長門裕之一覧

【長門裕之】に関するニュースを集めたページです。

渡辺謙は会見で自らを「スキだらけ」とかたった(時事通信フォト)
渡辺謙、川崎麻世、矢口真里… 芸能界不倫騒動15を振り返り
 東出昌大の不倫騒動が波紋を広げているが、芸能人の不倫は長年にわたって週刊誌やワイドショーを賑わせ続けてきた。ここでは、そんな不倫騒動の数々を、振り返ってみる。(順不同)◆妻が離婚の意思を女性誌で決意の告白!(1998年):松方弘樹×仁科亜季子 それぞれ会見を開き、松方は「亜季子が最高の伴侶」と語るも、その後離婚。不倫相手だった元女優は離婚後も松方を支え、最期を看取った。◆鬼嫁が見つめる異例の「妻同伴」会見(1993年):川崎麻世×カイヤ×斉藤由貴 斉藤由貴との不倫報道を釈明する川崎と、鬼の形相で見つめるカイヤ。それぞれ恐妻家、鬼嫁というイメージがついた。2018年から離婚をめぐる裁判が続いている。◆「いまでも愛してる」会見で復縁も再離婚(1985年):山城新伍×花園ひろみ 1985年にOLとの愛人関係が報じられ、別居後離婚したが、山城が会見で「いまでも愛している」と復縁を迫り、1991年に再婚。1999年に再離婚した。◆魔性の女が言い放った「奧さんがいたらだめですか」(1995年):真田広之×手塚理美×葉月里緒奈 不倫報道後、葉月が雑誌で「奧さんがいたら、いけないんですか?」と発言して報道が過熱。真田との関係を解消した1998年に葉月はヘアヌードに。1997年に離婚。◆“鬼嫁に頭が上がらない”キャラの元祖(1982年):峰竜太×海老名美どり 浮気相手のロマンポルノ女優・朝比奈順子との三者会談を済ませた後に夫婦で会見を開き、「もう二度と浮気はしません」と平謝りした。婚姻継続中。◆最期まで揺るがなかったキンキン愛(2007年):愛川欽也×うつみ宮土理 2007年に44歳年下女優との不倫が報じられた。度重なる愛川の女性問題にもうつみは寛容で、「キンキンかっこいい!」と常におしどり夫婦ぶりをアピールした。2015年に死別。◆「不倫は文化」発言で離婚後、恋人とも破局(1996年):石田純一×松原千明 モデル・長谷川理恵との関係が報じられ、「不倫は文化」発言が主婦層を中心に反感を買って石田の仕事が激減。長谷川とは9年の交際を経て破局した。1999年に離婚。◆自著で“暴露”もおしどり夫婦を貫いた(1985年):長門裕之×南田洋子 1985年の自著『洋子へ』で女性遍歴が実名で暴露され、会見で「出版社が捏造した。買わないで」と訴えた。認知症になった南田の介護はその罪滅ぼしだったか。◆妻の闘病中に不倫で娘と絶縁!?(2017年):渡辺謙×南果歩 東出の義父にあたる渡辺は妻のがん闘病中に21歳下のジュエリーデザイナーと不倫し、会見で自身を「スキだらけ」と反省。娘の杏から絶縁されたとも報じられた。2018年に離婚。◆浮気夫の懸命な涙も妻には届かなかった(2004年):大鶴義丹×マルシア 2003年に妻の留守中に女性を自宅に招き入れ、帰宅したマルシアと鉢合わせ。大鶴は「マーちゃんごめんね!」と会見で涙ながらに謝罪するも、離婚(2004年)を回避できなかった。◆“クローゼット不倫”後も愛を貫いた(2013年):中村昌也×矢口真里 自宅で浮気相手との逢瀬の最中に夫が帰宅して不倫騒動となり、矢口は全てのレギュラー番組を降板。同年に離婚し、その後2018年に浮気相手だった男性と再婚した。◆神対応で妻を守った「路線バスの男」(2017年):太川陽介×藤吉久美子 藤吉の不倫報道で太川が会見し、「かみさんだもん、僕は信じる」と神対応。数時間後に藤吉も会見し「彼に守ってもらわないと生きていけない」と号泣した。婚姻継続中。◆人間国宝の妻は“下半身スクープ”にも動じなかった(2002年):中村鴈治郎(現・坂田藤十郎)×扇千景 ホテルで舞妓に下半身を露出する写真を写真週刊誌に撮られたが、坂田は「私が元気だってことを証明してくださって」と余裕。扇も「まったく問題じゃない」と平然としていた。婚姻継続中。◆夫の不徳を許して示した“梨園妻”の覚悟(2016年):中村橋之助(現・芝翫)×三田寛子 芝翫襲名を目前に京都の芸妓との密会が報じられ、橋之助は「私の不徳」と頭を下げた。三田も「家族5人で頑張ります」と答えて乗り切った。婚姻継続中。◆飲酒運転で浮上した不倫疑惑でも平謝り(2006年):中村獅童×竹内結子 酒気帯び運転と信号無視で検挙された際に女優の同乗が発覚。会見では「友人の女性」と説明したが、2年後に竹内と離婚。中村は2015年、竹内は2019年に再婚した。※週刊ポスト2020年2月14日号
2020.02.06 07:00
週刊ポスト
松方弘樹 ヤクザから小指送られ裏山に捨てた伝説
松方弘樹 ヤクザから小指送られ裏山に捨てた伝説
 社会ルールにとらわれず、その身を滅ぼしながらも芸に生きた破滅型スターたちが、かつての芸能界には存在した。女絡みの“問題行動”では、松方弘樹(享年74)の右に出る者はいないだろう。「800人斬り、1000人斬りなどといわれますが、晩年に本人は『一生で1000人ではなく、1年に1000人』だと言っていた。新幹線のトイレでファンの女性と行為に及んでしまったことも告白しています。女遊びがすぎて、奥さんだった仁科亜希子さんにパイプカットを命じられたのは有名な話です」(芸能関係者) 遊び方も豪快そのもの。映画のギャラが入ると、出演者やスタッフ、ついてきたファンの飲み代まで全部面倒をみた。プロインタビュアーの吉田豪氏が語る。「裏表なくあけすけに話す人でした。『ヤクザから小指が送られてきて、始末に困って裏の山に捨てた』とかね(笑い)。原稿に載せられないような話もたくさんしてくれました」 マグロ釣りなど趣味にも惜しみなく金を使い、2017年に他界した時には、資産はほぼゼロ。亡くなる前には、「俺は何も遺さないけど、記憶に残る役者になりたかった。それが勲章だ」と話していたという。 吉田氏がもう一人名前を挙げたのは長門裕之(享年77・2011年没)だ。「1985年に出した暴露本『洋子へ』は、僕にとってタレント本の生涯ベスト1です。おしどり夫婦と呼ばれていた長門さんが、愛妻の南田洋子さんに何を伝えるのかと思ったら、夥しい女遊び遍歴と芸能人へのタブーなしの直言だらけ。本人に取材したら、『酒を飲みながら話したことが原稿チェックなしで本になった』って。懲りずに『吉田さん、もういっぺん暴露本みたいなの出そうよ!』と楽しげに話していました」(吉田氏)※週刊ポスト2019年4月19日号
2019.04.12 16:00
