清原和博一覧

【清原和博】に関するニュースを集めたページです。

亜希
亜希 陰から見守る元夫・清原和博と息子達との「父子鷹」
 この6月に、5年ぶりの地上波テレビ出演を果たしたモデルの亜希。自身のインスタグラムでは、息子たちに作る“大盛り弁当”写真が反響を呼ぶ。一方、離婚から8年を迎え、元夫・清原和博に対しても、温かい視線を送っていた。 東京六大学野球のフレッシュトーナメントが、5月末から6月初旬にかけて開催された。1、2年生のみが出場できる“新人戦”の位置づけだが、慶應義塾大学の打者が大きく注目された。 全試合4番に座った清原正吾選手は、亜希の長男。そして、プロ野球史に残るスタープレーヤーである、清原和博を父に持つ。 スタンド最前列で息子のプレーに熱視線を送る清原の姿がスポーツ紙などで報じられたが、正吾選手の活躍に胸を躍らせているのは、亜希も同様だ。 スポーツ記者は、「亜希さんは、正吾くんの試合観戦に大抵足を運んでいます。ただ、慶應応援団の中に混じっていることがほとんどで、周囲の人も気づいていない。清原さんが観戦に訪れると、あの風貌ですからとにかく目立つ。亜希さんは、清原さんと一緒にいるところを報じられたりしないよう、距離をとって、かなり控えめに応援しているようです」と明かす。 亜希は清原と2000年に結婚。2002年に正吾選手、2005年に次男を出産した。しかし、2014年に離婚。清原はその後、2016年に覚せい剤取締法(所持)容疑で逮捕され、執行猶予付きの有罪判決を受けた。「離婚以降、亜希さんと清原さんは、弁護士を介してしか連絡を取らない状態でした。ですが、亜希さんは子供たちの前では、決して清原さんの悪口は言わなかったそうです。罪を犯したことは事実だけど、それでも父親はこの世に1人しかいない存在ですから」(前出・スポーツ紙記者) 一方、亜希は離婚後も清原姓を名乗っていたが、2016年に「亜希」に改名。同時にアパレルブランドのプロデュースに乗り出し、それまでのモデル業から活躍の場を広げた。「ただ、かなり苦労もあったみたいです。ユーザーのニーズをキャッチするのが難しかったみたいで、悩んでいた姿もありました。“メルカリでこんなに安く売ってるの”と嘆いていたこともありました。それでもめげなかったのは、母としてのプライドがあったからだと思います」(ファッション誌関係者) 亜希はこの6月に、5年ぶりの地上波テレビ出演も果たした。偉大な父の存在を教えられ、母の奮闘を見た子供たちは大きく成長した。 正吾選手は、小学生の頃は野球チームに所属していたが、中学・高校は別の競技に打ち込んだ。野球から離れたのは、父親の騒動も影響した。6年間のブランクがある。それでも甲子園経験者など全国から有望選手ばかりが集う慶應義塾大学の野球部で、チャレンジを続けている。「正吾くんは、父親である清原さんから譲り受けたファーストミットとバッティンググローブを使っています。小学校で泣く泣く野球から離れたのは、清原さんの騒動の影響が大きかったようですが、年齢を重ねて大人になるにつれ、改めて父親の大きさに気付いて、悔いを残さないよう野球に戻った。 直接指導できる機会は少ないですが、正吾くんに清原さんがアドバイスを送ることもあるそうです。亜希さんは、野球の指導はできませんからね。亜希さんは直接清原さんと連絡を取り合うことはありませんけど、野球に夢を見出して、父親の背中を追う正吾くんと、清原さんのことを優しく見守っているようです」(別のスポーツ紙記者) 離れたところから、亜希は元夫と息子の「父子鷹」を応援している。
2022.06.30 07:00
NEWSポストセブン
父と同じ4番ファースト(時事通信フォト)
清原和博氏の長男が「慶応4番」で新人戦に登場 スカウトが見た「プロへの課題」
 5月30日から始まった東京六大学野球のフレッシュトーナメント(新人戦)で、一際注目を集めた選手がいた。 清原和博氏の長男・清原正吾(2年・慶応大学)である。スポーツ紙アマチュア野球担当記者が語る。「父と同じ背番号5番をつけて『4番・一塁』で出場。清原氏は連日観戦に訪れ、正吾がヒットを放つとガッツポーズで喜んでいました。肝心の打撃は、12打数3安打3打点とまずまずでしたが、今年の新人戦の主役は清原氏と正吾でした」 新人戦の開催中、スポーツ紙は正吾の出場を大々的に報じ、スポニチのネット版が〈慶大清原Jr.が覚醒の兆し〉と題する記事を配信して、後に〈目覚めの兆し〉に修正する出来事もあった。 各紙で“清原”の文字が躍る一方で、記者たちの間ではこんな葛藤もあったという。別のスポーツ紙アマチュア野球担当記者が語る。「記者の間で大きな扱いにすべきか否かという話が出たんです。実力的にはまだこれからの選手で、あまり大きく報じすぎるとミスリードになるという意見があった。 正吾は小学生の時は軟式野球をやっていたが、中学ではバレーボール部、高校ではアメフト部でブランクがありますから。これだけ報じられたのに、記事内にスカウトのコメントがないのはプロレベルにはほど遠いからです」 そんな正吾について、ある在京球団スカウトは、「次の1年間がポイントになる」と語る。「体格も186センチ、90キロと親譲りだし、新人戦で大きなショートフライを打ち上げたが、あの高さは相当な力がないと上がらない。慶応の堀井哲也・監督は、この1年で中高時代のブランクは消えたとしている。3年生の春にリーグ戦に出場できるかどうかですね。今はつられて振っているボール球を見逃せるようになれば、期待できます」 出藍の誉れとなるか。※週刊ポスト2022年6月24日号
2022.06.14 07:00
週刊ポスト
PL学園の黄金時代をスカウトとして支えた井元氏
甲子園通算99勝 KKコンビ獲得の伝説のスカウトが引退「もう潮時だ」
 部員から新型コロナ感染者が出たことにより、広島商がセンバツ甲子園の2回戦を辞退。大阪桐蔭が不戦勝で準々決勝へと駒を進めた。まさかの不戦勝で大阪桐蔭の西谷浩一監督は甲子園通算58勝となり、同じ大阪のPL学園をかつて率いた中村順司監督と並ぶ歴代2位の数字となった。PL学園の硬式野球部は2016年に休部しており、“大阪の覇者”は完全に入れ替わった格好だ。そうしたなか、中村監督が率いた黄金時代のPL学園の屋台骨を支えた「伝説のスカウト」が、昨夏にひっそりと現場を退いていた──『永遠のPL学園』(小学館文庫)の著者であるノンフィクションライター・柳川悠二氏がレポートする。【前後編の前編、後編を読む】 * * * 1962年に監督としてPL学園を初めての甲子園出場に導き、その後は野球部の顧問として全国の有望中学生に眼を光らせ、学園のある大阪府富田林に集めて常勝軍団を築き挙げた男がいる。高校野球の歴史上、随一の人気を誇ったPL学園硬式野球部(2016年に活動停止)を語る時、“伝説のスカウト”として必ず名の挙がる井元俊秀(いのもと・としひで、85)だ。 2002年にPLを追われた男は、青森山田で12年間、秋田のノースアジア大明桜でも8年間にわたってPL同様の役割を担い、近畿圏の中学生球児を東北へと送り出してきた。 60年以上に渡る高校野球との関わりの中で、これまで携わった3校で春夏の甲子園に出場した回数は計45回、通算の勝利数は99勝だ。この記録は甲子園通算68勝という歴代最多勝利記録を持つ智弁和歌山の前監督・高嶋仁の偉業と、個人的には同等に語り継がれてしかるべき業績と思っている。そして、プロに送り出した球児も総勢83人にのぼる。「本当はもう少しプロになった選手はおるんだけど、ボクがプロと認めていないのがおるから、その選手はカウントしていません」 深く刻まれた目元の皺をさらにギュッと寄せ、井元はニカッと笑った。およそ1年ぶりに会う井元は、千葉ロッテのキャップをかぶっていた。井元とやり取りするようになって6年以上経つが、特定の球団のキャップをかぶって姿を現したことはこれまで一度もなかった。 