吉田松陰一覧

【吉田松陰】に関するニュースを集めたページです。

主演を務める吉高は「平安時代という未知な世界を日々想像して、鮮やかな大河ドラマになったらうれしい」と抱負を語った
女性主人公は14作!柴咲コウ、井上真央、綾瀬はるか…大河ドラマ女優を振り返る
 7年ぶりに女性が主役の大河ドラマが帰ってくる! 2024年のNHK大河ドラマ『光る君へ』の主人公・紫式部に吉高由里子(33才)が決定した。1963年に始まったNHK大河ドラマの歴史の中で、女性を主人公にした作品はわずか14作。しかし、どれも印象深い作品ばかりだ。当時の写真とともにその歴史を振り返ろう。柴咲コウ(40才)『おんな城主 直虎』(2017年)無名だった主人公を魅力的に好演 女性が主役の大河で記憶に新しいのが、男の名で家督を継いだ井伊家の当主「直虎」。放送当時からツイッタートレンド大賞のドラマ部門で1位を獲得するなど、ファンの間で高い支持を集めた。井上真央(35才)『花燃ゆ』(2015年)“セクシー大河”の呼び声も高かった話題作 吉田松陰の妹・文の生涯が描かれた作品。井上は大河ドラマ初出演にして初主演。吉田松陰には伊勢谷友介、文の夫・久坂玄瑞は東出昌大、楫取素彦役を大沢たかおなど旬のイケメン俳優が勢ぞろい。綾瀬はるか(37才)『八重の桜』(2013年)「幕末のジャンヌ・ダルク」は復興にも尽力「女は女らしく」という周りからの期待に反し、動乱の時代に自ら銃を手に戦った新島八重をかっこよく熱演。舞台となった福島県会津市は“八重効果”で観光客数が伸び、東日本大震災の復興に一役買った作品に。綾瀬は現在も会津市と交流を続けている。上野樹里(36才)『江〜姫たちの戦国〜』(2011年)大河ドラマ50作目は“日本史上最も有名”な三姉妹の物語 浅井長政と織田信長の妹・市との間に生まれた浅井三姉妹と英雄たちの愛の物語。『のだめカンタービレ』(フジテレビ系)のイメージが強いなか、本作の好演で女優としての地位を不動のものにした。宮崎あおい(36才)『篤姫』(2008年)知名度No.1! 篤姫ブームを巻き起こした人気作 大河ドラマ史上最年少の当時22才で主演に抜擢。時代に翻弄されながらも自らの運命を前向きにとらえて生きる、芯の強い女性像を見事に演じた。仲間由紀恵(42才)『功名が辻』(2006年)圧倒的な存在感で内助の功を演じ話題に 司馬遼太郎原作で、初代土佐藩主となった山内一豊の妻・千代役を当時26才の仲間が抜擢された。天性の明るさと優れた政治観を兼ね備えた内助の功を演じきった。松嶋菜々子(48才)『利家とまつ〜加賀百万石物語〜』(2002年)「私にお任せくださりませ」のせりふは流行語に! 朝ドラヒロインも経験している松嶋と唐沢寿明のダブル主演作。朝ドラクランクアップ時の記者会見で「今後の目標は大河ドラマに出ること」と答えたのが現実のものになった。三田佳子(80才)『花の乱』(1994年)大河ドラマ2作品の主役を経験 当時大河ドラマで初めて応仁の乱を取り上げたのが本作。希代の悪女と評された足利義政の妻・日野富子を熱演した。大原麗子さん(享年62)『春日局』(1989年)大河ドラマ歴代3位の高視聴率を記録 最高視聴率32.4%を記録した人気作。大原は「ギラン・バレー症候群」の病を克服した後の大河ドラマ出演で、母性愛にあふれたおふく(春日局)を演じきった。三田佳子『いのち』(1986年)ヘアスタイルにも注目された理想の女性像 橋田壽賀子さんのオリジナル脚本。終戦から40年間の日本の歩みを背景に、女医・岩田未希の姿をしなやかに演じ、理想的な女性として称された。松坂慶子(69才)『春の波涛』(1985年)日本初の女優“マダム貞奴”を華麗に魅せる 主人公は海外でも活躍した日本の女優第1号の川上貞奴。フランス・パリでもロケが行われるスケールの大きさや、和装から洋装への衣装変化など時代の流れが見て取れる作品とあって当時話題を呼んだ。