週刊ポスト
津川雅彦さん 仕事も遊びもトコトンやる人だった
津川雅彦さん 仕事も遊びもトコトンやる人だった
 平成最後の年、おしどり夫婦として知られた大女優と名優は、闘病の末に亡くなったあとを追うように4か月違いでこの世を去った。●朝丘雪路(女優、享年82) 1952年に宝塚歌劇団に入団、月組の娘役として活躍。1955年の退団後は女優や司会など活動の場を広げ、1968年から大橋巨泉のアシスタント役を務めた『11PM』(日本テレビ系)ではお色気たっぷりの軽妙なやり取りで絶大な人気に。 晩年はアルツハイマー型認知症を発症、2014年に長女で女優の真由子がプロデュースしたミュージカルに夫・津川雅彦さんとともに出演したのを最後に芸能活動を休止していた。4月27日に死去。●津川雅彦(俳優、享年78) 祖父は映画監督・牧野省三、父は俳優・沢村国太郎で、兄の長門裕之も俳優という芸能一家に生まれ育つ。1956年に『狂った果実』で映画デビューし、一躍人気俳優に。『ミンボーの女』(1992年)など伊丹十三監督の作品に数多く出演する一方、自身もマキノ雅彦名義で映画監督を務める。 2013年に妻・朝丘雪路さんが闘病生活を始めると、献身的な介護を続けていた。妻の死を追うように、8月4日に他界した。 津川さんが東條英機を演じて第22回(1999年) 日本アカデミー賞・優秀主演男優賞を受賞した作品『プライド 運命の瞬間』の伊藤俊也監督が、撮影時の思い出を語った。「津川さんは台本に加筆修正するという噂があったので、1998年公開の映画『プライド 運命の瞬間』での最初の顔合わせの日は喧嘩腰で臨みました。案の定、2時間半にわたって侃々諤々の議論になりましたが、終わった瞬間わかり合えたと感じました。もちろん台本の直しはありません。打ち上げでは京都祇園でお座敷遊びをして、総勢50人分をご馳走してくれました。仕事も遊びもトコトンやる人でした」※週刊ポスト2018年12月21日号
2018.12.18 07:00
週刊ポスト
田中圭が雀荘通い 若手芸能人が麻雀にハマるメリットとは
田中圭が雀荘通い 若手芸能人が麻雀にハマるメリットとは
 主演した連続ドラマ『おっさんずラブ』(テレビ朝日系)が「2018 ユーキャン新語・流行語大賞」にノミネートされたほか、「東京ドラマアウォード2018」「ザテレビジョンドラマアカデミー賞」「2018年 今年の顔」「SUITS OF THE YEAR2018」など、あらゆる賞を総なめにし、まさに今が旬の俳優・田中圭。現在放送中のドラマ『獣になれない私たち』(日本テレビ系)では新垣結衣と共演して、ガッキーを振り回す彼氏役を演じており、女性人気は極めて高い。 そんな田中の意外な趣味が明らかになった。その趣味とは、画面で振りまく爽やかなイメージとはまったく無縁の「麻雀」。11月8日に配信されたNEWSポストセブンの記事では、田中が雀荘に出入りしている様子が報じられた。田中が麻雀を打っていたのは、居合わせた客同士で卓を囲む「フリー」と呼ばれる雀卓。フリーは腕に覚えがある者が好むタイプの卓で、記事では「常連になって腕を認めてもらえないと彼とは一戦交えられない」という雀荘の客の声も紹介している。 このニュースに対し、ネットには、「いくら少額でも違法は違法」「奥さんや子供の為にもグレーなことはしない方がいいと思うけど」「お金を賭けていたら逮捕だと思っていた。金額によって差があるのはおかしい」と、否定的な声が上がる一方、「高齢者と麻雀なんてむしろ好感度上がるだろ」「麻雀できるんやね。コミュ力も高そうだな」「お忙しいと思いますが、適度に息抜きしてがんばってください」といった感想が寄せられているが、芸能界の麻雀事情はどうなっているのか? ベテランの芸能ライター・石田春男氏はこう語る。「昭和の芸能界はとにかく麻雀好きだらけでした。俳優の長門裕之は自宅に麻雀専用の部屋を持っていて、『麻雀放浪記』で有名な阿佐田哲也らと徹夜麻雀に明け暮れていましたし、麻雀番組の『THEわれめDEポン』(BSフジ)への出演経験がある堺正章、加賀まりこ、風間杜夫、井上順、小柳ルミ子らの牌さばきは玄人はだしです。自転車旅ですっかりNHKの顔になった火野正平も、麻雀がメチャクチャ強いことで有名です。 近年で言うと、プロ雀士の資格を取ってプロリーグに参戦している萩原聖人はもはや俳優というより、麻雀のほうが本業のような状態ですし、和田アキ子や坂上忍も大の麻雀好きです。若手では、アンジャッシュの児嶋一哉や熊切あさ美はプロ資格を持っていますし、同じくプロ資格を持つモデルでタレントの岡田紗佳は先日、麻雀番組で役満のひとつである九蓮宝燈を上がりました。 より麻雀好きが多かったのはプロ野球です。野球界では、その昔に起きた『黒い霧事件』の影響で公営ギャンブルへの抵抗感が強く、昭和の野球選手は、麻雀に熱中していました。ON(王貞治と長嶋茂雄)も麻雀好きでしたし、江夏豊や落合博満はいかにも勝負師らしく、麻雀も強かったようです。昭和を代表する大投手などは、自宅を建てた際、『チームメイトからむしり取った金で家を建てた』と、陰口を叩かれたほどです」 しかし、将棋、麻雀、ゴルフぐらいしか遊びがなかった時代とは異なり、今はいくらでも遊びの種類がある時代。それでも、田中のような若手俳優が麻雀を好むのは、かなりのメリットがあると石田氏は語る。「これは芸能界に限った話ではありませんが、麻雀は4人必要なので、メンバー集めに苦労することもあります。例えば大物俳優から声を掛けられて、『いや、麻雀ができません』ならそれで話しは終わりですが、麻雀ができれば当然メンバーに誘われます。麻雀をやる時はあまり酒を飲みませんが、たった4人でかなりの時間をともに過ごすので急速に距離を縮めることができます。極端な例では、キャスティングの力を持つ大物芸能人から『アイツは麻雀ができるから現場に呼ぼう』と声がかかることさえあります。 しかも芸能界では裏方にも麻雀好きがたくさんいます。俳優にとって、プロデューサーなどのスタッフに好かれるというのは、仕事を得るうえでファンに好かれるのと同じぐらい大切なこと。あとは、麻雀は基本的に卓を囲む4人で完結するので、その4人が顔見知りなら裏社会につながるリスクがが低いと彼らが考えているというのも芸能界で好まれる理由の1つでしょう」『おっさんずラブ』では視聴者を魅了した田中だが、オフでは麻雀でおっさんたちと卓を囲むとは、根っからおっさんには縁があるようだ。
2018.11.12 07:00
NEWSポストセブン
徳川家康「三方ヶ原の戦いで脱糞敗走」は信憑性が低い話