昨春に石垣島で行われていた千葉ロッテの春季キャンプに足を運んだ際、井元が明桜にスカウトし、同校からプロに進んだ山口航輝(2018年ドラフト4位)からプレゼントされたサイン入りのキャップだという。山口は現時点で、井元が最後に送り出した、“83人目”のプロ野球選手となる。 だが、今年7月に86歳になる井元が昨年8月、静かに高校野球界を去ったことを知る者は少ない。「コロナ禍でそうそう出歩けなくなってしまったし、出歩くことがしんどくなってしまった。幸いにして、車の運転はできるんだけど、足腰が弱ってしまってね。もうあちらこちらに飛び回ることもできないんです。持病もあるし、潮時かなと。未練なんてありません」KKコンビの才能をどう見極めたのか 昨年7月に話を聞いた時には現役続行の意向を明かしていた。その直後の急な心変わりは、昨夏に風間球打(2021年福岡ソフトバンク1位)を擁した明桜が甲子園に出場したことが関係しているかもしれない。風間は井元が勧誘した選手ではないものの、大エースを看板に明桜が甲子園出場を果たせたことで、「お役御免」を自覚したのかもしれない。 スカウトの仕事から離れたといっても、今も週末になると中学野球の現場に足を運ぶ井元がいる。「それは完全に趣味ですね。甲子園を見るよりも、中学野球のほうが面白いんですよ。ボクがよく足を運ぶチームに素晴らしいキャッチャーがおる。彼の成長を見守るのが楽しみでね。大阪桐蔭の西谷(浩一)君が声をかけとるらしいです(笑)。その子の進路にタッチしようとは思っていません。もちろん、相談されたら、アドバイスはするだろうけど、彼はボクが何者かなんて知らんでしょう」 PL時代において、スカウティングで苦労した思い出はいくらでもある。とりわけ、「逆転のPL」が代名詞となった1978年夏の選手権大会の優勝投手である西田真二(元広島)を口説き落とすために、和歌山にある西田の実家にはギネス級に日参した。「同級生の捕手・木戸克彦(元阪神)にも苦労しましたが、西田に関しては36回目の訪問でようやく決断してくれた。そうそうそう、3年時に甲子園には出場できませんでしたが、同じ和歌山出身の尾花高夫の時も大変でした。PLから社会人の新日本製鐵堺に進み、その後にヤクルトに入団した彼は(和歌山の)九度山出身だった。高野山に向かう途中の山の中に実家があり、1月の末頃に初めて訪ねた。すると私は道に迷ってしまって、草木を掴みながら山を上ってようやくたどり着いた。こんな山を毎日上り下りして学校に通っているんだから、相当、足腰は強いだろうと思った事を覚えております。後に、尾花をヤクルトにスカウトした片岡宏雄さん(2021年12月に逝去)もまったく同じことを話していましたね」 1983年夏から5季連続で甲子園に出場し、プロの世界で大投手、大打者となったKK(桑田真澄、清原和博)や、1987年に春夏連覇を達成した立浪和義や橋本清、片岡篤史、宮本慎也らも井元のお眼鏡に適った球児だった。KKに関してはもちろん、井元の中でも特別な選手だ。「(桑田は)キャッチボールからボールが違った。フォームが美しく、ボールに伸びがあった。回転も素晴らしかった。ピッチャーというポジションは、フォームに癖があってガクガクした動きをしていたり、手投げになったりしてしまう投手はなかなか2年半という高校生活の間では修正ができない。ですから、ボクが選手を見極めるときに大事にしていたのは、まずキャッチボールがしっかりできることだった。 清原に関しては、初めて見た時は引っ張り専門で、とにかく飛距離が印象に残った。私は学習院大学で野球をしていた頃、長嶋茂雄さんのバッティングを近くから見たことがある。ミートしてから20メートルぐらいの打球の初速と角度に希有なホームラン打者の才能が詰まっていた。清原のバッティングを見て大学時代の長嶋さんを思い出しました。全国制覇をするようなチームは、その3年前の段階で優勝できると確信できるものです。木戸と西田の時や立浪の時がそうでしたし、KKの時は野球をまったく知らない人間が監督でも優勝できると思っていました」大阪桐蔭の西谷監督から教えを乞われて 当時のPLは、全国の中学生が憧れる超名門であり、あらゆる手を使って息子をPLに入学させようという強引な保護者もいた。「ある時、OBを通じて宮崎の油津という場所に素晴らしい選手がいると情報が入ってきた。それでボクは、周囲に黙って視察に行ったんです。ところが練習を見ても、正直、PLで野球がやれるような実力ではなかった。どうも選手の母親が『PLから誘いが来ている』と周囲に吹聴していただけなんです」 1970年代後半から1980年代にかけてのPLの黄金期、井元が声をかけた球児は必ずPLの門を叩いた。高校野球に一時代を築いたPLの井元から声をかけられることは中学生にとって最大の誉れであり、甲子園への、そしてプロへの最短の道だった。それは1990年代に入ってからも続いた。大阪桐蔭の現監督である西谷浩一は、当時をこう振り返ったことがある。「どうやったらPLを倒せるか。そればかり考えていました。最初は、良い選手さえ獲れれば差は縮まると思っていました。ところが、誘ってもなかなか入学してもらえない。PLに『A(クラス)』の選手が行くとしたら、うちにはやや劣る『B』の選手しか来ない。そんな状況でPLと同じことをやっていたら、一向に差は埋まりません……」 若き日の西谷から、井元は教えを乞われたことがあるという。「『土下座でも何でもしますから、先生、どうしたら強くなれますか教えてください』『どうやったら欲しい選手を獲れますか』と言ってきましたね。ボクは一言だけ、『良いと思った選手がいたら、熱心にとにかく通うこと。これしかないよ』と伝えました」 しかし、ある時から潮目が変わった。そう井元は振り返る。「1999年だったかな。奈良の郡山シニアに行くと、175センチのショートと、168センチぐらいのセカンドがいた。どちらもPLへの進学を希望していて、どちらも右投げ左打ちの良い選手だったけれども、ボクはショートの子だけを獲った。その後、セカンドの子は大阪桐蔭に進みました。そして、PLのグラウンドで行われた春季大会で1年生から試合に出ていた彼に再会した。ちょうどお母さんもいらしていて、『先生、うちの息子は今でもPLに憧れています』と言われたことを覚えています。この選手が誰だか分かりますか?」 話の途中から察していた。その選手とは──千葉ロッテや阪神で活躍した西岡剛だ。(文中敬称略)【後編】につづく
2022.03.27 07:01
NEWSポストセブン
野球の名門校だったPL学園も信仰と結びつきが強い(写真はPL教団の象徴・大平和記念塔)
PL学園「入試倍率0.02倍」 野球部復活はおろか生徒激減の窮状
 センバツ甲子園の第6日目となる3月24日の第1試合には、優勝候補筆頭と目される大阪桐蔭が登場する。圧倒的な戦力を擁し、2012年と2018年には春夏連覇も果たした“大阪の覇者”だが、かつて激戦区・大阪で圧倒的な存在感を放っていたのが、桑田真澄や清原和博ら数多のプロ野球選手を輩出したPL学園だ。2016年を最後に硬式野球部は休部となり、OBやファンからは復活を望む声が多く聞かれるが、その道のりは遠そうだ。『永遠のPL学園』(小学館文庫)著者の柳川悠二氏(ノンフィクションライター)がレポートする。 * * * コロナ禍となって3度目の春を迎え、第94回選抜高校野球大会も1回戦最後の試合となる「大阪桐蔭対鳴門(徳島)」をもって、出場32校が登場することになる。3月21日までは2万人という観客上限があったものの、まん延防止等重点措置条例が解除される翌22日からはそれも撤廃され、甲子園もようやく平時に戻りつつある。 春と夏の高校野球の季節に、出場校の情報や試合の速報記事とともにインターネット上に大量にアップされているのが春3度、夏4度の日本一を誇るPL学園の関連記事だ。とりわけ1970年代後半から1980年代にかけた黄金期の鮮烈で劇的な戦いぶりは、半世紀近い年月が過ぎ去っても色あせず、いまだ絶大な人気を誇るゆえ、記事も絶えないのだろう。 