佐久間良子(83才)『おんな太閤記』(1981年)女性視点で描いた戦国時代劇 豊臣秀吉(西田敏行)を支えた正室・ねねを佐久間が頼もしく演じ高視聴率を記録。秀吉がねねを呼ぶ「おかか」は、当時流行語にもなった。岩下志麻(81才)『草燃える』(1979年)“昭和の北条政子”といえばこの人! 波瀾万丈な生涯を送った北条政子役を務め、苛烈な役どころを演じきり視聴者に強烈な印象を与えた。当時、初めて大河ドラマの中で現代語が使用され反響を呼んだ。岡田茉莉子(89才)、藤村志保(83才)、栗原小巻(77才)『三姉妹』(1967年)大河ドラマ5作目で早くも女性が主役 幕末の動乱から明治維新までを舞台にした物語を、明治100年を迎えた年に放送。歴史上の英雄ではなく、無名の人物を主人公にした画期的なドラマとして関心の高い作品となった。撮影/女性セブン写真部※女性セブン2022年6月30日号
2022.06.19 16:00
女性セブン
近代化政策を進めた幕臣・小栗忠順の銅像(神奈川県横須賀市)
「突出した人材」を生み出す教育とは 大前研一氏は「幕末に学ぶべき」と指摘
 21世紀の“答えのない時代”にも自分で答えを見いだせる優秀な人材を育む北欧型教育や、グローバルに活躍するリーダーを輩出しているリベラルアーツ教育に比べて、日本における教育システムは“周回遅れ”の印象すら受ける。しかし、そうかといって日本人の能力が劣っているわけではない。今も世界を舞台に活躍している日本人は数多くいる。彼らはどのような教育を受けてきたのか──。世界的経営コンサルタントとして知られる大前研一氏が解説する。 * * * これまで私は著書や連載などで、日本の教育の欠点や課題について論じてきました。では、日本人は世界で活躍できる人材がいないのかと言えば、決してそんなことはありません。文部科学省の学習指導要領の“外”で育った日本人には、綺羅星の如く、才能にあふれた人たちがいます。図表1にまとめたので、そちらをご覧ください。 日本人というのは、文科省の影響が及ばない分野では、こんなふうに世界で活躍できているのですが、これらはすべて目標や理想とするものが「見える化」できています。何を目指すかが明確であれば、そこに向かって努力を重ねることができる。それで、子供の頃から才能を見いだされて“本場”に渡り、世界のトップクラスの選手と競争しながら、専属コーチの指導のもとで学ぶことで、才能が花開きます。 このような理想の人材育成が、これからの教育に求められていると思います。 もう1つ、日本人の人材育成という点で大いに参考になることがあります。それは、近刊『経済参謀 日本人の給料を上げる最後の処方箋』でも取り上げている、日本の歴史、先人たちの教育への取り組みです。明治維新後の日本を支えた人材 歴史をひもといてみると、日本というのは時代の代わり目にすごいことをやっています。明治維新です。これによって日本は、封建制の国から近代国家へと一気に生まれ変わりました。こうしたドラスティックな体制転換を日本が実現できたのはなぜなのかということを、私は長年の研究テーマにしています。 そこで注目すべきなのが、1860年代にアメリカに派遣された「万延元年遣米使節団」です(図表2参照)。 これは、安政7年(1860年/3月に万延に改元)に、日米修好通商条約の批准書交換のため遣米使節団が派遣されることになりました。ただし、日本の船では危ないというので、アメリカが軍艦ポーハタン号を提供してくれたそうです。その使節団の正使、つまり批准書を持っていくのは、当時39歳の新見正興(しんみまさおき)、副使は48歳の村垣範正(むらがきのりまさ)でした。その下に監察という役職をもつ34歳の小栗忠順(おぐりただまさ)がいました。 