旅立ち前日のヘルマンとサビナ


◆ベッド上で空を飛び続けた

 同日の午後5時。バーゼル市内のホテルの一室に向かった。

「世界を旅したくて、CAになったの。でも、結婚2年後に悲劇が訪れたわ」

 サビナ・ツェリカス(53)は、日の落ちたホテルの426号室で、絶望した表情を見せて言った。車いすに座る彼女が、私を見つめる涙目は、15時間後に何が起こるのかを物語っていた。プライシック女医によると、彼女の病状は、私が2か月前に取材したサンペドロと同じ全身麻痺の患者だった(*1)。

【*1/連載第9回で紹介。スペイン北西部ガリシア地方の漁師ラモン・サンペドロは25歳のとき、地元海岸から海に飛び込み、頸椎を折り全身不随の身に。29年間のベッド生活のなかで何度も自死を望むも、スペインでは安楽死が法制化されておらず、家族の引き留めにもあう。しかし、恋人ラモナ・マネイロの協力によって1998年、安楽死を遂げる。】

「お会いできて光栄です」と言って、私は彼女の唯一動く手をしっかりと握った。サビナは、声にならない息を吐きながら、「はじめまして」と言った。

 1994年、31歳当時、ルフトハンザのCAとして、世界中を飛び回っていたサビナは、華やかな気持ちで一杯だった。1992年に結婚し、男の子も授かったばかりだった。だが、不運が彼女を襲う。睡眠中に脳梗塞が訪れる。気づいた時には、病院のベッド上。既に3週間もの時間が流れていた。

「身体が動かず、話すこともできなかった。怖くて、苦しくて、監獄にいるようだったわ……」

 彼女の人生への恨みは、その一言に凝縮されていた。1994年といえば、私が海外生活を始めた頃だ。その後、世界中を巡り歩いて多くを学び続けた22年間、彼女はベッドの上で生きてきた。

 彼女には、この時、10年前に知り合ったブルーノ・ヘルマンが同行していた。サビナは、ヘルマンを必要とすると同時に、ヘルマンはサビナに思慕の念を抱いた。闘病6年目、前夫と息子を手放す決断をした。

「治る見込みもなく、また倒れるかもしれない。まったく違う人間になってしまったのだから。母としての役割を果たすことができないので、息子は前夫に託しました」

 24歳になった息子さんに会うことはあるのですか? 彼女は「もう8年間ほど会っていない」と呟いた。将来、息子は軍隊の道に進むため、現在、ミリタリースクールに通っているという。

 息子さんには、明日のことを話している? ヘルマンが、「知っているのは、私ともう1人の友人だけ」と言った。父親は他界しているが、78歳の母親は健在だ。妹と弟にも、この話は知らされていない。

「家族全員に手紙を書いたの。その手紙は、私が死んでから渡してもらうわ」

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