また、立浪和義が今季から中日ドラゴンズ監督に就任し、2年先輩の清原和博とYouTubeで共演するなど、OBらがYouTubeを使って往年のPLを語って好評を博していることも、その要因であるはずだ。 1956年創部(学園の建学は1955年)の野球部が歴史に終止符を打ったのが2016年だが、学校そのものが“消滅”の危機にあることをその後も筆者は報じてきた。 とにもかくにも、生徒数の減少が下げ止まらないのだ。 PL学園の入学試験の競争倍率に興味を持ったのは2015年だった。その年は、国公立コースと理文選修コースの外部募集がいずれも定員割れ。理文選修コースにいたっては、0.23倍という大阪府下の共学私立で最低の入試倍率であった。 野球部も、そして母体となるパーフェクトリバティー教団(PL教団)も最盛期を迎えていた1980年代のPL学園は、男子の金剛寮と女子の葛城寮に男女あわせて1000人以上が暮らすマンモス校だった。 ところが、野球部が活動を停止した頃のPLは、付属の中学からエスカレータ式に進学してくる生徒もいるとはいえ、生徒数は一学年60人ほど。生徒数が減少する中で、高校の校舎に耐震工事が必要だという行政の指導が入り、2014年頃から中学の校舎で授業を受けるようになっていた。ちなみに、高校の校舎は現在も取り壊されることがないまま、どんどん老朽化が進んでいる。80人の募集に受験者は1人 以来、筆者は毎年2月になると大阪市立中学校高等学校連合会が公表する競争倍率をチェックし、PLは年々、募集定員を減らしながら、競争倍率も低下してきた。 いつしか両コースともに1クラスとなり、昨年度は国公立コースが15人の募集に3人の出願(いずれも併願)で、0.20倍。理文選修コースは80人の外部募集に対し、出願はわずか7人(専願3人、併願4人)で、競争倍率は0.09倍という状況だった。 そして、今年度は国公立コースが20人の外部募集に対し、受験者が1人でその倍率は0.05倍。この受験者は併願のため、もし本命校があってそちらに合格すれば、入学者はゼロとなる。 さらに、理文選修コースの競争倍率はなんと0.02倍だ。80人の外部募集に対し、先願・併願とも1人しかいない。野球部が活動を中止した2016年と比較しても、さらに生徒数を減らしていることは想像に難くない。 同校のOBで、学校に近しい関係者が話す。「野球部は、信者の子供以外の生徒を集めて強化されてきましたが、2014年秋に新入部員の募集停止となり、外部から入学してくる球児がいなくなった。最近では剣道部やバレーボール部も外部から選手を集められなくなり、PL学園の生徒のほぼすべてが信者の2世、3世となっています。1学年の生徒はだいたい20人弱ですね……」 母体となるPL教団では、3代教祖である御木貴日止氏が2020年12月に死去し、後継者が指名されずに「教祖不在」の状況が続き、3代教祖夫人である美智代氏が教祖代理のような立場で実権を握っているとされる。「美智代夫人の意向で、信者の子供以外の生徒を受け入れたくないという方針を学校はとっている。信者数が減少しているのだから、今後、劇的に入学希望者が増えることは考えられない。PL学園とPL教団はバトントワリングにも力を入れてきた歴史がありますが、バトン部も指導者が頻繁に替わるなど、活動が危ぶまれている。母校は、寺子屋のような学校になってしまった印象です」 宗教法人でありながら教祖不在の状況を続けるPL教団と、外部からの入学が期待できず、野球部の廃部に続き、剣道部やバレーボール部が苦境に置かれているPL学園。両者が向かう先は──。
2022.03.24 07:00
NEWSポストセブン
3冠王の期待もかかる村上宗隆(時事通信フォト)
岡本和真・村上宗隆のキャリアハイはいつ来る?歴代HR打者と比較
 この2年、セ・リーグでは激しい本塁打王争いが繰り広げられた。一昨年は巨人・岡本和真が31本とヤクルト・村上宗隆を3本差で振り切って初の栄冠を手にし、昨年は2人が39本でタイトルを分け合った。今年2人は40本を飛び越えて45本、さらには50本という大台も期待されている。昨年、岡本と村上はともに9月下旬に38号を放ったが、残り1か月で1本しか打てず、40の大台には達しなかった。プロ野球担当記者が話す。「当時と今では試合数が違うとはいえ、高卒新人最多の31本を打った清原和博(西武)、12年連続20本以上を放った原辰徳(巨人)も40という数字には届かずに現役生活を終えた。それくらいハードルが高いですし、日本人選手の50本以上は今まで5人しか記録していない。それでも、2人の順調な成長ぶりを見れば、ファンは胸が躍るでしょう」(以下同) 過去にシーズン45本以上の本塁打を放った日本人選手は14人いる。その中で、一軍で150打席以上立った年を1年目と計算した場合、何年目にキャリアハイを記録しているのか調べてみた。(以下、選手名(年)本塁打数、年数、所属球団の順)田淵幸一(1974年)45本 6年目 阪神村田修一(2008年)46本 6年目 横浜藤村富美男(1949年)46本 5年目(※)阪神西沢道夫(1950年)46本 4年目 中日松中信彦(2005年)46本 7年目 ソフトバンク中村紀洋(2001年)46本 8年目 近鉄山川穂高(2018年)47本 3年目 西武中村剛也(2009年、2011年)48本 5、7年目 西武掛布雅之(1979年)48本 6年目 阪神松井秀喜(2002年)50本 10年目 巨人小鶴誠(1950年)51本 7年目 松竹落合博満(1985年)52本 6年目 ロッテ野村克也(1963年)52本 8年目 南海王貞治(1964年)55本 6年目 巨人【※藤村はプロリーグ1年目の1936年から参加し、150打席以上立ったシーズンもあるが、1939年から1942年までは兵役のために試合に出場できなかったため、1944年から計算(太平洋戦争のため1945年は公式戦なし)】 実質3年目の山川、10年目の松井もいるが、6~7年目が最も多くなっている。実質4年目の村上、実質5年目の岡本はまだまだ伸びる可能性があるだろう。「1シーズンの過ごし方に慣れ、心技体が最も充実してくるのが6~7年目辺りなのかもしれません。昨年の岡本や村上のように若過ぎると、プレッシャーを感じてしまい、重圧を自分でコントロールできないこともある。しかし、中堅クラスになった時にその経験を活かせるし、6~7年目はまだ自分の伸び代を信じてがむしゃらに進める年齢です。 逆に、ベテランになると、過去の経験から自分がどれぐらい打てるか予測が立ってしまう場合もあり、安定した成績が残せる反面、キャリアハイまでは狙いにくくなる。だから、実績があって風格も出てきながらも、成長力を感じられる6~7年目に最高の本数を打つ選手が多いのかもしれません」 もっとも10年目以降にキャリアハイを記録したホームラン打者もいる。通算3位の567本塁打を放った門田博光(南海→オリックス→ダイエー)はアキレス腱断裂を挟んで、33歳の12年目に自己最多の44本を放ち、不惑の40歳で迎えた19年目のシーズンにも44本で本塁打王に輝いた。通算4位の536本塁打の山本浩二(広島)は31歳になる9年目に自己最多の44本を打ち、その年から5年連続40本以上をマークした。「過去の大打者を見ると、早熟タイプと大器晩成タイプがいると思います。6年目で48本を打った掛布雅之(阪神)は31歳の年に再三ケガに見舞われ、33歳で引退した。王貞治の868本を抜くとまで期待された清原和博(西武→巨人→オリックス)は5年目に自己最多の37本を打ち、200号までは最年少記録を更新したが、最後のシーズン30発以上は30歳のシーズンで、その後は印象に残る活躍はありましたが、ケガに泣いた。 若い頃から注目され、人気チームで働くと精神的な負担も大きい。20代前半から活躍している岡本や村上は今後、いかにケガをせずに過ごせるかもポイントになるでしょう」 歴代のホームラン記録を比較していくと、改めて王貞治の凄さが実感できるだろう。22歳で初めてホームラン王に輝いてから13年連続でキングを獲得し、巨人という人気チームで9年連続日本一のV9を達成。40発以上13年、45発以上10年、50発以上3年を記録し、37歳でも50本塁打を放っている。その間、欠場もほとんどなかったのだ。はたして岡本や村上はレジェンド級の選手になれるか。