小栗忠順は、私が知る限り、近代日本の歴史の中で最も頭の良い人物です。彼は若くして外国奉行をやっています。これは今で言うところの外務大臣です。それから、勘定奉行、すなわち江戸幕府の中の大蔵大臣もやりましたし、江戸の警察・消防・司法などを束ねる町奉行や、陸軍奉行、軍艦奉行なども務めていました。まさに八面六臂(はちめんろっぴ)の活躍です。 そうした重職につく以前、小栗はこの遣米使節団の中では通商交渉をやっています。それは、フィラデルフィアの造幣局に行って、アメリカのドルと日本の円の為替レートを見直す際の交渉でした。それまでは、アメリカが一方的に1ドルも日本の1両も同じ金貨だから、その重さで換算していましたが、小栗忠順は日本の金のほうが純度が高いのだから、それによって交換レートも補正しなくてはいけないと主張したのです。 この主張については、アメリカ側も認めたのですが、補正の計算方法がわからない。すると小栗は和算を使って、彼らの見ている前でその補正値をパチパチと弾き出しました。アメリカ側がその計算の正しさを確認するまで何日もかかったといいます。この小栗の明晰さとタフ・ネゴシエイターぶりはニューヨークタイムズでも絶賛されました。 それで、使節団がニューヨーク入りした時には、ちょんまげに刀を差しているというので、街中あげて紙吹雪で歓迎されています。私は個人的に小栗という人物を敬愛しているので、横須賀にある小栗の銅像をしばしば訪ねています。 さらに、この使節団には、護衛艦として咸臨丸(かんりんまる)という船が一緒について行っています。司令官は軍艦奉行の木村喜毅(きむらよしたけ)31歳。艦長は38歳の勝麟太郎(かつりんたろう)、すなわち勝海舟(かいしゅう)です。それから唯一、英語の通訳ができた34歳のジョン万次郎もいました。さらにこの船には、27歳の福沢諭吉が乗っていました。福沢諭吉はその後もヨーロッパやアメリカに派遣されていますが、この万延元年の渡米が最新の「西洋事情」を学ぶ最初の機会でした。 この使節団の200人近い人間を選んだ責任者は、大老の井伊直弼(いいなおすけ)です。井伊は「安政の大獄」で多数の大名・志士などを弾圧し、さらに遣米使節団が出発した直後の「桜田門外の変」で暗殺されたため、日本史の授業では悪いイメージで語られがちです。しかし、実際は鎖国政策には限界があるとして、開国した後の日本を背負って立つような人材を集めて、欧米で学ばせるべきだと考えていた人物です。その意味では、井伊直弼は以後の日本のために非常に大きな功績を果たしたと言えます。 結局、日本が明治維新後に、欧米に追いつき追い越せということで瞬く間に近代化することができたのは、これらの使節団を通じて優秀な若者たちが“本場”に渡り、目標を「見える化」してモチベーションを高めていけたからです。こうなると、日本人は能力を発揮するわけです。人材輩出する「私塾」の必要性 さらに、江戸時代の後期から幕末にかけて、各地方で私塾や藩校での教育が盛んになっていったことも、近代日本の人材育成という意味では非常に重要です(図表3参照)。 たとえば、九州豊後の日田にあった広瀬淡窓(ひろせたんそう)の咸宜園(かんぎえん)。ここは漢学を教える私塾で大村益次郎(おおむらますじろう)などが育っています。大村益次郎というのは、明治政府で最初に近代陸軍の基礎をつくった人物(兵部大輔〈ひょうぶたゆう〉=陸軍次官)です。靖国神社の入り口のところにその功績を称えて大きな銅像が建っていますが、咸宜園の後に大坂の緒方洪庵(おがたこうあん)の適塾で蘭学を学び、医学や兵学を修めて塾頭になったほどの秀才です。 その適塾では、先述した福沢諭吉も門下となり、やはり後に塾頭を務めました。 また、長崎の鳴滝塾(なるたきじゅく)はシーボルトが開いた私塾で、蘭学や医学を教えていました。 そして有名な松下村塾も長州・萩にありました。