誰も傷つけない表現なんてない
その後も事務所に来るのは色恋案件ばかりで、〈推理案件〉はほぼ皆無。そんな中、福岡在住の人気ユーチューバー〈覆面探偵・藍沢真実〉の元には謎解き系の依頼が殺到しているらしく、〈とにかくこいつがやってるこの街の推理案件を全部かっさらいたいの!〉と、小石はまたもやご立腹だ。
そんな応酬の中にあって時折ハッとさせられるのが、行き過ぎた恋愛至上主義や不倫叩きの埒外からフツウを照射する、小石のフラットで嘘のない台詞の数々。彼女は言う。〈誰が誰に恋したっていいよ〉〈いいってのは、どうでもいいって意味ね。別に法律破ってないなら、誰が許可するもんでもないでしょ〉
また、一見奇異にも映る様々な恋の形に関して彼女はこうも言った。〈普通じゃない恋なんてないよ〉〈わたしにとっては、恋愛してる時点で全員変で意味不明でおかしいんだから〉〈全員おかしいってことは、全員おかしくないってこと〉──。そうした現代感覚をここまでポップな形で描ききる手腕は見事という他ないが、それが正しいと押し付けるつもりも一切ないと言う。
「例えば昔の小説の女性の描き方に違和感は覚えても、だからダメだとは思わないし、この小説だって実際に親が不倫している人が読んだらどう思うかとか、人を誰も傷つけない表現なんてこの世にないとも言える。そこは最低限、当事者が読む可能性も意識しつつ、この人物の過去に深みが欲しいから、じゃあ虐待で、といった安易な書き方だけはしないよう、心がけてはいます」
作中にも先入観に関して〈無意識のうちの確率計算だよね〉〈それが行きすぎると、決めつけとか偏見って呼ばれる〉という台詞があるが、その先入観を利用し、目の前の景色を一変させるのが、ミステリーでもある。
「偏見自体はこの先もなくならないだろうし、新しい偏見が生まれたら生まれたで、それを逆手に取ったトリックが生まれそうな予感はする。それもトリックのためのトリックではなく、今回で言えば恋愛はして当然だとされる現状みたいなものを、テーマと繋がる形で書いていければと思っています」
新たな偏見が新たな推理小説の扉を開くとは何とも皮肉な話だが、人々がそうやって少しはマシな社会を築いてきたのも確かなのだ。
【プロフィール】
森バジル(もり・ばじる)/1992年宮崎市生まれ。九州大学卒。会社勤めの傍ら、2018年「モノクロボーイと月嫌いの少女」で第23回スニーカー大賞優秀賞(後に『1/2-デュアル-』に改題)。2023年に第30回松本清張賞受賞作『ノウイットオール あなただけが知っている』で単行本デビュー。他の著作に『なんで死体がスタジオに!?』。本作の連載中、第二子が生まれ、二児の父に。「平日も休日も子供が寝てからしか書く時間がありませんが、しばらくは頑張るしかありません」。171cm、60kg、A型。
構成/橋本紀子
※週刊ポスト2025年10月10日号