2022.02.13 16:00
NEWSポストセブン
清原和博氏の長男は、慶応大学・野球部への入部を希望しているという(時事通信フォト)
新庄批判の清原和博氏、大物OBが続々新庄エールでますますピンチに
 かつての仲間たちは味方になってくれるかと思いきや、反応は冷たいものばかり──北海道日本ハムファイターズのビッグボスこと新庄剛志監督(49才)に対し、厳しい言葉を投げかけた清原和博氏(54才)だが、賛同の輪はまったく広がらず、孤立の色を深めている。 今オフの話題を独り占めしている新庄新監督。清原氏の発言は、新庄の就任会見を受けて飛び出したものだ。現役時代は派手なパフォーマンスで知られた新庄監督は、ワイン色のスーツにサングラス姿で就任会見に登場。これに清原氏が噛み付いた。「新庄が日本ハムの新監督に就任することが判明した時、清原は『何をしでかすか分からない男』『エンターテイメントという部分で本当のプロ魂を期待しています』と、好意的な見方を示していました。しかし11月17日にYouTubeで公開された動画では、『(会見を見て)ちょっとイラっとしました』と、態度を一変。『プロ野球のOBたちは、みんな嫌な気分になっているのは間違いない』『ジャージを着ている男(新庄のこと)なんかに負けないでください』と、苦言を呈しました」(ネットニュース編集者) 清原氏と新庄監督は学年にして4つ違いで、一時は巨人と阪神のユニフォームを着て対戦した間柄。発言は同世代への辛口のエールと見ることも出来たが、周囲の反応は冷ややかだった。「清原は2016年に薬物事件を起こし、球界からは一歩距離を置かれた身です。それに、清原は、現役時代にピアスを付けて試合に出場したり、引退後には上下白のスーツでキャンプに現れたりと、球界の暗黙のルールを破るような行動をしてきた。そんな彼が新庄に苦言を呈した時点で、『どの口が言う』との批判がありました。ファンからも賛同の声は少なく、ハッキリ“老害”と認定されたようなものです」(スポーツ紙記者) 清原氏は「プロ野球のOBたちは、みんな嫌な気分になっているのは間違いない」と語ったが、そのOBたちも嫌な気分になっているどころか、続々とエールを送っている。「突飛にも見えるパフォーマンスを繰り広げる新庄に対し、江夏豊や田淵幸一といった大物OBが温かい声を送ったほか、超辛口で知られる広岡達朗までもが、新庄の言動を好意的に捉えたコメントを残しており、清原の発言に同意するOBは見当たりません。今後、新庄フィーバーがさらに盛り上がれば、OB仲間から『勝手なことを言うな』と、批判の矢が清原に向けられる可能性さえあります」(フリーの野球ライター) 清原氏の野球界での活動に影響が出る可能性も指摘されている。「新庄新監督については、すでにワイドショーや女性誌までもが取り上げるようになっており、来年のプロ野球は間違いなく新庄を中心に回っていく。勝っても負けても話題を独占するのは目に見えています。そんな中、就任後にいきなり冷や水を浴びせた清原が、話題の輪から外されていく可能性もあります。新庄は今回の件について、今のところ静観を決め込んでいますが、新庄や日ハムサイドにも清原と絡むメリットはありませんから、清原が浮いた存在になる図が目に浮かびます」(前出・スポーツ紙記者) 新庄批判の代償は大きかったと言えそうだ。
2021.12.08 07:00
NEWSポストセブン
桑田真澄、清原和博
甲子園20勝の桑田真澄 球数は「週500球以内」の現行ルール内だった
 1年夏から甲子園制覇を果たし、5季連続出場、3年夏も深紅の大優勝旗を手にする──100回を超える歴史のある夏の高校野球において、1983~1985年のPL学園における桑田真澄と清原和博ほど鮮烈な印象を残したコンビはいない。 PL学園の1期生で、1962年に監督として同校を初めて甲子園出場に導いたあとは選手を勧誘する担当となった“伝説のスカウトマン”井元俊英、PL学園の名将・中村順司、リトルシニア時代から清原と対戦経験があり、のちにPL学園でチームメイトとなった今久留主成幸らが明かす「KK秘話」とは。ノンフィクションライターの柳川悠二氏がリポートする。(文中敬称略) * * * 2016年に休部となるまで、PLグラウンドのレフト後方には、屋内練習場が建っていた。 清原の打球はレフトのネットを越え、屋内練習場の屋根に頻繁に当たった。嘘か真か、そうしたド派手なパフォーマンスに機嫌を損ねる先輩がいたから、気兼ねした清原がライト打ちをマスターしたとも囁かれる。「飛んでいくんだから仕方ない。それも竹バットでオーバーフェンスするんですから。僕ら小物は、先輩の目を気にして、良い当たりをしたあとなんかは送りバントの練習に切り換えたりしていましたが、清原君はそんなことありませんでした」(今久留主) KKのふたりは1年夏の甲子園で夏春夏の3連覇がかかったあの池田と対戦し、桑田が投げるだけでなく、相手エース・水野(雄仁)から一発を放ち、勝利する。清原も決勝の横浜商戦でラッキーゾーンに第一号アーチを架けた。「清原には遠くへ飛ばす力と技術があった。その代は体が小さな選手が多かったから、チームのバランスを考えても清原は不可欠な存在でした」 中村はそう振り返る。 KKが2年生の秋、PL学園は秋季大阪大会準決勝で上宮と対戦する。同校の捕手は、大正中学時代の桑田とバッテリーを組んでいた西山秀二(元広島ほか)だ。現在、ラジオ日本で解説者を務める彼は、プロ時代も含めて、桑田ほど正確なコントロールの投手を知らないと語る。「桑田のボールを受けたことで、構えたところに放れるピッチャーが当たり前のように中学生の僕は思っていた。だから当時は、桑田がすごいとは思っていなかった。 でも、別の高校に入学すると、現実は違った。もっと言うと、僕がプロに入ってから、正確なコントロールで驚いた投手は(広島のエースだった)北別府学さんだけでした。つまり、桑田は中学生の時点で、プロのトップレベルと同じぐらいのコントロールを持っていたんです」キヨはバットを振ればいい 清原にとって大きな挫折は最上級生となって迎えた1985年のセンバツ、準決勝で伊野商業に敗れた試合だ。相手のエースはのちに西武で一緒になる渡辺智男。清原は3三振を喫した。その日の夜の屋内練習場では、清原が上半身裸で、体から湯気を出しながら剛速球を打ち込んでいる姿が幾人にも目撃されている。 この頃、井元は清原にアドバイスを送ったことがある。夏場の連戦に向け、清原の下半身に疲労が蓄積することを井元は危惧していた。ゆえに、足腰を鍛えておいたほうがいい。そんなつもりで清原に声をかけた。「桑田に頼んで一緒に走ったらどうだ?」 すると明くる日、清原から「断られました」という報告を受けた。井元は、桑田に理由を訊ねた。「どうも『僕のペースには絶対についてこられない。オレは走るから、キヨはその時間、バットを振ればいい』と伝えたらしいんです。以来、清原は全体練習終了後にグラウンドの外野フェンス沿いを素振りしながら何周もするようになった。その後は屋内でティバッティング。それが終わるタイミングに、ゴルフ場を走ってきた汗だくの桑田が帰って来るんです」 桑田は5回の甲子園出場で、学制改革後は最多となる通算20勝を挙げた。25試合に登板し、イニング数は197回と3分の2。防御率は1.55だ。 ただし球数は少なく、1985年のセンバツ準々決勝天理戦ではわずか82球で3安打完封した。今春から導入された「1週間に500球以内」という甲子園の球数制限に照らしても、桑田がそれに抵触するケースはなかった。