徳川家康「三方ヶ原の戦いで脱糞敗走」は信憑性が低い話
 有名な歴史上の出来事として広く知られているようなことは、果たして史実なのか? NHK大河ドラマの名シーンを例に、「本当にあったこと」なのかどうか検証した。●『徳川家康』(1983年放送、主演・滝田栄) 武田信玄軍に惨敗し、浜松城にたどり着いた滝田演じる徳川家康を本多作左衛門(さくざえもん、長門裕之)が笑う。「呆れ果てたお方じゃ、殿は。馬の鞍壺に糞を漏らしてござる」 怒った家康は作左衛門の頬を殴りつけた。「たわけぇい! これは腰につけた焼き味噌じゃい」──1573年、織田信長討伐に立ち上がった武田信玄を、徳川家康が迎え撃った三方ヶ原の戦い。家康は敗走し、恐怖のあまり脱糞しながら浜松城に逃げ帰ったという逸話だが、歴史作家・青山誠氏によれば、「同時代の史料には出てこない話」であり、信憑性は低いという。「この戦いの屈辱を忘れないために家康が描かせたといわれる『しかみ像』も、九男の徳川義直が“父の悔しさを忘れないために”描かせたとわかってきました」●『真田丸』(2016年放送、主演・堺雅人) 昨年放送の大河の最終回では、単騎で徳川本陣に迫った真田信繁(堺)に追い詰められた家康(内野聖陽)が「儂を殺したところで何も変わらん。徳川の世は既に磐石。豊臣の天下には戻らん! 戦で雌雄を決する世は終わった」と叫び、それに対し信繁が自らの信念を語るシーンが描かれた。 徳川方に残された史料に大坂夏の陣の信繁の奮戦は書き残されているが、歴史研究家で『NHK歴史番組を斬る!』などの著書がある鈴木眞哉氏によれば「豊臣方の攻撃を受けた家康は、旗も馬印も放って逃げたとある。2人が顔を合わせることはない」と考えられている。 脚本家・三谷幸喜氏によって創り出された見せ場なのだ。※週刊ポスト2017年8月18・25日号
2017.08.16 16:00
週刊ポスト
津川雅彦が語る兄・長門裕之というライバル
津川雅彦が語る兄・長門裕之というライバル
 映画史・時代劇研究家の春日太一氏がつづった週刊ポスト連載『役者は言葉でできている』。今回は、芸能一家に生まれた津川雅彦が、兄の長門裕之との関係、映画会社の移籍について語った言葉を紹介する。 * * * 津川雅彦は、祖父が日本初の映画監督・牧野省三、父が俳優・沢村国太郎、叔母が女優・沢村貞子、叔父がマキノ雅弘監督、兄が長門裕之という芸能一家に生まれ、自身も1945年、五歳の時に子役デビューしている。「当時、役者はまだ差別されていた時代で、一般の人は我が子を子役になんかさせたがらなくて、なり手がいなかった。それで役者の子が強制的に幼児期からやらされてたんですね。 でも、僕は役者が好きじゃなかった。化粧をするのが嫌でね、時代劇の羽二重がかゆい、カツラが重いわ、うっとうしいわ。 溝口健二先生の『山椒大夫』に出た時は撮影が長引き、中学を留年させられてね。その時叔父のマキノ雅弘が溝口先生のところに僕を連れてって、監督に頭を下げさせて謝らせたんです。我々はやくざ一家だなと、つくづく思い知りましたね」 1956年、石原慎太郎原作の日活映画『狂った果実』の大ヒットにより若くしてスターになる。「高校一年の二学期に家に帰ったら、『狂った果実』という映画に出ろ、と言われた。石原慎太郎さんがどこかで僕とすれ違って、『あの子がイメージだ』と言ってくれたらしいんですが、でも、僕は断りました。反抗期で親の跡を継ぐことに疑問を持ってて新聞記者になりたかった。それで早稲田大学附属高等学院に入っていたんですね。 そうしたら、兄が既に慎太郎さんの『太陽の季節』で主役をして日活でスターになっていたんですが、こう言ったんです。『この映画に出た奴は必ずスターになり、俺のライバルになる。お前がこれに出て、一本で辞めて新聞記者になってくれたら、俺のライバルを消せる。だから協力してくれ』と。一本だけならいいか、というのもありましたし、兄貴の役に立つなら、と出ることにしました」 1959年には松竹に移籍する。「案の定映画が大ヒットし、チヤホヤされいい気持ちになり、兄貴との約束を忘れて日活と契約しちゃったんですね。兄貴からするとライバルを消すはずが、一番嫌な奴がライバルになっちゃった。家には毎日のように映画雑誌やグラビア誌から電話がかかってくるが、みんな兄貴じゃなくて僕宛でしたからね。兄貴もその度にカッーとしてコップを庭に投げつけたり、家中が真っ暗になってね。それで兄貴は『日活を辞めて松竹に行く』、と言い出した。 ところが、兄貴は後輩に慕われてたから日活の連中に泣いて止められた。『大体、約束破った津川が悪いんだ、津川が辞めればいい』ということになって、兄貴に『お前が松竹へ行け』と。『別に構わないよ』って。当時は『顔さえ良ければスターになれる』と天狗になってたからね。 だが後援会長の村上元三先生には反対された。『流行りのスターは祭りの神輿だ。観客に担がれてるんだ。神輿が勝手に足を出して歩いたら客は興ざめして、絶対に人気が落ちる。松竹に行くのはやめなさい』と。でも僕は『顔がいいから大丈夫』とばかり移籍しちゃった。結局、先生のお言葉通り、松竹では一本もヒットしませんでしたね」●かすが・たいち/1977年、東京都生まれ。主な著書に『天才 勝新太郎』『鬼才 五社英雄の生涯』(ともに文藝春秋)、『なぜ時代劇は滅びるのか』(新潮社)など。本連載をまとめた『役者は一日にしてならず』(小学館)が発売中。◆撮影/藤岡雅樹※週刊ポスト2017年6月30日号
2017.06.25 16:00
週刊ポスト
暴露本収集家・吉田豪氏が選ぶ「不動の2トップ」の中身
暴露本収集家・吉田豪氏が選ぶ「不動の2トップ」の中身
