体調不良を押して本郷へ
ところが、偶然ながら蘆花がその主張を開陳する機会が別に訪れていた。おそらく、この嘆願書を書く直前のことだと思われるのだが、第一高等学校(通称「一高」。後の東京大学)の弁論部の学生が、たまたま講演の依頼にやって来たのである。大逆事件とは無関係な話で、高名な作家である蘆花にぜひ講演をお願いしたいということだった。だが、蘆花はそういう依頼はあまり受けない人物だったので、学生たちは依頼が空振りに終わると覚悟していた。
ところが通された部屋で火鉢を間に置いて打診すると、蘆花は二つ返事で引き受けた。このときの一高生で後に日本社会党委員長になる河上丈太郎は、意外な展開に驚きながらも話を先に進めた。
〈「それで先生、演題はどうしましょうか?」
「ウム」
ここで蘆花はしばし考え込んだ。ややあって、
「一高は不平を吐露するに、よいところだからな」
低く太い声で呟きながら、蘆花は火箸を取って灰をまぜ返しながら、何かを書いた。
河上らが火箸の先に目を落とすと、
「謀叛論」
灰の中の文字をそう読むと同時に、「謀叛論」という蘆花の低い声が二人の耳に響いた。河上らは一瞬、ドキッとした。「大逆事件」だ。ピンときた河上は全身が粟立つような戦慄と興奮をおぼえた。蘆花は、それ以上何も言わなかった。河上らも訊かなかった。講演日は二月一日とすんなり決まった。河上は四〇年後に『文藝春秋』五一年一〇月号でほぼこんなふうに緊張の瞬間を回想している。〉
(『大逆事件―死と生の群像』田中伸尚著 岩波書店刊)
蘆花はそれから、先の嘆願書を書いた。その後十二人がすべて死刑を執行されたとの報道に接し慟哭したが、気を取り直すと三日三晩にわたって講演の構想を練り草稿を書き、何度も推敲した。図らずも、この一高講演が政府の暴虐を遠慮無しに糾弾する最大の舞台となったのである。講演当日、蘆花は体調不良だったが、それを押して本郷に向かい午後三時から始めた。会場は千人を収容できる教室だったが、窓の外にも聴衆が詰めかけていた。いまも残されている草稿によれば、蘆花は次のような言葉で講演を始めた。
〈僕は武蔵野の片隅に住んでいる。東京へ出るたびに、青山方角へ往くとすれば、必ず世田ヶ谷を通る。僕の家から約一里程行くと、街道の南手に赤松のばらばらと生えたところが見える。これは豪徳寺──井伊掃部[頭]直弼の墓で名高い寺である。豪徳寺から少し行くと、谷の向うに杉や松の茂った丘が見える。吉田松陰の墓および松陰神社はその丘の上にある。井伊と吉田、五十年前には互に倶不戴天の仇敵で、安政の大獄に井伊が吉田の首を斬れば、桜田の雪を紅に染めて、井伊が浪士に殺される。斬りつ斬られつした両人も、死は一切の恩怨を消してしまって谷一重のさし向い、安らかに眠っている。今日の我らが人情の眼から見れば、松陰はもとより醇乎として醇なる志士の典型、井伊も幕末の重荷を背負って立った剛骨の快男児、朝に立ち野に分れて斬るの殺すのと騒いだ彼らも、五十年後の今日から歴史の背景に照らして見れば、畢竟今日の日本を造り出さんがために、反対の方向から相槌を打ったに過ぎぬ。〉
(『謀叛論』徳冨健次郎原著 中野好夫編 岩波書店刊 旧カナ、旧漢字一部改め)