中村が証言する。「当時の甲子園は、少なくとも準々決勝から3連投でした。桑田には『3連投に耐えられる体を作ろう』と話していた。桑田なりに考え、ノースローの時期を作ったりして、私もそれを容認しました。当時から『肩は消耗品』という認識を持って取り組んでいましたね」 1983年から1985年までは、元朝日放送アナウンサーの植草貞夫の言葉になぞらえるなら、「甲子園はKKのためにあった」だろう。 2001年にPL学園の暴力問題が発覚すると、井元はPLを追われ、その後、青森山田、そして現在は秋田のノースアジア大明桜で同様の役割を担っている。PL以外でもプロ選手を誕生させた。「PLに戻って野球部監督となったのが25歳の時。ちょうど60年。ようやってきたと思います」 甲子園に5季連続で出場した選手は、早稲田実業の荒木大輔(元ヤクルトほか)、最近だと智弁和歌山の黒川史陽(現楽天)など、過去に12人いるが、KKのようにふたり揃って抜群の実績を残したケースはない。「あれほどの才能が同じチームにそろって、4回も甲子園の決勝に進出する。そんなことは二度と起こらないでしょう」 伝説のスカウトマンは引退を考えているのだろうか。KKを回顧する言葉を受け、ふとそんなことが脳裏をよぎった。【プロフィール】柳川悠二(やながわ・ゆうじ)/ノンフィクションライター。1976年、宮崎県生まれ。法政大学在学中からスポーツ取材を開始し、主にスポーツ総合誌、週刊誌に寄稿。著書に『永遠のPL学園』(小学館文庫)。2016年、同作で第23回小学館ノンフィクション大賞を受賞。※週刊ポスト2021年8月20日号
2021.08.10 07:00
週刊ポスト
KKコンビは今も語り継がれる(写真/AFLO)
KKコンビをPLに導いた伝説のスカウトマン「努力の天才が2人いた」
 1年夏から甲子園制覇を果たし、5季連続出場、3年夏も深紅の大優勝旗を手にする──100回を超える歴史のある夏の高校野球において、1983~1985年のPL学園における桑田真澄と清原和博ほど鮮烈な印象を残したコンビはいない。ノンフィクションライターの柳川悠二氏が、PL学園の伝説のスカウトマンや最強世代の同級生が驚愕した「KK秘話」をいま明かす。(文中敬称略) * * * 85歳になる井元俊秀に指定されたのは、PL学園の最寄りとなる近鉄喜志駅から10分ほど歩く国道沿いの喫茶店だった。 伝説のスカウトマンとして、高校野球の世界で知る人ぞ知る井元との付き合いは6年になる。日焼けした肌は傘寿を過ぎているとは思えないほど若々しく、何より記憶力と、現場に通い詰める健脚ぶりにはいつも驚かされる。 ところがこの日は様子が違った。井元は杖をついて車から降りてきて、もともとの痩身がさらに痩せ細った印象を受けた。「あんたとも(中学硬式野球である)ボーイズの練習を見に行ったことがあったよね。子どもたちの練習なら、何時間だって眺めていられるんです。ところがコロナで大会が中止になり、練習も自粛となった。出かけることがめっきり少なくなり、足が衰えてしまった。さすがに年なのかなあ」 井元はPL学園の1期生で、1962年に監督として同校を初めて甲子園出場に導いたあとは、選手を勧誘する担当として、名将・中村順司と共に常勝軍団を築いた。もちろん、桑田真澄、清原和博のKKコンビも井元が入学に導いた。井元は言う。「5季連続で甲子園に出場して、桑田は20勝、清原は13本塁打を打った。あの時代、PLには努力の天才がふたりいた」 甲子園通算58勝、驚異の勝率8割5分3厘を残した元監督の中村は、桑田が大正中学2年生で、準硬式野球部に所属していた時に投球を目にする機会があった。その日は大阪大会の決勝で、相手中学のエースだった清水哲(のちにPLに進学)と投げ合った桑田は敗れている。「私は入学してくれた選手たちはフラットな目線で指導するのを信条としていた。特別な印象は覚えていません」(中村) 一方、井元が桑田をはじめて見たのは八尾フレンド(硬式)の練習に参加していた時だ。中学野球部を引退した桑田は、高校入学までの間、小学生時代に所属したチームで練習をしていた。「高校野球で活躍する投手は身長が174~175cmぐらいという持論が当時の私にはあった。PLでも体の大きかった尾花高夫や金石昭人などは、プロ野球の実績から考えると、高校時代は活躍できていません。現在のように大型の選手を成長させるトレーニングや医学的な知識がありませんでしたから」 その頃の桑田の身長は172cmぐらいだった。身長が伸びることを想定すれば、井元が理想とする体格といえた。「キャッチボールから違った。フォームが美しく、ボールに伸びがあった。ボールの回転もいい。すぐにご両親とお会いした。お父さんが社交的な人でね、息子のことをよく自慢しておった」 井元にとって清原との出逢いも忘れられない。泉大津の公園で練習していた岸和田シニア(硬式)を視察した時のことだ。広い公園の外野に、清原はとてつもない当たりを連発していた。当時は引っ張り専門のプルヒッターの印象だった。「学習院大学時代に、静岡県伊東市でキャンプを張っていた立教大の長嶋茂雄さんのバッティングを見たことがある。ミートしてから20mぐらいの打球の初速と角度に希有なホームラン打者の才能が詰まっていた。清原のバッティングを見て大学時代のチョーさんを思い出しました」入学前の“秘密合宿”で… 今久留主成幸は、自身が小中学時代に在籍した摂津リトルシニアと、清原の岸和田リトルシニアが大阪府の覇を争うライバル関係にあったこともあり、小学生の時から清原とは対戦経験があった。「関西では有名な選手で、体がとにかく大きかった。中学時代に神宮球場で対戦したこともあり、その時はセンターのフェンスを直撃する弾丸ライナーの二塁打を打たれたのが記憶にあります。清原君とは高校で一緒になるわけですが、その頃、関西で目立った選手はだいたいPLに入学しました」 1983年にPL学園の野球部に入部した31期生は27人(途中2人が退部して最終的には25人)。彼らが生まれた1967年は、丙午であることを忌避して出産を控える家庭が多かった前年の反動で、出生数が増加した。 寮のあるPLは、大阪府の私学連盟から「地方の子ども達を積極的に入学させてほしい」と依頼があり、野球部も地方出身者が多かった。ところが、この年は私学連盟から「生徒があふれることも考えられるため、大阪の子どもも入学させてほしい」と伝えられていた。そうしたいきさつがあり、大阪出身のKKも同時に入学。通常は一学年20人前後のPLにあって、27人が入部したのだ。 実は入学前の1月に、27人は鹿児島県の指宿に集められ、合宿が行なわれた。入学もしていない入部予定者だけでの合宿など当時も現在も許されていない。時代が黙認したのだろう。 今久留主は井元のこんな訓示から合宿がスタートしたことを覚えている。「春夏連覇できるメンバーを揃えたので、まず顔合わせをしたかった」 中学時代に所属したリーグごとに選手が固まる中、少数派である準硬式の桑田は寡黙な印象で、輪の中に積極的に加わろうとはしなかった。しかし、キャッチボールの相手を捕手の今久留主が務め、距離が40mほどに伸びた頃、桑田から「座ってほしい」と依頼された。「なんやこいつ偉そうに、って。そしたら地を這うようなボールがど真ん中に来た。ファーストインパクトにみんな驚いた」 PL学園から明治大、そして1989年のドラフトで大洋に入団した今久留主は西武を経て引退したのち、大洋でスカウトを務めた。その時、選手を見定める際の基準としたのが指宿合宿だったという。「桑田君のランニング時の蹴り足の強さ、清原君や田口(権一。KKと共に1年夏よりベンチ入りした投手)君の姿勢の良さや野球への取り組み方。もちろん、PLでは入学後、いろいろあって背中が丸くなっていくんですが(笑)、大成する選手の姿勢を見定めるうえで、あの時の原体験が判断の基準となっています」 KKはPL学園の入学前から伝説を残していた。 井元は桑田の入学を前に、社会人野球・神戸製鋼を率いて都市対抗を制した経験などがある清水一夫に、桑田への指導を依頼した。「今度、凄いピッチャーがPLに入学する。とにかく良い子で、特別な才能があると思うんです」 仕事が落ち着いていた時期で、二つ返事で了承した清水は、やはり桑田のキャッチボール姿を見ただけで、井元に伝えた。「この子は素晴らしい。将来が楽しみだ」 当初、3週間の指導の予定が、いつしか夏までに延びていた。桑田は清水との出逢いによって、カーブが曲がるようになったと証言している。【プロフィール】柳川悠二(やながわ・ゆうじ)/ノンフィクションライター。1976年、宮崎県生まれ。法政大学在学中からスポーツ取材を開始し、主にスポーツ総合誌、週刊誌に寄稿。著書に『永遠のPL学園』(小学館文庫)。2016年、同作で第23回小学館ノンフィクション大賞を受賞。※週刊ポスト2021年8月20日号