吉田松陰のもとで、高杉晋作や久坂玄瑞(くさかげんずい)、明治政府の重職を担った伊藤博文、山県有朋(やまがたありとも)といった門下生が学んでいます。 これらは私塾ですから、もちろん学習指導要領のようなものはなく、広瀬淡窓、緒方洪庵、シーボルト、吉田松陰といった塾主・塾長の個性と独自の個別指導があり、それをぜひ学びたいという高い志をもった門下生たちが自発的に集まっていました。その結果、明治維新で近代日本をつくり上げた優秀な人材が、私塾から次々と輩出されていったのです。 21世紀に求められているのも、こうした「突出した個人」を生み出していくような教育です。繰り返しになりますが、それは学習指導要領や一条校(学校教育法第一条で規定)のような旧態依然とした教育制度とは対極にあるものです。※大前研一『経済参謀 日本人の給料を上げる最後の処方箋』(小学館)より一部抜粋・再構成
2022.05.28 16:00
NEWSポストセブン
作家の井沢元彦氏による『逆説の日本史』(イメージ)
【逆説の日本史】「大逆事件」に際して政府の暴虐を遠慮無く糾弾した徳冨蘆花の勇気
 ウソと誤解に満ちた「通説」を正す、作家の井沢元彦氏による週刊ポスト連載『逆説の日本史』。近現代編第九話「大日本帝国の確立III」、「国際連盟への道 その9」をお届けする(第1342回)。 * * * 日本国中があげて幸徳秋水「一味」を厳しく糾弾するなかで、唯一人敢然と立ち上がり彼らを弁護した蘆花・徳冨健次郎とはいかなる人物か? 本業は小説家である。一八六八年(明治元)、肥後国水俣(現、熊本県水俣市)で生まれた。徳富家は地元郷士の家柄で、五歳年上の兄に明治を代表するジャーナリストにして歴史家、『國民新聞』の創刊者にして『近世日本国民史』の著者である、蘇峰・徳富猪一郎がいた。蘆花は優秀な兄蘇峰に「『負け犬』意識があり、徳富の富を兄とは異なる『冨』の字で生涯通した」(『朝日日本歴史人物事典』)という。「蘆花」は「アシの花(穂)」で「見栄えのしない花」という意味だが、これも兄蘇峰(故郷熊本が世界に誇る名峰阿蘇山にちなむ)へのコンプレックスというか、対抗意識に由来するのだろう。その兄の影響で洗礼を受けてキリスト教徒になり、京都の同志社で学んだ。この間、NHK大河ドラマ『八重の桜』の主人公、新島八重の兄、山本覚馬の娘、久栄と恋仲になったが、周囲の反対で別れを余儀無くされた。蘆花の作品『黒い眼と茶色の目』は、この間の事情を小説にしたものである。 この挫折を蘆花は、ロシアの文豪レフ・トルストイの作品に傾倒することによって乗り越えたようだ。兄蘇峰も弟蘆花も、ロシアに渡航しトルストイ本人に会っている。蘇峰は有名人に会ってみたという程度だったが、蘆花は数日間滞在し大きな影響を受けた。そして、帰国後は東京郊外多摩郡千歳村粕谷(現、東京都世田谷区粕谷1丁目)に転居し、当時は武蔵野の面影を深く残していた自宅周辺を「恒春園」と命名し、トルストイを見習った晴耕雨読の生活を送った。 現在は旧宅が寄贈され周辺が「蘆花恒春園」と呼ばれ蘆花記念館も併設され、一帯が芦花公園になっている。ちなみに、どうでもいい話だが筆者はこのすぐ近くにある東京都立芦花高校の出身ということに「なっている」。「なっている」というのは、たしかにこの場所にある高校に筆者は三年間通学したのだが、当時は東京都立千歳高校といった。のちに少子化による高校統廃合で芦花高校に改名されたのである。不思議な縁と言うべきか。 小説家としての蘆花の最大のヒット作は、『不如帰』であろう。『國民新聞』に連載された後に出版され、大ベストセラーになった。結核(当時は不治の病)に冒された美貌の女性、片岡浪子が主人公の悲劇で、「千年も万年も生きたいわ」の名ゼリフが一世を風靡した。