女性初の宇宙飛行士として飛び立ったのもこの年。1994年生まれ世代は、狭い日本から世界に飛び出していこうとの機運が高まるなかで生まれた子供たち。親の世代にも“わが子を世界で通用する人材にしたい”という気持ちが強かった」 この頃を境にアスリートたちも徐々に海外に進出した。野茂英雄がメジャーリーグに挑戦して大旋風を巻き起こしたのは1995年。それを皮切りに佐々木主浩、イチロー、松井秀喜、松坂大輔ら日本のトップ選手が次々と海を渡った。 野球だけでなく、野茂以降は松岡修造、伊達公子がテニスの4大大会で活躍し、サッカー日本代表も1998年フランス大会以降、W杯の常連国となるなど、日本人アスリートのグローバル化が進んだ。スポーツ評論家の玉木正之氏はこう話す。「フィギュアでいえば、本田武史、高橋大輔ら先人の奮闘が羽生の活躍につながりました。かつて日本人選手が海外に挑戦することは、桃太郎が背中に日本一という旗を立てて鬼ヶ島に鬼退治に行くようなもので、ガチガチに力が入って実力が発揮できず“プレッシャーに弱い”と酷評されました。しかし最近は海外のスポーツ中継がテレビやネットで簡単に見られるので、海の向こうで活躍する自分の姿をイメージできるようになり、世界の舞台に立っても物怖じする選手が少なくなった。その代表格が大谷と羽生でしょう」 目指す世界が「夢の彼方」ではなく「日常」にあった世代ゆえ、日本を離れても平常心でプレーできる。臨床心理士の藤井靖氏が、1994年世代のメンタルについて、こう分析する。「大人になってから海外に行った人と、子供の頃から海外に目が向いている環境に身を置いてさまざまな体験をしている人とでは、危機に陥った時の適応力が違います。世界で勝つためには、まず世界を知っておくことが大切です」※女性セブン2018年5月10・17日号
2018.04.30 16:00
女性セブン
大谷翔平に立ちはだかるヤンキース「傷ついたプライド」
大谷翔平に立ちはだかるヤンキース「傷ついたプライド」
 いよいよエンゼルスの大谷翔平が名門ヤンキースとの一戦を迎える。今回は日本時間の29日に先発が予定される田中将大との初対決となる。ヤンキースは大谷を花巻東時代から最大級に評価していた球団の一つだが、争奪戦であっさり敗れた。これまで二千試合を現地で取材したスポーツジャーナリストの古内義明氏が、「大谷VSヤンキース」の因縁、そしてマー君との初対決を紹介する。 * * *  ヤンキース・ファンは大谷が憎いかもしれない。ポスティング制度によるメジャー移籍で、大谷にはメジャー30球団から好きな球団を選ぶ権利があった。それでも、ヤンキースは大谷に選ばれなかった。 野球選手なら誰しもが憧れ、ピンストライプのユニホームに一度は袖を通したいと思っているのがヤンキースという球団だ。メジャー1年目のイチローがオールスターゲームに選出された時、憧れだったヤンキースのバーニー・ウィリアムズとユニホームを交換して、たいそう喜んでその場でユニホームを着た。  しかし、である。大谷が選んだのは、エンゼルスだった。選ばれなったヤンキースのブライアン・キャッシュマンGMは、「(大谷を獲得するために)2012年からスカウト活動をはじめ、チームを整えてきた。ニューヨークが東海岸の大都市であることは変えられない。(大谷には)全てをアピールしたが、合わない選手には合わない」と、吐き捨てるような敗戦の弁だった。4度の世界一に導き、5年総額28億3500万円のGM最高年俸男のプライドはズタズタに引き裂かれたに違いない。  これを受けて、ニューヨーク・メディアは大谷を格好の餌食にした。NYポスト紙は「No-htani !大谷翔平、ヤンキースを断る!」、NYタイムズ紙は、「大谷翔平、ヤンキースを拒否」、極めつけは、NYデイリーニュース紙の「なんて臆病者だ!」という見出しを並べた。大本命と目されていたヤンキースが面接にもよばれない書類審査で落選したことは、メディアとファンを敵に回すのに十分な条件となった。  中規模都市、温暖な気候、日本人選手がいない球団、二刀流の起用法などなど、敗因を挙げればキリがない。ましてや、メジャーの25歳ルールの前に、ヤンキースは圧倒的な資金力を背景とした得意のマネーゲームに持ち込めなかった。 