2021.08.09 07:00
週刊ポスト
新人時代の長嶋茂雄も清原和博も達成し得なかった快挙へ(佐藤輝明。時事通信フォト)
阪神・佐藤輝明に“史上初の快挙”の期待 新人のオールスター選出史
 阪神のルーキー・佐藤輝明が、オールスターのファン投票でも新たな伝説を作りそうな勢いだ。6月3日時点での中間発表で、セ・リーグ外野手部門の1位に立ち、得票数6万2269票は12球団トップとなっている。 阪神の新人野手では、今まで8人が球宴出場を果たしている。そのうち、ファン投票選出は7人になる。1969年の田淵幸一は、捕手部門で前年まで8年連続1位の巨人・森昌彦を破って選出。1972年は中村勝広が二塁手部門で巨人・土井正三を上回り、望月充が外野手部門1位で選ばれた。1980年には岡田彰布が二塁手部門でこの年ベストナインとダイヤモンドグラブ賞を獲得する大洋・基満男を抑え、1992年には久慈照嘉が遊撃手部門でヤクルト・池山隆寛をわずか4837票差で振り切った。2016年には高山俊が外野手部門3位、2019年には近本光司が外野手部門2位で晴れの舞台に立っている。「この中で、リーグベスト5の得票数は田淵と望月の2人だけです。阪神に限らず、1951年から始まった球宴で、新人が12球団最多得票になったことはありません。中間発表とはいえ、佐藤の数字は凄いことです」(野球担当記者) 新人のファン投票選出のハードルは高い。1950年代はセ・リーグ2人、パ・リーグ4人、1960年代はセパともに2人ずつ、1970年代はセパともに4人ずつ、1980年代はセパともに3人ずつしかいない。1970年に前年の甲子園でフィーバーを巻き起こした近鉄の太田幸司が前半戦1勝にもかかわらず、ファン投票で選ばれているが、あくまで例外だった。 過去の大物ルーキーを振り返ると、1952年の中西太や1953年の豊田泰光、1956年の稲尾和久という西鉄黄金時代を牽引した新人王を獲得した選手たちも、1年目は球宴出場していない。ファン投票で部門別ベスト3に入ったのも、豊田だけだった。 立教大学で東京六大学リーグのホームラン記録を塗り替えて巨人に入団した長嶋茂雄は1958年、三塁手1位の18万3399票で選出されている。ただ、得票数はリーグ2位、12球団で4位。阪神の田宮謙次郎が12球団1位の22万3678票。2位は西鉄の中西太、3位は南海の野村克也だった。 PL学園で甲子園に5度出場し、通算最多の13本塁打を放って西武に入団した1986年の清原和博は17万9160票を集め、2位のブーマー、3位の落合博満に大差を付けたが、得票数は近鉄の大石大二郎、西武の石毛宏典に次いで12球団3位だった。投手の大物ルーキーはどうだったのか。「総数が多いので、どうしても低めに出てしまいます。1990年の近鉄・野茂英雄はファン投票で選出されましたが、二塁手部門2位の辻発彦や三塁手部門2位の松永浩美よりも少ない16万9624票でした。1999年の西武・松坂大輔は60万2682票で選ばれましたが、リーグ5位。この年はオリックスのイチローが115万票を超えています。2007年の楽天・田中将大は57万978票で先発部門1位に選ばれていますが、中継ぎ、抑え部門の1位よりも得票数自体は少なかった」(同前) 6月、佐藤輝明の打棒がさらに爆発すれば、長嶋茂雄や清原和博も成し遂げられなかった新人の12球団最多得票でのオールスター選出という“史上初の快挙”も現実味を帯びてくるだろう。
2021.06.04 19:00
NEWSポストセブン
阪神の新星・佐藤輝明は新たな伝説を作れるか(時事通信フォト)
阪神の新星・佐藤は清原を超える?グラウンド外の敵を不安視する声も
 オープン戦で打率3割2厘、新人記録となる6ホーマーを放った阪神の新星・佐藤輝明(22)。今年、佐藤がどれほどの活躍を見せるのか、多くの野球ファンが固唾をのんで見守っている。 同じような興奮は、甲子園を沸かせた清原和博が快進撃を続けたルーキーイヤーの1986年とも重なる。あれから35年が経った今シーズン、佐藤は清原を超えるスーパースターとなれるだろうか。 マサカリ投法で通算215勝を挙げたロッテの村田兆治氏がふたりを比較する。「清原はルーキー時代からストライクとボールの見極めができて、甘いボールを右中間に飛ばせました。 佐藤も器用だから、フルスイングでも少しポイントをずらして逆方向にホームランが打てるし、速い球を引っ張ることもできる。低目は苦手としているが、高目はバットコントロールをしながら打てています。新人なのに往年の門田(博満)に近いレベルのバッターで、相当期待できる」 阪神OBの田尾安志氏は、清原以上の一発を期待する。「スイングを比べると、打率を残す力は清原が上回り、どのような状況でも遠くに飛ばす力は佐藤が上回る。清原はミートポイントが前方で、佐藤は体の近くまで引きつけて打つ違いもあります。佐藤は三振が多くなるかもしれないが、どんなときでもフルスイングを続けて、相手投手が嫌がるバッティングをしてほしいですね」 本塁打量産に期待が高まるが、西武OBの山崎裕之氏が不安視するのは「グラウンド外の敵」だ。「大卒で4年間の差がある分、線の細かった清原より体のできている佐藤には期待ができます。 ただし心配なのはグラウンド外です。人気球団の阪神の選手は誘惑が多い。これまで数多の素質ある選手が酒と女でダメになっていったので、球団にはしっかりガードしてもらいたい」 阪急の大エース・山田久志氏は、「阪神というチームの難しさ」を指摘する。「パ・リーグの人気が下火だった頃の西武とセ・リーグの阪神では、注目度が異なります。しかも阪神というチームは、調子がいいときは神様のように扱われますが、すこしでも調子が下がったら手の平返しで厳しく当たられる。 プロの野球に慣れるまでファンやマスコミには温かい目で見守ってほしいし、外野からの声を気にしない胆力が佐藤には必要となるでしょうね」 1986年の清原和博は新人として数々の記録を残しただけではなく、「ここで打ってほしい」というファンの願いを叶えて記憶にも残る男となった。 2021年の佐藤輝明は、新たなる伝説を作れるか。※週刊ポスト2021年4月9日号
2021.03.31 19:00
週刊ポスト
1986年の清原和博(時事通信フォト)
「1986年の清原和博」山田、村田ら名投手たちが体感したその凄さ