ただ、この小説のなかで主人公の義母(父親の後妻)のモデルと目されたのが西郷隆盛のイトコ大山巌の夫人、捨松(旧姓山川)であり、きわめて意地の悪い女として描写されているのだが、それは一種の「文化的誤解」であり、実際の捨松はそんな人間では無かったことはすでに述べたとおりだ。 さて、この『不如帰』がベストセラーとなったのは一九〇〇年(明治33)、トルストイに会ったのが一九〇六年(明治39)で、それから四年後の一九一〇年(明治43)に大逆事件は「起こった」。六月に入って幸徳秋水ら二十六人が検挙され、非公開一審のみのスピード裁判で翌一九一一年(明治44)一月十八日には二十四人に死刑が宣告された。ところが、翌十九日にはその半数の十二人に対し天皇の名で減刑するという措置が発表された。「命だけは助けてやる」ということだ。 実際にはこの件について天皇は一切関知しておらず、事件のでっち上げを推進した桂太郎首相一味が仕組んでいた一種の「八百長」であった。はじめから多めに死刑を宣告し、半分を助けることで「寛大さ」を演出しようとしたのである。もちろん、蘆花はそんなことは知らない。 彼は矛盾するようだが、明治の人間として天皇の熱烈な信奉者であった。この点が幸徳とはまったく違うところで、むしろ反目していた兄蘇峰との共通点はここだけだったかもしれない。それゆえ、蘆花は天皇の恩情にすがって幸徳らの助命を嘆願することを決意し、桂太郎首相に手紙を書き疎遠にしていた兄蘇峰に仲介を頼んだ。兄蘇峰は日清戦争後ロシアが中心となった三国干渉以来、明治政府の方針を支持し、桂とも親しくしていたからだ。これが非戦論そして平和主義を信じる蘆花との決定的な決別の原因となったのだが、このときは助命が第一であり兄のコネも利用すべきだと考えたのだろう。 念のためだが、蘇峰は日露戦争後のポーツマス条約の締結にあたっては、日本中のマスコミが反対を唱えるなか『國民新聞』で敢然と締結に賛成し、そのために日比谷焼打事件で暴徒に襲われたことは、あらためて思い出していただきたい。要するに「言うべきことは言う」信念のあるジャーナリストでもあるのだ。 しかし、このときは梨のつぶてだったらしい。焦った蘆花は、死刑を阻止せんと朝日新聞社主筆の一面識も無い池辺三山に天皇宛ての助命嘆願書を郵送した。それは次のような書き出しで始まる。〈天皇陛下に願ひ奉る 乍畏奉申上候。 今度幸徳伝次郎等二十四名の者共不届千万なる事仕出し、御思召の程も奉恐入候。然るを天恩如海十二名の者共に死減一等の恩命を垂れさせられ、誠に無勿体儀に奉存候。御恩に狃れ甘へ申す様に候得共、此上の御願には何卒元兇と目せらるゝ幸徳等十二名の者共をも御垂憐あらせられ、他の十二名同様に御恩典の御沙汰被為下度伏して奉希上候。 彼等も亦陛下の赤子、元来火を放ち人を殺すただの賊徒には無之、平素世の為人の為にと心がけ居候者共にて、此度の不心得も一は有司共が忠義立のあまり彼等を窘め過ぎ候より彼等もヤケに相成候意味も有之、大御親の御仁慈の程も思ひ知らせず、親殺しの企したる鬼子として打殺し候は如何にも残念に奉存候。何卒彼等に今一度静に反省改悟の機会を御与へ遊ばされ度切に奉祈候。(以下略)〉(『謀叛論』徳冨健次郎原著 中野好夫編 岩波書店刊 旧カナ、旧漢字一部改め)【大意】〈天皇陛下にお願い申し上げます。 畏れながら申し上げます。 このたび幸徳伝次郎ら二十四名がとんでもない罪を犯し、さぞかしご不快に思われていると思います。それにもかかわらず海の如く寛大な御心にて、そのうち十二名に死刑を免ぜられたことは大変すばらしいことだと考えております。この寛大な御心にさらに甘えることになるかと存じますが、この上にさらに何卒主犯と目せられる幸徳ら十二名の者どもにも減刑をお願いできないものでしょうか。 彼らもまた陛下の赤子であることには変わりありませんし、火を放ち人を殺すようなただの凶悪犯とは違います。