今作の舞台は、〈京へと行け。世は、いよいよ面白くなってきておる〉と果心が平助を送り出すように、比叡山の焼き討ちや一乗谷の合戦の前夜である。
「信長は合理的精神の鬼で、金と効率が物を言う現代資本主義そのもの。信長を境に近代が開かれ、文化より文明の時代に移る節目だけに、止観の映える舞台は多数ありました」と著者が語るように、あの炎やあの急流も、もしや幻術? とつい想像したくなるような、激動の時代を3人は生きる。
河内の貧農出身で6歳で人買いに売られた円四郎と、奈良興福寺近くの女郎屋で生まれ、醜さから禿にもなれずに追い出された平助。2人は、かたや人品に優れた水観の達人〈承元〉、かたや炎観と水観の両方の使い手ながら〈俗中の俗〉と陰口を叩かれる野心家の果心に拾われ、その性格は師匠の対照的な個性同様だ。
また、双子を忌み嫌う親に存在を隠され、やはり双子の養母〈霽月〉と〈澹月〉に引き取られた神官の娘・桂月にしても、それぞれが〈この世に生を享けた意味〉を問い、自らの能力を何のために使うべきなのか、答えを自らの手で手繰り寄せようとした。
文化と文明なら大抵勝つのは文明
「エンタメに徹した半面、単に面白おかしい話は書きたくなかったし、何かしら精神性は欲しかった。
ただその精神性をテーマには据えたくなくて、全部を主人公に込めるわけですね。僕はそれを『デビルマン』方式と呼んでるんですけど(笑)。悪魔と合体して、人間のために戦うデビルマンは、常に自己矛盾を抱えている。そういった矛盾が物語をどんなにエンタメ方向に転がそうとしても翳を生じさせ、その苦渋が物語をより加速させるような話が書きたかったんです。
望むと望まざるに拘らず止観の能力者として育てられた彼らは、結局はそのように生きるしかない。そこは職種や時代に関係なく、僕らも一緒ですから」