 阪神の新星・佐藤輝明(22)がどれほどの活躍を見せるのか、多くの野球ファンが固唾をのんで見守っている。同じような興奮は、35年前にもあった。そう、甲子園を沸かせた清原和博が快進撃を続けた1986年である。 甲子園通算13本塁打という、いまだ破られぬ記録を引っさげプロの世界に入った清原を取材しようと、西武の高知キャンプには報道陣が殺到。しかし、オープン戦ではプロの壁にぶちあたり、打率2割2分で本塁打はゼロに終わった。打率3割2厘で新人記録となる6ホーマーを放った佐藤とは対照的だった。「鳴り物入りでプロ入りした清原に、最初は温かかったファンも、『この三振王!』とヤジを飛ばした。苦しみぬいた清原の体重は5kg落ちたそうですが、土井正博バッティングコーチとマンツーマンで1日800スイングの猛練習をして開幕を迎えました」(スポーツ紙編集委員) シーズン開幕戦の南海戦(西武球場)はスタメン落ちし、2戦目に途中出場するも7回の第1打席は四球に終わった。 だが9回2死で迎えた第2打席にドラマが待っていた。藤本修二が投げた初球の内角ストレートを完璧にとらえると、打球は8mの逆風をものともせず、左中間の芝生席に飛び込んだ。打たれた藤本も「まさか、あの逆風で入るとは……」と言葉を失った。 この瞬間から、怪物・清原のプロでの伝説が始まった。 翌日の開幕3戦目も途中出場で2安打を放ち、レギュラーの座をもぎ取った。その後、プロの洗礼を受け打率が1割台に低迷しても、監督の森祇晶氏は頑として清原を一軍で起用し続けた。「清原が二軍なんてありえなかった」と森氏が当時の心境を明かす。「清原は他のルーキーとはまるでモノが違った。体も大きかったし、PLの中村順司監督に基本を叩きこまれていて、野球人として高校生離れしていました。 あとはプロの環境とスピードに慣れる期間が必要でしたが、あれだけの素質を持った選手なので、やはり高いレベルの一軍で育てていくべきだと考えた」 森監督の期待に清原は見事に応えた。GWを境に調子を上げ、7番ファーストに定着して打ちまくった。5月の月間打率は3割2分4厘を記録し、打順も6番、5番と昇格を続けた。 5月22日の阪急戦(西武球場)では、大エースの山田久志氏と対戦。当時、すでに260勝を積み上げていた山田氏がアンダースローから繰り出した渾身の一球を、清原は力強くバックスクリーンに叩き込んだ。「清原は『外角寄りのシンカーを打った』とコメントしました。山田さんの代名詞でもあり、“魔球”と呼ばれたシンカーを高卒ルーキーがホームランしたのかと、報道陣がざわめいた。 試合後に、記者たちに囲まれた山田さんが、『あれは真っすぐや。あれをシンカーと言うようじゃ、まだ本物とは言えないな』と反論した。コメントでも大ベテランをそこまでムキにさせた18歳に鳥肌が立ちました」(前出・スポーツ紙編集委員) 山田氏は清原の印象をこう語る。「彼は対戦するたびに進化していった。インコースの速い球が苦手という穴はあったけど、プロの投手のスピードや変化球への対応はものすごく早かった」 ファン投票で選出されたオールスター第2戦(7月20日・大阪球場)では、大洋のエース・遠藤一彦からホームランを放ち、最優秀選手に選ばれた。 プロ野球全盛の時代、並み居る花形選手を押しのけて大舞台で結果を残した清原を、誰もが時代のスターと認めることとなった。生意気だった 清原は9月には3番を任された。9月27日の近鉄戦では初回に28号を放ち、西鉄の豊田泰光が持つ高卒ルーキー記録を更新。8回にも本塁打を打って長嶋茂雄の1年目の29本塁打に並んだ。「4番、ファースト、清原」。10月7日のロッテ戦では、プロ入り初の4番を告げるアナウンスが川崎球場に鳴り響いた。「近鉄との熾烈なV争いが続く中、大役を任された清原は左翼席最上段に突き刺さる31号本塁打を放ち、大洋・桑田武の持つ新人最多本塁打記録に並びました。これで勢いのついた西武は2日後、129試合目にして近鉄を振り切り、2年連続のリーグ優勝を決めた」(前出・スポーツ紙編集委員) 10月10日、本拠地でのリーグ最終戦では、サヨナラ安打を含む5打数3安打の大暴れ。森監督は「こういう星の下に生まれてるんやな」と大絶賛した。 打率3割4厘、ホームラン31本、打点78という堂々たる成績はいずれも高卒の新人記録を更新し、19歳のルーキーが牽引したチームは日本シリーズで広島を破って日本一に輝いた。「当時の清原は生意気だったね」と目を細めて語るのは、マサカリ投法で通算215勝を挙げたロッテの村田兆治氏だ。「対戦した清原が、試合後に僕の球を『速くなかった』とコメントしたんです。むっとして次の対戦で胸元に3球ほど投げ込んでやったら、彼のお母さんから『息子が大変失礼なことを言いました』と電話がかかってきましたね(笑い)。 それからは、清原本人もバッターボックスに入るとき、甲子園球児のように帽子を脱いで僕に一礼するようになった。その姿が妙に可愛かったから、フォークを使わずに真っすぐで真剣勝負をするようになりました。息子ほど年の違う彼との対戦をいつも楽しみにしていたよ」※週刊ポスト2021年4月9日号
2021.03.30 19:00
週刊ポスト
巨人は2006年、球団史に残るロケットスタートを切るも、交流戦で13勝23敗と大失速
プロ野球「開幕ダッシュ」の歴史 優勝確率36.1%の険しい現実
 祝・プロ野球開幕! ロケットスタートを切っても、必ずしも優勝できるとは限らないのがペナントレース。平成以降の過去32年の3、4月の成績(※2020年は開幕が遅れたため、6、7月の成績)を調べると、勝率6割5分以上の開幕ダッシュに成功したチームは36例あった。だが、意外にも優勝は13例のみで、確率は3割6分1厘しかない。 稀に見る失速もあった。2006年、原辰徳監督が2度目の就任をした巨人は4月終了時に貯金12と見事な滑り出しを見せたが、最終的には球団史上初の2年連続Bクラスに終わった。貴重な左の中継ぎを務めていた前田幸長氏が話す。「交流戦になると、一度仕切り直しになるため、良い流れが寸断されました。ケガ人も続出し、特にチームリーダーの小久保裕紀の離脱が痛かったです」 交流戦のなかった年は19例中8チームが優勝していたが、交流戦が始まった2005年から2019年までは16例中5チームと開幕ダッシュの効力は薄れつつある。2008年、交流戦を2位で乗り切りながら、巨人に13ゲーム差を逆転され、阪神の監督を辞任した岡田彰布氏が勝ち切ることの難しさを語る。「独走すると『絶対優勝や』という雰囲気になるから、勝てなくなると辛いわな。終盤は食事が喉を通らず、あっさりしたものを無理矢理口に放り込んでいたわ。同じ2位でも、前半に独走しないでの2位なら監督を続けたんやないかな」 同年は新井貴浩がケガのまま北京五輪に出場し、状態が悪化。帰国後1か月近く欠場する不運も重なった。今年は東京五輪で約1か月の中断期間がある。「前半戦でどれだけ貯金を作れるか。そうしないと、中断期間の練習を楽しくできない。追い掛けるのはしんどい。そら、開幕ダッシュするに越したことはないよ」(前出・岡田氏) 開幕戦、交流戦、中断明けと“3度の開幕”がある2021年。異例のシーズンを勝ち抜くチームはどこか。●2008年 阪神「大差で独走した我が世の春」 7月8日の巨人戦で5対3と快勝し、宿敵・巨人に最大となる13ゲーム差を付ける。猛打賞の関本賢太郎、6勝目の岩田稔がお立ち台に↓「巨人に13ゲーム差を逆転され、岡田監督は辞任」(最終順位2位) 10月8日、巨人との同率首位決戦に惜敗。首位を明け渡して首をかしげる岡田彰布監督。●1993年 広島「エースの活躍で開幕6連勝」 北別府学は6度目の開幕戦勝利を皮切りに、月間4勝。チームは球団新記録の開幕6連勝で4月は勝率7割3分3厘と絶好調だった。↓「12連敗で最下位転落」(最終順位6位) 8月31日から9月15日まで、まさかの12連敗で3位から最下位に転落。その2日後、山本浩二監督は重い足取りで辞任会見に臨んだ。●2006年 巨人「球団史に残るロケットスタート」 35年ぶりの開幕4カード連続勝ち越し、23年ぶりの開幕20試合で15勝とハイペースで勝ち星を積み重ねる超ロケットスタートだったが……。↓「交流戦がアダに」(最終順位4位) 交流戦で13勝23敗と大失速。6月11日の対ロッテ戦では小関竜也のベース踏み忘れで李承燁のホームランが単打に。原監督の猛抗議も実らず●2017年 楽天「春先の貯金11を夏場過ぎて使い果たす」(最終順位3位) 7月まで首位も、夏場に失速。10連敗の9月3日、ソフトバンクのデスパイネにサヨナラヒットを浴び、エース則本昂大はしゃがみ込んだ。●2014年 オリックス「首位独走も2厘差で優勝逃す」(最終順位2位) 3、4月を19勝8敗で幸先良くスタート。ソフトバンクとデッドヒートを繰り広げたが、10月2日の直接対決に敗れ、2厘差で優勝を逃す。●1995年 西武「主砲の離脱で開幕ダッシュも水の泡」(最終順位3位) 6月13日のオリックス戦で清原和博が右肩脱臼。2日後の試合を最後にデストラーデが家庭の問題を理由に退団。主砲を失い、失速した。取材・文/岡野誠 写真/共同通信社※週刊ポスト2021年4月9日号