 数多くの暴露本を読んできたプロインタビュアーの吉田豪氏。タレント本収集家として、本棚には幅広い年代の“名著”が並んでいる。その吉田氏が「不動の2トップ」と推す2冊のタレント暴露本について聞いた。 * * * 1冊は1970年代から1980年代にかけてタレントや指揮者として活躍した、ダン池田さんの『芸能界本日モ反省ノ色ナシ』(1985年・はまの出版刊)です。 暴露本には“目的”があるものですが、この本は、「指揮者の自分をぞんざいに扱ったプロデューサーへの復讐」という、個人的な理由だけで出したもの。どうしようもないことしか書かれていないんだけど、邪気がなくて面白いんです。 例えば、スタジオで柏原芳恵さんに会った感想で〈彼女きっと生理だったのかもしれない。歌聞けばすぐわかる〉とか(笑)。ほかにも、テレビの偉い奴はたいてい歌手志望の女を食っているとか、アイドルなんて品行方正でもなんでもなくてヤリまくっている──なんて憤っているわりには、自分もアイドル志望のコとヤッちゃう描写があったり。お前も一緒じゃん! っていう(笑)。 暴露本を出したことで芸能界から干されてしまいましたが、本人はカラッとしていましたよ。 もう一冊が、長門裕之さんの『洋子へ 長門裕之の愛の落書集』(1985年・データハウス刊)です。 自分の女性遍歴を赤裸々に語り、芸能界の仲間を実名で斬ったもので、帯には〈芸能界のエンマ帖〉と書かれていた。冒頭から、若かりし頃に交際していた女優の扇千景さんとのセックス描写から入るのですが、〈ぼくは彼女のなかで激情した〉 と、独特な射精表現で(笑)。しかも、その後のピロートークで〈私、結婚するの。だから、あなたとのことは、これっきりにしてほしいの〉と、振られてしまうという(笑)。 あまりに反発が強かったため、釈明会見を開き、改訂版が出されるのですが、その修正もいい加減で。扇さんとのセックス描写が、夢オチになってたり、〈愛川欽也 ダメ男の典型〉という文言が、〈愛川欽也 憎めないダメ男〉になってたり。 あとで本人に聞いたのですが、本を出すことが決まって、酒を飲みながら書籍のスタッフと無駄話をしていたら、その話のみを原稿にされたそうです。原稿チェックも間に合わない段階で見せられて、「しょうがないな」と出しちゃったら大問題になった(笑)。本人は「あのときは本当に参ったけど、振り込まれた印税がかなりの額で、これならいいかと思った」と笑ってました(笑)。 後日談も含めて、長門さんの本が「大賞」です!※週刊ポスト2017年3月24・31日号
2017.03.23 07:00
週刊ポスト
萩本欽一「おヒョイさんは僕が一番尊敬する芸能人」
萩本欽一「おヒョイさんは僕が一番尊敬する芸能人」
 1月25日、「おヒョイさん」の愛称で親しまれた俳優・藤村俊二さんが心不全のため死去した。藤村さんは振付師として活動したのち、ドラマやバラエティーなどで俳優やタレントして幅広く活躍。体調不良で、2015年10月に担当していた『ぶらり途中下車の旅』(日本テレビ系)のナレーションを降り、療養生活を送っていた。 交友関係の広い藤村さんは、同じ昭和9年(1934年)生まれの長門裕之さん、愛川欽也さん、大橋巨泉さん、坂上二郎さんらとともに、「昭和九年会」を結成。藤村さんの経営する南青山のワインバー「O’hyoi’s」(おひょいず)で例会が開かれていた。 昨年7月に大橋巨泉さんが急性呼吸不全で亡くなった際には、「また一人、大切な仲間が天国に行ってしまって寂しい限りです」と、仲間の死を悼んでいる。 その藤村さんを「僕が一番尊敬する芸能人です」と公言しているのが、萩本欽一(75才)だ。二人は1975年にクイズバラエティー番組『ぴったし カン・カン』(TBS系)の共演で出会い、40年以上の付き合いがあったという。 自らの交友録を書いた『運が開ける【欽言録】』(徳間書店)で、藤村さんについてこう語っている。《最初に会った頃、おヒョイさんは、ふわふわとした軽い感じで、口癖は「ぼくちゃん、お仕事、嫌い」、「ぼくちゃん、考える事、ダメ。一生懸命やる事、もっとダメ」でした。(中略) ところが、80年に『欽ちゃんのちゃーんと考えてみてね!!』(日本テレビ系)という番組を一緒にやり、おヒョイさんを見直してしまいました。 長~いセリフが多いんです。それなのにおヒョイさんは全然間違えずに、ビシッとやります。「ぼくちゃん、ダメ」と言いながら、セリフを間違えたら本当にダメな人ですが、おヒョイさん、「ぼくちゃん、ダメ」って言いながら、全然NGを出さないんです。》(萩本欽一『運が開ける【欽言録】』より) 1980年に萩本が一緒にニューヨークに行った時は、日本では全く英語を使わない藤村さんが英語をペラペラ話したことに驚いたという。ホテルのチェックインから土産店の場所までガイドしてくれ、ブロードウェーの舞台では「これはこういうお芝居なの」と全部、説明してくれたそうだ。 それでも日本に帰ると、「僕は英語なんて知りません」という顔で、相変わらず、ひょうひょうとしていたという藤村さんは、実はエリートだった。 芸能関係者が語る。「お父さんは『有楽町スバル座』などを運営する『スバル興業』の社長です。高校までは名門の暁星学園で学び、早稲田大学に進んでいます。ヨーロッパへの留学経験もありますし、“フランス語やイタリア語もペラペラなのでは?”という噂もありましたね」(芸能関係者) エリートで多才。萩本が著書で語ったところによると、そんな藤村さんの性格を一番表しているのは、「車を運転してきたのに、お酒をすすめられると絶対に断らないこと」だという。《おヒョイさんは、飲むと車を置いたまま、タクシーで帰るんです。 そして、次の日、自分の車を取りに来ます。 別におヒョイさんは酒好きではないですし、次の日に車を取りに来るのも面倒ですから、お酒をすすめられたら「いいえ、今日は車を運転してますから」と断ればいいんです。でも、断らない。「相手がすすめてくれてるのにさ、断ると座がシラけるし、悪いじゃない」と、おヒョイさん。「ぼくちゃんがさ、次の日、早く起きて、車を取りに戻ってくればいいんだからさ」って笑っています。》(萩本欽一『運が開ける【欽言録】』より) 前出の芸能関係者も、藤村さんの気遣いをこう語る。「おヒョイさんの経営するワインバー『O’hyoi’s』ではサービス料を一切取りませんでした。なんでか尋ねると“お客さんにサービスするのは当たり前だから”と笑顔で答えていましたね。おヒョイさんらしいなぁと思いました」 久しぶりにテレビ局で会い、萩本が「おヒョイさん、また別の番組を一緒にやりましょう」と言うと、「お仕事じゃなくていいじゃないの。遊びを一緒にやろうよ。だってさ、ぼくちゃん、お仕事、嫌いだから」と語っていたという藤村さん。 天国でも、ひょうひょうと粋に過ごしていることだろう。
2017.02.12 16:00
NEWSポストセブン
若年性アルツハイマー 妻を介護し続けた夫の心の内と愛
若年性アルツハイマー 妻を介護し続けた夫の心の内と愛