スプリング・キャンプ中、ニューヨークのメディアの重鎮記者は大谷詣でに熱心だった。NYポスト紙のベテラン記者であるケビン・デービッドオフは、スプリング・キャンプを振り返る記事で大谷をこう評した。「新人の大谷は投打でかなり苦しんでいるので、エンゼルスは5月中旬まで3Aのソルトレークでプレーさせるオプションを選択するだろう。その上で、大谷は6月中旬にメジャーに昇格させ、二刀流で起用する責任を負うだろう」。  同氏の予想は大きく外れた。だがそのおかげで、日本のゴールデンウイークという最高の時期に、「大谷VSヤンキース」という日米の野球ファンが注目するカードが実現することとなった。  このシリーズで大谷が対峙するヤンキースの田中将大は、エンゼルスに相手に過去3年間で3試合に先発して1勝0敗、防御率1.27(エンゼルスタジアムでは0.63)、被安打率.197と抜群の成績だ。今季もすでに3勝をマークした田中は、5年間で55勝30敗とメジャーを代表する投手となった。その田中と大谷はプロ1年目の2013年に対戦し、11打数ノーヒット(6三振2四死球)と完膚なきまでに抑えられている。  あれから5年。メジャー27位タイの約24億円の年俸を稼ぐ田中と、メジャー最低年俸の約6000万円でスタートした大谷のメジャー初対決。ストーブリーグで両軍が繰り広げた「大谷争奪戦」というスパイスが加味されて、ますます目が離せなくなった。【PROFILE】古内義明(ふるうち・よしあき)/立教大学法学部卒、同時に体育会野球部出身。1995年の野茂英雄以降、これまで二千試合を取材。著書に、『メジャーの流儀~イチローのヒット1本が615万円もする理由』(大和書房)など、これまで14冊のメジャー書籍を執筆。(株)マスターズスポーツマネジメント代表取締役、テレビやラジオで高校野球からメジャーリーグまで多角的に比較・分析。立教大学では、「スポーツビジネス論~メジャーの1兆円ビジネス」の教鞭を執る。
2018.04.28 16:00
NEWSポストセブン
大谷マニアに沸くエンゼルス 集客力では既に「松井秀喜超え」
大谷マニアに沸くエンゼルス 集客力では既に「松井秀喜超え」
 エンゼルスの勢いが止まらない。大谷効果で、7連勝。大方の予想を裏切る開幕ダッシュでア・リーグ西区首位に立つ。1995年の野茂英雄以降、これまで二千試合を現地で取材したスポーツジャーナリストの古内義明氏が、初めてエンゼルスを見た29年前を回想し、“大谷マニア”も出現した現在のフィーバーを比較しながら、エンゼルスの球団史を見つめた。 * * * カリフォルニアの太陽で焼けたチームカラーの赤色の座席がやけに目立つ。観客はまばらで、売り子の声が響き渡り、客席では野球そっちのけで、ビーチボールで遊ぶファンが妙に楽しげだった。 いまから29年前、エンゼルスのゲームを初めて見たこの光景が、私の脳裏に焼き付いている。 その年、本拠地アナハイム・スタジアムではオールスターゲームが開催された。エンゼルスから選出されたのは、左のエースのチャック・フィンリーただ一人。すでにオールスターグッズは大量にセール品として出され、ショップ内の人影はまばら。いまやそのショップでは、「OHTANI」とプリントされたユニホームやTシャツが飛ぶように売れている。 1961年に拡張計画の新球団として誕生したエンゼルス。最初のシーズンはロサンゼルス・リグレー・フィールドを、翌1962年から1965年まではドジャー・スタジアムを間借りしていた。平均観客動員は1試合あたり1万人ほどで、現在の夏の甲子園よりも少なかった。1966年に待望のアナハイム・スタジアム(現エンゼル・スタジアム・オブ・アナハイム)が完成するが、1980年にナショナルフットボールリーグのロサンゼルス・ラムズが移転してきたため、兼用球場に改修され、余計に空席が目立つ憂き目にあった。 エンゼルスが全米の注目を集めることは稀だった。球団史を彩ったロッド・カルーやノーラン・ライアンはその時々で注目を浴びたが、人気球団が来場した時はその球団のユニホームを着たファンの声援が目立つことも珍しくはなかった。