「日ソ交渉のエキスパート」宮川舩夫の無念
出席した3人を含む日本側5人は、まるでソ連側に連行されるように、ハルビン香坊飛行場からソ連の輸送機に乗せられてジャリコーヴォ飛行場へ向かい、そこから軍用車輛に分乗して司令部が置かれた急ごしらえの丸太小屋に通された。会談後、そのまま現地に留まるかと打診されたが、拒否。しかし結局、翌日には別の関東軍幹部を派遣するよう指示されて、ソ連側に“人質”を差し出す形となった。もはや日本側に選択肢はなかった。
〈会見終了後、こちらの承諾もなしに写真撮影があった。「関東軍最後の日」として宣伝用に使う不名誉な写真と思われ、言い知れない屈辱を感じた。〉(前掲書『幾山河』)
瀬島が「不名誉な写真」になると予想した記録写真は、今のところ公にはなっていない。その代わり、この会談の模様を写した写真が伝わっている。
正面中央にヴァシレフスキー総司令官、向かって左隣にメレツコフ司令官が座り、右端には秦総参謀長と思われる日本人が写っている。さらに、その手前で手と横顔が見えているのは瀬島参謀と思われる。
よく見ると、写真右奥にはフロアスタンドがあり、その横には、ソ連軍最高総司令官であるヨシフ・スターリン首相の彫像が置かれている。あたかもこの「停戦会談」が、絶対的権力者スターリンの監督下で行なわれていることを象徴しているようにも見える。
しかし、この理不尽なジャリコーヴォ会談に際して、最も強く憤りと無念を感じていたのは、秦総参謀長でも瀬島参謀でもなく、宮川総領事だったかもしれない。
実は、宮川舩夫は単なる通訳ではなかった。
宮川はノンキャリア(高等文官試験を受けていない専門職員)の外交官でありながら、当時の日本人の中でソ連の政治・外交に最も精通した第一人者、エキスパートだった。その能力を称賛する証言は、枚挙に暇がない。
「外務省きってのロシヤ通」(細川護貞著『情報天皇に達せず』)
「ソ連関係においては生字引であり、かけがえのない存在」(天羽英二著「宮川君を悼む」霞関会会報)
「初代の田中都吉大使を初め、広田弘毅、重光葵、東郷茂徳、建川美次の各駐ソ大使の通訳を務めた大のロシア通だった」(西春彦著「太平洋戦争前夜の日ソ秘史」)
そればかりか宮川は、日ソ関係を良好にすることが、長期化していた日中戦争の解決にもつながるとして、1925(大正14)年の日ソ基本条約の締結交渉に始まり、その後の漁業協定交渉、さらに1941年の日ソ中立条約締結にも奔走した。同条約の調印式の様子を記録した写真には、署名する松岡洋右外相の横で補佐する宮川の姿も写っている。
そうした苦労の末に締結した日ソ中立条約を一方的に破棄して、無条件降伏を受け入れざるを得ないところにまで追い込まれていた日本をさらに蹂躙する軍事作戦を指揮していたのが、この停戦交渉に参加していたソ連軍の司令官たちだったのである。
【プロフィール】斎藤充功(さいとう・みちのり)/1941(昭和16)年東京生まれ。東北大学工学部を中退後、民間の機械研究所に勤務。その後、フリーライターとなる。共著を含めて50冊以上のノンフィクションを手がけ、中でも陸軍中野学校に関連する著作が最も多い。主な著書に、『謀略戦 ドキュメント陸軍登戸研究所』(時事通信社)、『昭和史発掘 幻の特務機関「ヤマ」』(新潮新書)、『日本のスパイ王 陸軍中野学校の創設者・秋草俊少将の真実』(Gakken)、『ルポ老人受刑者』(中央公論新社)、『陸軍中野学校全史』『日本の脱獄王 白鳥由栄の生涯』(いずれも論創社)などがある。最新刊は小学館新書『消された外交官 宮川舩夫』。