 夫婦の純愛と家族の愛情を描いた映画『八重子のハミング』が公開され話題になっている。原作は、5度のがん手術から生還した陽(みなみ)信孝さん(77才)が、若年性アルツハイマーの妻・八重子さん(享年65)を介護する日々を短歌とともに綴った同名手記(2014年、小学館刊)。14年もの月日を経て、多くの人の胸を揺さぶっている──。 2025年には4人に1人が75才以上になるという超高齢化社会の中で、日本国内の認知症患者は全国に500万人と推定され、その数は増加の一途を辿っている。それゆえ親、夫、あるいは妻の介護を、どこでどのようにしていくかは、誰にとっても他人事ではない。 国は総力を挙げて、この未曾有の介護問題に取り組んでいることを喧伝するものの、同時に新たな問題が噴出しているのが現状だ。テレビや新聞、雑誌で、繰り返し特集が組まれるが、どこにも正解はなく、だからこそ私たちはいつも悩み、苦しんでいる。 今のように情報もなければ、サービスも選択肢もなかった時代に、どのように在宅介護をし、どのように最期を看取ったか? 陽さんが八重子さんと過ごした日々は、私たちの胸に多くのことを訴えかける。◆同じこと 繰り返し問ふ 妻の日ひ々び 繰り返し答ふ 陽さんは、山口県萩市生まれ。県内で30年以上教職に携わり、小・中学校の校長を歴任。音楽と家庭科の教師だった八重子さんとは、県内の中学校で知り合い、1963年に結婚、3人の娘がいる。 1989年、初孫の孝一朗さん(27才)が誕生したのを機に八重子さんは退職。孫の面倒を見ながら、のんびり旅行をするなど夫婦の時間を持っていこうと思っていた矢先の1991年、陽さんを突然の病魔が襲う。胃がんと宣告され、手術で胃の4分の3を摘出した。 夫の病気によるショックからか、八重子さんにも異変が起こる。53才でアルツハイマーを発病したのだ。陽さんは高齢の母親(2004年、93才で他界)や、娘夫婦の協力を得ながら、病身を押して妻の介護を始めた。「当時は若年性アルツハイマーって何? という時代やったから、施設に預けられなかったという事情もあった。若年性アルツハイマーは、瞬間的なショックで脳細胞が縮み続けて、赤ちゃんの脳になって亡くなるんです」(陽さん)◆幼子(おさなご)に帰りし妻の 手をとりて 今も変わらじ 若き日のぬくもり 日々刻々進行していく八重子さんの病気。会話が成り立たなくなり、字が書けなくなり、衣服の着脱も食事も介助なしでは難しくなっていったが、陽さんは「八重子さんをどこにも預けないで家で看る」と決めた。 そんなある雪の夜、陽さんが帰宅すると、自宅近くの橋の上にぼーっと白い影が浮かんでいた。急いで駆け寄ると、降りしきる雪の中、八重子さんが雪だるまのようになって泣きじゃくっていた。彼女は、そこで、ずっと夫の帰りを待っていたのだ。「抱きかかえるようにして家へ連れて帰り、妻を寝かしつけると、涙があとからあとからこみ上げてきて…」 陽さんはこの出来事をきっかけに、任期半ばで教育長の職を辞し、妻の介護に専念する。1998年のことだった。「いずれ短い命なら、一緒にいてやりたくてね。飲み会にも連れて行って左に座らせて食べさせる。2次会のカラオケも一緒でした。介護を始めてからは、全国の介護施設とかで講演を頼まれることも多いんですけどね、そういう場所にも全部連れて行った」 在りし日に思いを馳せ目を細める陽さんは、穏やかな表情だったが、日々の生活は修羅場だった。「女房を連れて歩くことに、娘は泣きながら反対していました…。近所の人も、おそらく、100人が100人、“ボケた奧さんを連れて歩かんでも、施設に入れてあげたらいいのに”って思っていたんじゃないかな。実際直接、わしに言ってきた人もおったし、つらかったですよ」(陽さん) 想像してほしい。それは今から20年以上前のこと。認知症という言葉はまだなく、まして若年性アルツハイマーに対する知識も理解もなかった時代だ。今でさえ、老いた親が認知症であることを公表することは抵抗がある。 2009年、長門裕之さん(享年77)が、認知症になった妻・南田洋子さん(享年76)を老老介護する日々を明かした時、勇気ある行動だと賞讃される一方で「あんなにきれいだった女優の壊れた姿をテレビの前に連れ出すなんてひどすぎる」「妻をさらし者にしているだけだ」などと批判され、実際長門さんは、南田さんの親戚からも非難された。 2013年には寿美花代(84才)が、テレビ番組で夫・高島忠夫(86才)を老老介護している日々を公開したが、これにも波紋が広がった。「だけどわしは、どこに行くにも一緒にいてやりたいし、もう隠して生きていく時代じゃないと思っとった。それで家族には悲しい思いをさせたけど、わしが決断しなければ家族が迷う。そして家族が迷うってことは、女房がいちばんかわいそうな思いをするってことやと思った」(陽さん)◆小尿を 流しし床を 拭く われの後ろで歌う 妻に涙す 陽さんは24時間、八重子さんにつきっきりで介護した。しかし何をやるにも妻は抵抗し、夫の頭を叩き、つかみかかる。おもらしをして家中が水浸しになることも珍しくなかった。だが、陽さんは妻に小言ひとつ言わなかった。「そりゃあ、私だって腹が立って叩いてやりたいと思うこともありました。でもこの病気は、こちらが怒ったりすると、感情を逆なでして余計に病状を悪化させてしまう。だからなんでも受け入れてやらねばならないんです。それにね、いくら叩かれても痛くないんですよ。やはり女房は、無意識のうちに力を抜いているんです。だから私は女房の愛情表現だと思っていました」(陽さん) こうした細やかな介護のおかげか、八重子さんは発症から10年経っても自力で歩き、「お父さん」「痛い」「ばか」などの言葉を発した。陽さんとのドライブが好きで、そんな時はカーステレオから流れる童謡や歌謡曲に合わせて、うれしげにハミング。歌詞はまったく出てこないが、音程は正確だったという。「みんな“介護って大変ですね”っておっしゃるけれど、家族の中に、本当に頭がおかしくなった…孫にとってはおばあちゃんであり、娘たちにとってはお母さん。その女房がわけがわからなくなっていくのを、毎日見ていて、そのたびに胸をえぐられるような悲しみがある。 わしは女房がうんちを食べたとき、歯と歯の間にはさまったうんちがなかなかとれなくて、それで口で吸い出しよった。金銭的にも大変。おむつ1つとっても、高い。布団も、着るものも、洗っても洗っても汚れるから、頻繁に買い替えないといけん。毎日食べさせないといけん。介護は生半可なものじゃなか」(陽さん)※女性セブン2016年11月24日号
2016.11.10 11:00
女性セブン
芸能人の認知症告白 かつては批判集中も今は賛同が多い理由
芸能人の認知症告白 かつては批判集中も今は賛同が多い理由
