すると明くる日、清原から「断られました」という報告を受けた。井元は、桑田に理由を訊ねた。
「どうも『僕のペースには絶対についてこられない。オレは走るから、キヨはその時間、バットを振ればいい』と伝えたらしいんです。以来、清原は全体練習終了後にグラウンドの外野フェンス沿いを素振りしながら何周もするようになった。その後は屋内でティバッティング。それが終わるタイミングに、ゴルフ場を走ってきた汗だくの桑田が帰って来るんです」
桑田は5回の甲子園出場で、学制改革後は最多となる通算20勝を挙げた。25試合に登板し、イニング数は197回と3分の2。防御率は1.55だ。
ただし球数は少なく、1985年のセンバツ準々決勝天理戦ではわずか82球で3安打完封した。今春から導入された「1週間に500球以内」という甲子園の球数制限に照らしても、桑田がそれに抵触するケースはなかった。中村が証言する。
「当時の甲子園は、少なくとも準々決勝から3連投でした。桑田には『3連投に耐えられる体を作ろう』と話していた。桑田なりに考え、ノースローの時期を作ったりして、私もそれを容認しました。当時から『肩は消耗品』という認識を持って取り組んでいましたね」
1983年から1985年までは、元朝日放送アナウンサーの植草貞夫の言葉になぞらえるなら、「甲子園はKKのためにあった」だろう。
2001年にPL学園の暴力問題が発覚すると、井元はPLを追われ、その後、青森山田、そして現在は秋田のノースアジア大明桜で同様の役割を担っている。PL以外でもプロ選手を誕生させた。
「PLに戻って野球部監督となったのが25歳の時。ちょうど60年。ようやってきたと思います」
甲子園に5季連続で出場した選手は、早稲田実業の荒木大輔(元ヤクルトほか)、最近だと智弁和歌山の黒川史陽(現楽天)など、過去に12人いるが、KKのようにふたり揃って抜群の実績を残したケースはない。
「あれほどの才能が同じチームにそろって、4回も甲子園の決勝に進出する。そんなことは二度と起こらないでしょう」
伝説のスカウトマンは引退を考えているのだろうか。KKを回顧する言葉を受け、ふとそんなことが脳裏をよぎった。
【プロフィール】
柳川悠二(やながわ・ゆうじ)/ノンフィクションライター。1976年、宮崎県生まれ。法政大学在学中からスポーツ取材を開始し、主にスポーツ総合誌、週刊誌に寄稿。著書に『永遠のPL学園』(小学館文庫)。2016年、同作で第23回小学館ノンフィクション大賞を受賞。
※週刊ポスト2021年8月20日号