2021.03.30 11:00
週刊ポスト
佐藤輝明と清原和博
阪神ドラ1佐藤と新人時代の清原 「ふてぶてしさが似ている」との声
 いよいよプロ野球が開幕したが、すでに阪神ファンは優勝したかのようなお祭り騒ぎだ。熱い期待の中心にいるのは、ドラフト1位ルーキーの佐藤輝明(22)。オープン戦では打って打って打ちまくり、6本塁打でオープン戦初の新人本塁打王に輝いた。 スポーツ紙も「佐藤輝・新人史上初キング」(デイリースポーツ・3月22日付)と一面で報じるフィーバーぶり。往年の阪神の名二塁手で、元監督の安藤統男氏も興奮を隠せない。「佐藤はボールを遠くに飛ばす天性の能力を持っている。打撃に関しては何も言うことがない。シーズンが始まって一線級のピッチャーが出てくると最初は戸惑うかもしれないが、順応力が高いのでどんどん対応できるのではないか。今シーズンは、久しぶりに楽しく野球を見られそうな予感がしています」 すでにチームは佐藤を中心に回っている。阪神OBの田尾安志氏が言う。「追い込まれてもチョコンと当てにいくのではなく、フルスイングするのが佐藤の最大の魅力です。彼の影響で他の打者も『しっかり振り切ろう』と意識を持つようになった。今は外野を守ることが多いが、サードも守れるので内野陣もうかうかできない。 チーム内でレベルの高い競争が起きている阪神がペナント争いに加わることは間違いない。私の予想はズバリ優勝です」 ドラフト制度が始まって以降、新人時代に注目され、一軍で結果を残した打者はいくらでもいる。しかし、いきなり“球界の主役”に躍り出た選手はほとんどいない。 数少ない例外といえるのが、1986年、西武ライオンズにドラフト1位で入団した清原和博である。 清原はPL学園の4番バッターとして1985年に夏の甲子園を制覇。プロ野球史に残る「涙のドラフト会議」を経て、ルーキーイヤーを迎えた。 奇しくも1985年は、2リーグ制になってから阪神が初めて日本一に輝いた年でもある。清原のデビューから35年──清原と同じく関西出身の佐藤が、35年の時を経て、一大フィーバーを巻き起こしている。 右打者と左打者、高卒と大卒という違いはあれども、清原と佐藤には共通点が多い。往年の名選手が口を揃えるのは、独特の「存在感」だ。 新人時代の清原と対戦し、今年のオープン戦で佐藤のプレーを見た阪急の大エース・山田久志氏が指摘する。「35年前に対戦した清原は高校を卒業したばかりの選手には見えず、ふてぶてしくて堂々としていました。佐藤も雰囲気がよく似ています」※週刊ポスト2021年4月9日号
2021.03.29 16:00
週刊ポスト
車の前で話す清原和博氏
清原和博氏が息子たちと野球練習場に通う背景に“今のうちに”の思い
 2月初め、都内にある野球練習場で、清原和博氏(53)が晴れやかな笑顔を見せていた。傍らには高校3年と中学3年の2人の息子、そして元妻でモデルの亜希さん(51)の姿もあった──。 清原氏の2人の息子は同じ慶應義塾大学の付属校に通っており、長男は今春から大学に、次男は高校に進学する。「次男は少年野球チームの頃から注目された逸材で、2017年にはジャイアンツジュニアの4番として『NPB12球団ジュニアトーナメント』に出場。長男は高校ではアメフト部に所属していましたが野球の練習は続けていたようで、4月から大学の野球部に入部することが明らかになった。どちらも父親の“野球遺伝子”を受け継いでいるようです」(アマチュア野球関係者) そんな息子たちに、父が野球を教えたいと思うのは当然だろう。だが、この先も清原氏が指導を続けるのは難しい。「プロアマ規定では、元プロ野球選手は『学生野球資格』がなければ自分の子供でも高野連所属の野球部生徒、大学野球に所属している学生を指導することはできない。 清原氏は2月5日に学生野球資格を回復しましたが、『執行猶予期間経過後5年』を経てからでなければ、指導者になれないという規定がある。昨年6月に覚醒剤取締法違反の執行猶予が明けたものの、2025年6月までは学生への指導は認められないのです」(同前) 次男は中学生、長男は高校生でも野球部には所属していないため清原氏が教えても問題はないが、4月から2人が大学・高校の野球部に入った時点で清原氏は教えることができなくなる。「息子たちと一緒に足しげく野球練習場に通っているのも、“今のうちに”という思いがあるのでしょう」(同前)撮影/渡辺利博※週刊ポスト2021年2月26日・3月5日号
2021.02.18 11:00
週刊ポスト
マスク姿の清原氏
「清原監督でPL学園野球部復活を」 野球教室催すOBらに気運も
 2月初め、都内にある野球練習場で、清原和博氏(53)が晴れやかな笑顔を見せていた。傍らには高校3年と中学3年の2人の息子、そして元妻でモデルの亜希さん(51)の姿もあった──。 2月5日にプロ野球経験者が高校生・大学生を指導するために必要な「学生野球資格」を回復した清原氏。球界復帰に向けて着実に歩むとともに、私生活でも充実した日々を送っているようだ。 練習場には豪快な打撃音が響き渡っていた。中では清原氏が長男、次男にバッティング指導をしていたようだ。およそ2時間半にわたる練習を終えた後、先に出てきた清原氏は自分の車のトランクから白木のバットを2本取り出すと、亜希さんの車に届けた。息子たちへのプレゼントだろうか。 続けて出てきた息子たちを交え、4人は立ち止まるとしばし談笑。屈託のない笑顔で息子たちが清原氏に話しかけ、それを亜希さんが穏やかな笑みを浮かべて見守っていた。 その後、4人で向かったのは、新宿区内にある有名焼肉店だった。そこでも一家団欒のひとときを過ごしたようだ。焼肉店を出た後、清原氏は別の車で去って行く2人の息子と元妻を名残惜しそうな表情で見送っていた。 その2日後にも、同じ練習場で次男を教える清原氏と亜希さんの姿があった。練習後、3人は銀座にある高タンパク・低カロリーを謳うスポーツ選手向けのレストランへ。食事を終え店から出てくると、次男と亜希さんが車へ向かうのを見送る清原氏。2人が迷わないよう車の方向を指差して教える場面もあった。 息子たちに自分の野球のすべてを注入しようとしている清原氏。そんな元夫を、亜希さんも頼もしく思っているようだ。「亜希さんは清原氏の違法薬物使用疑惑が報じられた2014年に子供たちを連れて離婚しましたが、子供が野球のことで悩んだとき、アドバイスできるのは父親であり元プロ選手の清原氏しかいない。離婚後も清原姓を名乗ってきたのも、野球を通じた父と子の絆を大切にしたいという思いからではないか」(清原氏の知人) プロ野球界でも清原氏復帰に向け、支援の手が差し伸べられている。「清原氏は執行猶予期間が満了した時に『野球界、とくに私自身の原点でもある高校野球に捧げたい』とコメントした。“いずれは高校野球の指導者に”という思いを抱く清原氏のために、同じPL学園OBの立浪和義氏、宮本慎也氏、片岡篤史氏らが中心になって、野球教室などを催し、廃部になったPL学園を『清原監督』で復活させようという動きもあります」(スポーツ紙デスク) 清原氏に話を聞いたが、終始無言を貫き、マスクとサングラスで表情を窺うことはできなかった。野球とも元妻とも“復縁”は近いのかもしれない。撮影/渡辺利博※週刊ポスト2021年2月26日・3月5日号
2021.02.16 16:00
週刊ポスト

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