【書評】『神道の美術』/加藤健司、畑中章宏、平松温子/平凡社/1680円
【評者】池内紀(ドイツ文学者・エッセイスト)
仏教美術とはいっても神道美術とはいわない。法隆寺は最古の木像建築を誇っているが、伊勢神宮は二十年ごとに新築と取り替える。アニミズム的な原始信仰では、神は姿なきもの、自然そのもの。造形のかなたにあって、おのずとあらわれるものだった。
奈良時代に日本人は古来の神と渡来した仏教を「神仏習合」の名のもとに結びつけた。生来の器用さが信仰においても発揮されたようである。以来、絵画や神像に「立ち現われる神」が登場する。神々の住まいにも古型が尊ばれ、創建の由緒をいうようになった。
寺に特有の抹香臭さが苦手で、あっけらかんとした神社が好きな人間にはうれしい本である。美術界ではマイナー扱いされる神道の美術が、多くの図版を引きながらわかりいいテーマ設定のもとに説いてある。
とりわけ初期の作品が興味深い。姿なき神を具象化するにあたり、いろいろ試行錯誤があった。「春日明神影向図」では、ただ影として描かれている。「那智瀧図」では、落下する水に停止を命じて、それ自体を神とした。大神のお使い役で神を示そうとしたケースもある。マニュアル化がすすむ以前の造形の冒険は、はるか後世の現代美術の根源を思わせたりするのである。
神社の片隅には小さな社が並んでいるものだが、「神社境内配置図」を知っておくと、見る目がちがってくるだろう。なにげなく格子のあいだから薄暗い本殿の奥をのぞくと、まん丸い鏡がポツンとあったりする。
おもえば鏡を「神霊が宿る神聖な物体」とした知恵深さに舌を巻きたくなる。諏訪大社で行われる七年に一度の御柱祭は有名だが、はるばると曳かれてきた巨木は、それ自体ではなく、「直立してはじめて『神』となる」。その大胆な発想に驚かされる。
何も知らずに拝んでいた。ごくふつうの女の子が巫女姿で社務所にすわると、にわかに清浄な神の子になる不思議に首をかしげていたが、神道のもつ美的造形力の由来とスゴさがわかってくる。神社詣が一段とたのしくなった。
※週刊ポスト2013年2月8日号