満洲国全図。会談場所とされた前線司令部があるジャリコーヴォ村は満洲国との国境近くにある(『消された外交官 宮川舩夫』斎藤充功著より)
「立ったまま」だった日本側代表者たち
当時ここには、ソ連第1極東方面軍の前線司令部が置かれており、日本側の関東軍との間で、停戦に向けた話し合いが行なわれたのだった。会談の出席者は次のとおり。
【日本】
秦彦三郎(はた・ひこさぶろう)関東軍総参謀長(中将)
瀬島龍三(せじま・りゅうぞう)関東軍参謀(中佐)
(通訳 宮川舩夫[みやかわ・ふなお]在満洲国ハルビン日本総領事)
【ソ連】
アレクサンドル・ヴァシレフスキー極東ソ連軍総司令官(元帥)
キリル・メレツコフ第一極東方面軍司令官(元帥)
ロディオン・マリノフスキーザバイカル方面軍司令官(元帥)
イヴァン・ユマーシェフ太平洋艦隊司令長官(大将)
アレクサンドル・ノヴィコフ極東空軍司令官(元帥)
(ほか幕僚・通訳など数名)
日本側が関東軍のナンバー2と参謀の2人だけだったのに対し、ソ連側は今まさに進行している満洲攻撃を指揮している極東ソ連軍の5人の元帥・大将が顔を揃えたのだった。
それだけではない。瀬島参謀は後年、この屈辱的な停戦交渉を次のように述懐している。
〈我々が入室しても、ソ連側は座ったままであり、我々は最初、立ったままだった。勝者と敗者の立場を免れることはできなかった。[中略]
この会見は交渉というよりも勝者の敗者に対する示達だった。〉(瀬島龍三著『幾山河 瀬島龍三回想録』産経新聞ニュースサービス)
もともとこの会談は、ソ連軍の侵攻により満洲各地で戦闘が繰り広げられる中、一刻も早く事態の収拾を図ろうと、秦総参謀長の要請でハルビン特務機関の秋草俊機関長(関東軍情報部長/少将)を介して在ハルビンのソ連総領事パウルチューコフに交渉の斡旋を依頼し、実現したものだった。出席者は前述した軍幹部のみで政府の代表はおらず、「停戦協定」と呼べるようなものではなかった。
ソ連側に残された関東軍の鹵獲資料によると、この会談でソ連側は、「遅くとも八月二〇日[会談翌日]午後一二時までに戦闘行動を停止すること」「関東軍総司令部が諸部隊の降伏に責任を持つ」「関東軍総司令部が、降伏期間中の各部隊の給食と衛生に責任を持つ」ことなど、五項目の停戦条件を一方的に伝えたとされる(麻田雅文著『日ソ戦争』中公新書)。
また、保阪正康著『昭和陸軍の研究』(朝日文庫)によれば、ヴァシレフスキーの回顧録(『全生涯の出来事』)には、この時の日本側の様子が次のように綴られている。
〈交渉の間じゅう、秦とその側近たちはまったく意気消沈してみえた。「サムライ」の強気は跡形も残っていなかった。満州国の昨日までの横柄な支配者は、従順で卑下しているようでもあった。我々の一言一言に、性急にうなずいた。おそらく彼らは、心理的に打ちひしがれていたのであろう。〉
ジャリコーヴォ会談は、まさに「勝者による示達」だった。