 声優でタレントの大山のぶ代さんが老人ホームに入居したという。認知症の大山さんを自宅で介護してきた夫で俳優の砂川(さがわ)啓介さんに尿管がんが見つかり、入院が必要になったことから生活の場を移すことになったそうだ。夫婦にとって結婚52年目の初めての別居生活。砂川さんにとっては苦渋の決断だったという。  介護関連のさまざまなニュースが連日伝えられているが、こうした芸能人の認知症告白やその介護体験をメディアはどう映し、世間はそれにどう反応してきたのだろうか。 80年代、詩人画家の星野富弘氏による『愛、深き淵より―筆をくわえて綴った生命の記録』(立風書房 1981年)や、のちにドラマ化・映画化もされた『1リットルの涙-難病と闘い続ける少女亜也の日記』(木藤亜也著 エフエ-出版 1986年)などノンフィクションの中でも「闘病記」がメジャーになってきた。そんな流れの中で、歌手の橋幸夫さんが認知症の母親を自宅で介護したノンフィクション『お母さんは宇宙人』(サンブリッジ)が1989年(平成元年)に刊行された。妄想、幻覚、徘徊……人格者で気丈だった母の変化をありのままに書いたこの記録は大反響を呼び、わずか1か月で5万部を売り上げるなど、時のベストセラーとなった。 それ以後、例えば、生島ヒロシさんが、半月板損傷がきっかけで歩けなくなり認知症を患った義母を家族と手探りで介護した『おばあちゃま、壊れちゃったの?-ボクと妻の老親介護-』(三笠書房)、女優の南田洋子さんが、脳出血ののちに認知症になった義父の介護を14年間続けた記録『介護のあのとき-嫁、妻、女優の狭間で-』(文化創作出版)など多くの著名人の介護奮闘記が出版され、いずれも関心を集めてきた。 そんな体験談の「告白」の場は時を経て、テレビへと移っていく。2008年10月、俳優の長門裕之さんが、妻・南田さんの認知症について『徹子の部屋』(テレビ朝日系)で初めて語った。しかし、目で追う「活字」と、耳で聞く「言葉」の違いだろうか、長門さんのもとには「勇気ある告白」という声が寄せられた一方、「夢が壊れるから辞めて欲しかった」「義父の看病をした気苦労が南田さんを認知症にさせた」「高齢者が高齢者の介護をするなんてつらすぎて美談にならない」など批判が沸いた。その1か月後、同系のドキュメンタリー番組で南田さんの自宅での様子が放映されると、さらにバッシングはエスカレート。「無残な姿を売り物にしている」「認知症患者の人権はどうなる?」「介護保険を使わないお金持ちにしかできない介護」などと糾弾が相次いだ。  そんな声に対して長門さんは当時、「それらはぜんぶ正論。俺をバッシングする意見があればそれも正論。すべてにおいて反論はしない」(「週刊金曜日」2009年 6月26日)と言葉を飲み込んでいる。 2009年に南田さんは他界。その2年後の2011年、その南田さんを追うように長門さんも亡くなったあと、長門さんと親交のあった黒柳徹子さんはテレビ番組で、彼が愛妻の認知症を公表した理由として「なるべく外へ妻を連れ出したいが、病名を隠したままだと行く先々で『どうしたの?奥さん』などと聞かれ、その度に病状のことを説明しなければならない。世間に公表すれば周りも理解してくれて、温かく見守ってくれるから」と語っていた。 それからさらに時が過ぎ、現在、同じく妻の認知症を吐露した砂川啓介さんにはおおむね賛辞の声が多い。他の有名人の告白や、それをまとめた出版物も相次いでいる。 それは有名無名や発症年齢問わず、認知症がさらに日本の喫緊の課題になってきているからだろう。2015年1月の厚生労働省の発表によると、日本の認知症患者数は2012年時点で約462万人と推計されている。これが2025年には700万人を突破すると言われる。 来るべき「大量介護社会」を映す鏡として、有名人の認知症告白、そしてその介護体験にはますます大きな意味を持ってくる。もちろん、実際に認知症を患い、言い知れぬ不安を抱える当事者、またその介護をしている人々の「こころの道しるべ」となっていくことだろう。ただし、共感を得るためだけに介護経験は語ることは、私見ではあるが慎んでもらいたいところだ。(文・内堀隆史 放送作家・ライター。『誰だって波瀾爆笑』(日本テレビ系)など)
2016.07.05 07:00
NEWSポストセブン
浅丘ルリ子 「私の履歴書」に書かなかったTV局勤務の元恋人
浅丘ルリ子 「私の履歴書」に書かなかったTV局勤務の元恋人
《この連載も終盤に近づくと湿っぽい話が多くなる》 7月1日から始まった浅丘ルリ子(75才)による日本経済新聞の人気連載『私の履歴書』もいよいよ終了した。小林旭(76才)からのプロポーズ、石原裕次郎さん(享年52)との兄妹仲、石坂浩二(74才)との出会いと結婚、そして渥美清さん(享年68)との最後の共演…そんな赤裸々告白が高い関心を集めてきた。芸能関係者は語る。「これもルリ子さんならではのことでしょう。交流関係が広かったのはもちろんですが、ルリ子さんは相手の懐に入ったつきあいのできる人。たとえば大原麗子さん。彼女への弔辞でもわかりますが、ルリ子さんは30年間彼女と本当の姉妹のようにつきあっていました。 長門裕之さんや裕次郎さんとも本当の家族のようなつきあいだった。そんなルリ子さんの口から語られることは通り一遍の話ではなくいわば真実の芸能史。だからこそ、ここまで読者を惹きつけたんだと思います」 14才のデビュー以降浅丘が出演した映画は158本にのぼる。名だたる名優と時を過ごし、恋をして、友情の面倒は厭わず、先輩には妹のように後輩には姉のように慕われた。 浅丘と破局後の小林と結婚した美空ひばりさん(享年52)にも妹のように永くかわいがられた。ふたりの結婚後、浅丘にひょんな仕事が舞い込んだことがきっかけだったという。《私がリポーター役としてひばりさんと旭さんの新居を訪問し、お節介にも熱々な新婚生活をインタビューさせてもらうという特集記事だった》(『私の履歴書』7月11日) 派手なヒョウの毛皮で訪ねた浅丘をひばりさんはじっと見ていたという。《ひばりさんは、私と旭さんが恋人同士だったことをもちろん知っていた。だからこそ私に気を使っていたんだと思う》 その後、ひばりさんは浅丘のことを「のぶちゃん」と呼び、実家に泊まるまでの仲になった。 包み隠さず描かれた当時のエピソードだが、浅丘がこの『履歴書』に書かなかったある男性との恋があったという。芸能レポーターの石川敏夫氏がこう振り返る。「石坂さんとの結婚は詳細に描かれていてまるで当時を思い起こさせるようでしたが、“あの彼”のことは書かれていませんでした。実は当時、ルリ子さんにはテレビ局に勤める別の意中の男性がいたんです。周知の恋人でした。でもすれ違いが多く、ギクシャクしてしまっていた。その関係を清算しようという時、石坂さんから熱烈なアプローチを受け、ルリ子さんは結婚を決意したそうです」 まだまだ彼女の言葉は聞き足りない。※女性セブン2015年8月13日号