当時の思い出としては、人気野球映画「メジャーリーグ」に主演したチャーリー・シーンが彼女と一緒に、誰もいないレフトの外野席で、両手を広げてホームランボールをおねだりする姿が、お茶の間に流れたことだ。 ロサンゼルスと言えば、今も昔もドジャースである。毎年のようにワールドシリーズ制覇を狙うドジャースは、リーグ優勝22回、世界一に輝くこと6回の名門球団。一方のエンゼルスは、リーグ優勝とワールドシリーズ制覇が2002年のわずか一度だけ。非常に対照的なチームが50キロ圏内に共存しているのだ。スタジアムを包む空気はどこか牧歌的で、ファンも勝利に執着するよりも、野球自体を楽しむという雰囲気。23歳の大谷翔平の成長を温かく見守るファンであることは間違いないだろう。そういう意味で、大谷は自分の将来像を描けるいい球団を選んだ。 そのエンゼルスは1961年の創設以降、実は正式名称を4回も変更している。1961年から1964年までロサンゼルス・エンゼルス。1965年から1996年はカリフォルニア・エンゼルス。1997年から2004年まではアナハイム・エンゼルス。そして、2005年から現在まではロサンゼルス・エンゼルス・オブ・アナハイムという具合だ。初代オーナーは、カウボーイ俳優として一世を風靡したジーン・オートリー氏。球場内に銅像があるし、彼の背番号「26」はチームの6つの永久欠番の一つになっている。 お荷物球団と揶揄されたエンゼルスは1997年にウォルト・ディズニー社がオーナーとなって、チーム改革が一気に進んだ。1995年にラムズがセントルイスへ移転したことで、野球専用スタジアムに改築され、その際左中間にビックサンダーマウンテンのような巨大な岩山が登場した。同社はナショナル・ホッケー・リーグのアナハイム・ダックスも創設し、ディズニーランドとスポーツの一体化を進めた。その結果、2002年ワイルドカードからプレイオフに出場したエンゼルスはその勢いのまま、球団創設42年目で初のワールドシリーズを制し、球団史を塗り替えてみせた。 その陣頭指揮を執ったのが、2000年に就任し、現役最長監督のマイク・ソーシア監督。レギュラーシーズンの勝率は5割を越え、通算勝利数「1582勝」で球団歴代1位、メジャー史上でも21位にランクインする名将だ。ただ、2009年のプレイオフ以降白星から遠ざかり、今季が契約最終年という土俵際。大谷の加入を追い風にして、是が非でも結果が欲しいシーズンだろう。 大谷を最も欲しがった男が、広告代理店業で財をなしたオーナーであるアート・モレノ。メジャー史上初のヒスパニック系のオーナーとなった。アナハイム人口の46.76%がヒスパニックまたはラテン系であるという数字を意識したマーケティング戦略で、長年白人ファンが多かったファンの構成比を変えた。当然、アルバート・プホルズを始めとして、ラテン系選手の補強にも積極的だ。また、モレノがオーナーになって以降、観客動員数が300万人を下回ったことは一度もなく、1990年代に4度も100万人台があったチームとは到底思えないほど、経営面でも成功している。 過去にも、長谷川滋利氏、松井秀喜氏、高橋尚成氏が在籍したが、大谷ほど爆発的な観客動員数に繋がることはなかった。ヤンキースでワールドシリーズMVPを獲得した翌年に移籍した松井秀喜氏でさえ、晩年であり、今回のような騒ぎにはならなかった。 大谷の年俸は、メジャーリーガー最低年俸の54万5千ドル(約5830万円)。大谷見たさに、ホームゲームはすでに二度の満員御礼。今月8日の日曜日には1998年の改修以降、デイゲームでは最多となる44742人のファンが、本拠地初登板を見るために詰めかけ、日本でも「エンゼルス」の名前が連日メディアで連呼される現象は続いている。 29年前の「あの日」を知る人間としては、今回の大谷フィーバーには隔世の感を禁じ得ない。【PROFILE】古内義明(ふるうち・よしあき)/立教大学法学部卒、同時に体育会野球部出身。1995年の野茂英雄以降、これまで二千試合を取材。著書に、『メジャーの流儀~イチローのヒット1本が615万円もする理由』(大和書房)など、14冊のメジャー書籍を執筆。(株)マスターズスポーツマネジメント代表取締役、テレビやラジオで高校野球からメジャーリーグまで多角的に分析する情報発信。立教大学では、「スポーツビジネス論~メジャーの1兆円ビジネス」の教鞭を執る。