2015.08.03 16:00
女性セブン
寿美花代が夫・高島忠夫を老々介護した番組内容に疑問の声も
寿美花代が夫・高島忠夫を老々介護した番組内容に疑問の声も
 うつ病と診断されてから、芸能界から遠ざかっていた高島忠夫(82才)の現在の様子が、6月18日の『カスペ!』(フジテレビ系)で放送された。番組では、妻の寿美花代(81才)が自宅を公開。壮絶な老々介護の日々を明かした。番組終盤、忠夫が杖を使わずひとりで立ち上がるシーンでは、奇跡が起きたかのように描かれていた。ある高島家を知る人物はこう話す。「うつ病どころか、糖尿病、心臓病の他にパーキンソン病を発症していると初めて明かしていましたね…。ですが、この数年間、寿美さんは忠夫さんが回復したと言って講演会や、雑誌のインタビューで体験談を語ったりしてきたんです。さすがにそれを彼女はずっと悩んでいて、お酒が入ると“私はずっと嘘をついてきた”って懺悔していました」 番組では、寿美が自宅で老々介護している様子もクローズアップされていたが、その点に前出の人物は疑問を投げかけている。「寿美さんひとりで介護をしているようにレポートされていましたが、もうずっと前から、高島家には住み込みのお手伝いさんと、夜にやってくる介護士さんが何人かいるんです。やはり成人男性を自宅で介護するとなれば、とても女性ひとりの手には負えませんからね」 寿美自身も老々介護の末、うつ病になりかけたこともあったというが、それをきっかけにまずは自分を守らなければ夫を救えないと思い直したという。それからは自分の時間も大事にして、好きな音楽やおしゃれで心をときめかせているのだ。「今回の撮影のために、寿美さんはジェルネイルを変えて、美容室にもフェイシャルエステにも行って、万全の準備をしていました」(寿美の知人) かつて南田洋子さん(享年76)の自宅介護を、長門裕之さん(享年77)がテレビで公開した際、長門さんに非難の声が殺到したこともあった。今回の寿美の告白はどんな波紋を広げるのか──。※女性セブン2013年7月4日号
2013.06.21 07:00
女性セブン
「ああ、あの人も」芸能・スポーツほか2011年の物故者を偲ぶ
「ああ、あの人も」芸能・スポーツほか2011年の物故者を偲ぶ
大人力コラムニスト・石原壮一郎氏の「ニュースから学ぶ大人力」。今回は今年一年を総括して、2011年の物故者を「大人として謹んで偲ぶ」方法を考えます。* * * 2011年も間もなく幕を下ろしますが、今年もたくさんの方々が、こっちの世界から別の世界に旅立って行かれました。年末になって飛び込んで来たのが、朝鮮民主主義人民共和国の最高指導者・金正日(敬称略・以下同)の訃報。ほかにも、11月には落語家の立川談志、10月にはアップルCEOのスティーブ・ジョブス、7月には作家の小松左京など、今年は超大物の死が相次いだ印象があります。それぞれの先人たちの業績に敬意を表し、その死を謹んで悼むのは、大人としての大切な務め。超大物の訃報にばかり目を奪われて、自分の人生に重要な意味を持つ人の死をうっかり失念するわけにはいきません。「ああ、あの人も今年だったよね」と言い合いながら、みんなでそっとご冥福をお祈りすることができるように、あらためて「2011年の物故者」を振り返ってみましょう。芸能関係では、個人的にも極めてショックでしたが、4月には元キャンディーズの田中好子が55歳の若さで亡くなりました。3月には坂上二郎、5月には児玉清や長門裕之、6月にはピーター・フォーク、7月には宮尾すすむ、8月には前田武彦や竹脇無我、9月には杉浦直樹……。それぞれの出演作品の思い出を語り合ったり、あるいはモノマネをしてみたりして、たくさんの夢や喜びを与えてくれたことに感謝したいものです。今年は、野球関係者の訃報も目立ちました。2月には中日ドラゴンズ元監督の与那嶺要、3月には箕島高校野球部元監督の尾藤公、7月には阪神タイガースなどで活躍した伊良部秀輝、8月には巨人軍の名誉オーナーの正力亨、11月には「悲運の名将」と言われた西本幸雄……。サッカー界では、8月に元サッカー日本代表のディフェンダー・松田直樹が、練習中に突然の悲劇に見舞われました。34歳の若さでした。7月には、元サッカー日本代表監督の森孝慈も世を去っています。小松左京の話題が出たときに、作家つながりでいっしょに偲びたいのは、5月の団鬼六、7月の辺見じゅん、10月の北杜夫……。文化人方面では、今月に入ってから、脚本家の市川森一や映画監督の森田芳光が、相次いで亡くなりました。もちろん、ここに挙げた以外でも、みなさんそれぞれに「今年は何といっても、あの人が亡くなったのが残念だった……」と思える人がいるはず。暮れのあわただしい時期ではありますが、もう一度ゆっくり思い出しましょう。会話の中で、周囲が「へぇ、その人も今年だったんだね」と感心してくれる名前を上げることができたら、故人を偲ぶことになるだけでなく、その故人に関係するジャンルへの造詣が深そうに見えそうです。いや、まあ、そのあたりはあくまでも、どうでもいい極めてささいなついでの副産物ですが。
2011.12.31 16:00
NEWSポストセブン
津川雅彦 フジTVの番組で東京新聞の編集長と電話で生バトルも
津川雅彦 フジTVの番組で東京新聞の編集長と電話で生バトルも
 兄・長門裕之(享年77)と弟・津川雅彦(71)は、不思議な兄弟仲を見せ続けた。長門さんが亡くなって3か月、めったにインタビューを受けないことで知られる津川氏が、長門さんのラストインタビューを行なった吉田豪氏を聞き手に、兄弟の秘話を語った。ここでは、津川氏のマスコミ不信についてのエピソードを紹介する。 * * *――もともと誘拐によってマスコミ不信になったっていう噂は聞いてたんですけど……。津川:いや、マスコミ不信は今さ。誘拐のときは全マスコミが誘拐報道協定を初めて結んで、捜査に協力してくれたし。東京新聞の歪んだ論評を正そうとフジテレビが番組で取り上げて応援してくれた。――新聞が「自業自得」と津川さんを叩いたんですよね?津川:それが東京新聞さ。「役者は生まれた子を自分の宣伝のために利用するバカが多いから誘拐される」(※:記事下段に解説あり)とね。ジャーナリストの本分を失い商売のために読者に媚びよった。嫉妬深い読者は「役者を叩けば喜ぶ」。これがマスコミの営業方針なんだとわかったね。それにしても東京新聞の編集長は許せなかった。――闘ったんですか!津川:フジテレビの番組でね。スタジオから生中継で東京新聞との電話の模様を中継してくれた。編集長に「新聞は公器だ。誘拐なんて凶悪犯罪は二度と起こらないよう書くのが君たちの務めだろう?『悪いのは親だ』っていって、犯人予備軍達が『役者の子』なら許されると、懲りずにやったらどう責任とるんだ。役者がアホなのは反論しない。アホだから役者やってんだよ! でも、娘には何の罪もない。下衆な役者の子だから誘拐されて良いって法はない!! ジャーナリストとして恥を知れ」ってね。 編集長は鈍愚に「私は正しい」の一点張りさ。可哀想に謝ったら首だからね。「君は今後、津川雅彦の顔を見る度に、良心が苛まれるぞ」って言ってやったが、翌日1ページ全部読書欄で誘拐特集さ。読者の90%が「役者の子は誘拐されて当然」とアピールしてた。僕の報復措置は、東京新聞読まなくなっただけ。むなしいね。――そこでそうやって新聞と闘えるのも強いですよ。津川:良い時代だったんだな。今のジャーナリストは完璧にサラリーマン化しちゃった。今では読者欄の捏造はもちろん、視聴率、支持率も好感度もいい加減。大河(『葵 徳川三代』)で家康を演じたとき、読売新聞の投書欄に「津川が家康を演じながら、さかんに唾を吐いてる。食事時には、いかがなものか」ってのが載った。 NHKは尻の穴小さいから「やめていただけませんか?」って、「爪を噛んで、懐紙に吐くのは史実にある家康の癖だ。脚本家も書いてる」って怒ったら「ウチで書きませんか?」って朝日が言ってくれて。「読売さん!! あれは唾じゃない。家康の史実にもある爪だ。無料といえどもドラマはちゃんと観なさい。更に食事しながらテレビを観るな。行儀が悪い!」って(笑)。――ダハハハハ! そこから否定なんですか(笑)。※1974年、津川・朝丘夫妻宅2階から当時生後5か月の長女が誘拐され、身代金500万円が要求された事件。犯人は身代金の受け渡しに銀行のATMを利用、引き出しているところを身柄確保された。※週刊ポスト2011年9月9日号
2011.09.04 07:00
週刊ポスト
津川雅彦 高視聴率の『スチュワーデス物語』酷評した過去も
津川雅彦 高視聴率の『スチュワーデス物語』酷評した過去も
 兄・長門裕之(享年77)と弟・津川雅彦(71)は、不思議な兄弟仲を見せ続けた。長門さんが亡くなって3か月、めったにインタビューを受けないことで知られる津川氏が、長門さんのラストインタビューを行なった吉田豪氏を聞き手に、兄弟の秘話を語った。ここでは長門と妻・朝丘雪路、そして長門の妻・南田洋子に関する仰天エピソードを紹介しよう。 * * *――長門さんが暴露本(『洋子へ』)を出したときはどう思ったんですか?津川:あの頃『すばらしき仲間』って番組があって、僕と雪江(朝丘雪路)と南田洋子と兄貴と4人が出てね、当時は『スチュワーデス物語』って番組が視聴率取ってて、「作り方がひどい。人気になってるからって、ああいうチャッチいドラマを作ってはいけない。心ある役者は出演を断わるべきだ。無料のテレビにかじりつく茶の間の文化度は最低になった。一億総白痴化は進んでると認識すべし」とね。――わざわざテレビで!津川:テレビだからこそ言いたかった。そしたら、南田洋子が「雅彦さん、役者にとって沢山の人が観てるのは、素敵なことなのよ」「いやいや、中味が大事だよ……」「私! ちょっと出たのよ!! あれに」「えっ? 洋子さんも?」「俺も出た」「えっ! 兄貴も?」。とどめは「私も出てます」と雪江。「僕は間違ってました。実は、素晴らしい番組かもしれない」(笑)。これがカットされずにオンエアされちゃった。「面白かったです!」って誰もが褒めるほど評判良かった。兄貴にしたら「雅彦は毒を撒いて、アテンションしやがった」。毒は効果なんだと学習したんだね。それまで兄貴は自分の才覚で、「テレビの時代は夫婦仲よくが人気になる」的に先を読んで成功してた。頭が良いから正攻法を好んだわけ。だから毒を撒く度胸が育たなかったし、ケツまくるバカな手も使わなかった。――おしどり夫婦を意識的に演じたりしてきた、そんな長門さんが初めて毒を使ったのが、あの暴露本だったってことですか?津川:甘みを出すために西瓜に塩をかけるでしょう、多けりゃもっと甘みが出るってもんじゃない。本来塩は毒。大量に塩喰ったら死んじゃうのがわかってなかった(笑)。※週刊ポスト2011年9月9日号
2011.09.03 07:00
週刊ポスト

トピックス

ご体調への不安が募る(写真/JMPA)
雅子さまと愛子さま、“ポツンと一軒家”の孤独感 閉ざされた御所での巣ごもり生活
女性セブン
SNSでも話題の「佐賀大学お嬢様部」に直撃
佐賀大学“お嬢様部”の活動実態を直撃取材!「お嬢様の定義をお教えしますわ」
週刊ポスト
1980年、田中派の総会で挨拶をする田中角栄(写真/共同通信社)
鉄の結束を誇った田中角栄軍団、「みんな田中ファン」指導力に心酔した議員や秘書たち
週刊ポスト
今は「芸人部署」に所属している久代萌美アナ
久代萌美、亀井京子アナも 女子アナ獲得の吉本、テレ東のエースアナにも注目
NEWSポストセブン
公務に邁進されている(6月、東京・港区)
佳子さま「公務に積極的」になられた背景に「皇籍離脱」「結婚」か
女性セブン
亜希
亜希 陰から見守る元夫・清原和博と息子達との「父子鷹」
NEWSポストセブン
小室圭さんと眞子さん
小室圭さん妻・眞子さんがNYで行きつけのスーパーから見えてきた“妻の気遣い”「日本でいえば『成城石井』」 
NEWSポストセブン
披露宴での志摩ノ海と元関脇・逆鉾の長女・清香さん(時事通信フォト)
故・逆鉾の長女が結婚で後継者確定も名門・井筒部屋再興への“高いハードル”
週刊ポスト
クルマ、ギター、アート、スケートボードにもこだわる
長瀬智也、英国のバイク誌に登場 悠々自適な暮らしに「所ジョージ化している」の声
女性セブン
京都の街を歩く舞妓のイメージ(写真/イメージマート)
元舞妓の〈16歳飲酒〉〈お風呂入り〉告発に、花街関係者も衝撃「未成年飲酒には厳しく対応しているはず」
NEWSポストセブン
結婚し、日本メディアが情報をキャッチしづらいNYで、デイリーメールが追跡取材(写真/JMPA)
小室圭さん・眞子さん夫婦が「離婚で終わったとしても…」英デイリー・メールが報じた「茨の道」
NEWSポストセブン
不祥事を理由に落選したはずなのに、比例で復活されては…(左は塚田一郎氏、右は中川郁子氏/写真=共同通信社)
「不倫路チュー」「USBは穴に…」失言・不祥事で落選しても比例復活するゾンビ議員たち
週刊ポスト