2018.04.17 07:00
NEWSポストセブン
日米絶賛の大谷翔平を待ち受けるMLBの「見えざる敵」
日米絶賛の大谷翔平を待ち受けるMLBの「見えざる敵」
 キャンプの不安を一掃する開幕ダッシュに大成功した大谷翔平に、日米メディアが賛辞を惜しまない。だが、適応しなければいけない敵は球場外にも待ち受けている。1995年の野茂英雄以降、これまで二千試合を現地で取材したスポーツジャーナリストの古内義明氏が、大谷の「見えざる敵」を解説する。 * * * アメリカのスポーツメディアが大谷翔平を語るとき、球聖ベーブ・ルースの写真とのセットがもはや定番となった。キャンプでの散々な数字から大谷を酷評していた大手メディアも、100年前の伝説の選手を引き合いに出して、懺悔する掌返しの結果になった。 それにしても、キャンプの不安を払拭するに充分なオープニング・ウィークでの投打に渡る「二刀流」の大活躍は、日本選手最速・最年少での週間MVPを受賞し、名刺代わりとなった。 上昇気流に乗る大谷だか、残り試合は150試合以上もある。マラソンで言えばまだ競技場から公道に出たに過ぎない。ここからが本当の勝負の始まりだ。 1995年から過去50人を超える日本選手を取材してきた立場として、大谷が今後直面するグランド外の敵を指摘したい。 開幕を敵地オークランド、そして本拠地アナハイムという西海岸で迎えた大谷はテキサス州アーリントンからミズーリー州カンザスシティという遠征中だ。 メジャーの遠征はプライベートが確保されたチャーター機の移動。選手バスがタラップまで横付けされるからセキュリティの煩わしさもなく、エコノミー席が2、3席割り当てられるスタイルだ。前方のファーストクラスは球団幹部や首脳陣が座り、機内の後方に行くに従って、ベテラン選手が座る傾向にある。ルーキーの大谷は前方部になるはずだ。 機内では睡眠が王道。トランプやDVD・音楽・読書が定番で、WiFi環境が整備された昨今はネット利用が盛んで、株や為替の資産運用に励む猛者もいる。 現地に到着すれば、選手専用バスが横付けされ、そのまま滞在先のホテルに直行する。通常であれば、列に並ぶチェックインもスルー。各自が決められた部屋に直行する。 労使交渉で選手会が勝ち取ったホテルはフォーシーズンズなどのファイブスターばかりで、ラグジュアリーな空間が約束されている。選手のリクエストも多種多様だ。禁煙・喫煙から始まり、ツインやキングサイズベット。低層階から高層階。そして、中にはスィートルームの特権を勝ち取るスーパースターもいる。外出せずにルームサービスで食事を済ませる選手もいて、宿泊費以外の清算は当然チェックアウト時に自分で行う。 今回、日曜日のデイゲーム後にアナハイムを出発した大谷は、時差が1時間しかないテキサスへの楽な移動だった。これがナイトゲーム後のニューヨーク・ヤンキース戦の移動ならば、3時間の時差で、ホテルのベットに入るのは、明朝6時や7時は当たり前。時差や睡眠不足に悩まされ、目が充血することから、通称レッドアイと呼ばれている。しかも、翌日の先発ともなれば、通常の野手集合時間より前にヤンキースタジアムのブルペンで調整しなければならない。因みに遠征先では球場までの選手専用バスが時差式で2台準備される。 大谷は半袖姿の温暖な気候で開幕を迎えたが、田中将大のいるヤンキースの本拠地開幕戦は雪で中止。氷点下の中西部で試合があったイチローは、「野球をやる天気ではない」と嘆いたように、広大な北米大陸は温度差と湿度に大いに悩まされる。特に湿度が低く、乾燥する土地は大谷の指先を微妙に苦しめる。すでにマウンドで見せる指先に息を吹きかける仕草が多くなるだろう。 五月上旬には、メジャー全球団で最も標高の高い場所にあるロッキーズの本拠地クアーズフィールドが待ち構えている。標高1マイル(約1600メートル)地点にあることから通称マイル・ハイと呼ばれ、気圧の低さから打球が飛ぶ投手泣かせの球場だ。大谷もこの時ばかりは、投手ではなく、打者で先発したいという程、バッターズパークと呼ばれるくらいの打者記録が生まれている(1996年ノーヒッターを唯一達成した野茂英雄は特筆ものだ)。 遠征先では食事面も心配のタネで、慣れが必要だ。多くの日本選手が日本食を好み、お店に頼み込んで夜の営業時間を延長したり、お弁当を作って貰ったり、人間関係作りは欠かせない。 ただこれまで60人以上も日本選手という先輩たちのおかげで、ある程度のレストラン情報が共有化さる時代になった。また、自分の好みに合わせて、日本食以外のカテゴリーを開発してきた先輩も多い。中華街はサンフランシスコやトロントなど、どこにでもあるし、野球選手の大好きな焼肉はコリアタウンで食べられる。イチローは、全米展開のイタリアンのピザにハマったし、松井秀喜氏はインド料理やエスニック料理を開拓し、食を楽しんでいた。 大谷は開幕してから、本拠地のゲームが多く組み込まれているスケジュールで、東海岸遠征は5月下旬までないのはラッキーで、アメリカの生活に慣れるための追い風にしたいところだ。 最大二週間の長期遠征で一番多い忘れ物が下着類だ。松井氏によれば、「宿泊数の計算間違いで足りなくなって遠征先で購入したことも何度かあった」という。 カギは、ホテルと球場の往復ばかりでなく、リフレッシュできる時間と空間を見つけることだろう。余裕が出てくれば、カンザスシティ遠征ならニグロリーグの野球殿堂に、そしてボルチモア遠征では、ベーブ・ルースのミュージアムという風に足を運んでもいいだろう。 大切なことは各地で心地よいルーティンワークをいかに整えられるか。メジャーリーガーの成功は、このような見えざる敵とも上手に付き合わなければ手にできないものだ。【PROFILE】古内義明(ふるうち・よしあき)/1995年の野茂英雄以降、これまで二千試合を取材。著書に、『メジャーの流儀~イチローのヒット1本が615万円もする理由』(大和書房)など、14冊のメジャー書籍を執筆。(株)マスターズスポーツマネジメント代表取締役、立教大学では、「スポーツビジネス論~メジャーの1兆円ビジネス」の教鞭を執る。
2018.04.12 07:00
NEWSポストセブン

トピックス

ご体調への不安が募る(写真/JMPA)
雅子さまと愛子さま、“ポツンと一軒家”の孤独感 閉ざされた御所での巣ごもり生活
女性セブン
SNSでも話題の「佐賀大学お嬢様部」に直撃
佐賀大学“お嬢様部”の活動実態を直撃取材!「お嬢様の定義をお教えしますわ」
週刊ポスト
1980年、田中派の総会で挨拶をする田中角栄(写真/共同通信社)
鉄の結束を誇った田中角栄軍団、「みんな田中ファン」指導力に心酔した議員や秘書たち
週刊ポスト
今は「芸人部署」に所属している久代萌美アナ
久代萌美、亀井京子アナも 女子アナ獲得の吉本、テレ東のエースアナにも注目
NEWSポストセブン
公務に邁進されている(6月、東京・港区)
佳子さま「公務に積極的」になられた背景に「皇籍離脱」「結婚」か
女性セブン
亜希
亜希 陰から見守る元夫・清原和博と息子達との「父子鷹」
NEWSポストセブン
小室圭さんと眞子さん
小室圭さん妻・眞子さんがNYで行きつけのスーパーから見えてきた“妻の気遣い”「日本でいえば『成城石井』」 
NEWSポストセブン
披露宴での志摩ノ海と元関脇・逆鉾の長女・清香さん(時事通信フォト)
故・逆鉾の長女が結婚で後継者確定も名門・井筒部屋再興への“高いハードル”
週刊ポスト
クルマ、ギター、アート、スケートボードにもこだわる
長瀬智也、英国のバイク誌に登場 悠々自適な暮らしに「所ジョージ化している」の声
女性セブン
京都の街を歩く舞妓のイメージ(写真/イメージマート)
元舞妓の〈16歳飲酒〉〈お風呂入り〉告発に、花街関係者も衝撃「未成年飲酒には厳しく対応しているはず」
NEWSポストセブン
結婚し、日本メディアが情報をキャッチしづらいNYで、デイリーメールが追跡取材(写真/JMPA)
小室圭さん・眞子さん夫婦が「離婚で終わったとしても…」英デイリー・メールが報じた「茨の道」
NEWSポストセブン
不祥事を理由に落選したはずなのに、比例で復活されては…(左は塚田一郎氏、右は中川郁子氏/写真=共同通信社)
「不倫路チュー」「USBは穴に…」失言・不祥事で落選しても比例復活するゾンビ議員たち
週刊ポスト