むしろ平素世のため人のためを心がけていることには間違いなく、今回のことも一部の役人が陛下への忠義立てをしようとするあまり、彼らをいじめ過ぎその結果彼らも自暴自棄になった部分があるかと存じます。このまま天皇の深い御心を知らしめることなく、「親殺しの企てをした単なる凶悪犯」として死刑にしてしまうのは、いかにも残念と存じます。何卒彼らに深いお慈悲をもって、おのが罪を静かに反省し悔い改める機会をお与えいただくことを切に念ずるものであります。〉 言うまでも無く、幸徳は「元兇」(主犯)でも共犯でも無く、大逆罪については完全な無罪である。しかし、情報統制の結果により蘆花は(すべての国民も)真実を知らされていない。逆に言えば、蘆花はこれを冤罪事件だから批判しているのでは無い。「幸徳は極悪人」と認めた上で、それでも死刑に処すべきでは無いと言っているのである。これが大変な勇気を必要とする行為であることは、おわかりいただけるだろう。 だが、この嘆願書は結局間に合わなかった。当局が死刑判決わずか六日後の一月二十四日(管野スガは翌二十五日)に、十二人全員を処刑してしまったからである。この嘆願書は朝日の紙面を飾ることは無く、空しく送り返されてきた。いまと違ってSNSなどは無い。ツイッターでつぶやいて多くの人に知らしめるなどということはできないのである。体調不良を押して本郷へ ところが、偶然ながら蘆花がその主張を開陳する機会が別に訪れていた。おそらく、この嘆願書を書く直前のことだと思われるのだが、第一高等学校(通称「一高」。後の東京大学)の弁論部の学生が、たまたま講演の依頼にやって来たのである。大逆事件とは無関係な話で、高名な作家である蘆花にぜひ講演をお願いしたいということだった。だが、蘆花はそういう依頼はあまり受けない人物だったので、学生たちは依頼が空振りに終わると覚悟していた。 ところが通された部屋で火鉢を間に置いて打診すると、蘆花は二つ返事で引き受けた。このときの一高生で後に日本社会党委員長になる河上丈太郎は、意外な展開に驚きながらも話を先に進めた。〈「それで先生、演題はどうしましょうか?」「ウム」 ここで蘆花はしばし考え込んだ。ややあって、「一高は不平を吐露するに、よいところだからな」 低く太い声で呟きながら、蘆花は火箸を取って灰をまぜ返しながら、何かを書いた。 河上らが火箸の先に目を落とすと、「謀叛論」 灰の中の文字をそう読むと同時に、「謀叛論」という蘆花の低い声が二人の耳に響いた。河上らは一瞬、ドキッとした。「大逆事件」だ。ピンときた河上は全身が粟立つような戦慄と興奮をおぼえた。蘆花は、それ以上何も言わなかった。河上らも訊かなかった。講演日は二月一日とすんなり決まった。河上は四〇年後に『文藝春秋』五一年一〇月号でほぼこんなふうに緊張の瞬間を回想している。〉(『大逆事件―死と生の群像』田中伸尚著 岩波書店刊) 蘆花はそれから、先の嘆願書を書いた。その後十二人がすべて死刑を執行されたとの報道に接し慟哭したが、気を取り直すと三日三晩にわたって講演の構想を練り草稿を書き、何度も推敲した。図らずも、この一高講演が政府の暴虐を遠慮無しに糾弾する最大の舞台となったのである。講演当日、蘆花は体調不良だったが、それを押して本郷に向かい午後三時から始めた。会場は千人を収容できる教室だったが、窓の外にも聴衆が詰めかけていた。いまも残されている草稿によれば、蘆花は次のような言葉で講演を始めた。〈僕は武蔵野の片隅に住んでいる。東京へ出るたびに、青山方角へ往くとすれば、必ず世田ヶ谷を通る。僕の家から約一里程行くと、街道の南手に赤松のばらばらと生えたところが見える。これは豪徳寺──井伊掃部[頭]直弼の墓で名高い寺である。豪徳寺から少し行くと、谷の向うに杉や松の茂った丘が見える。吉田松陰の墓および松陰神社はその丘の上にある。井伊と吉田、五十年前には互に倶不戴天の仇敵で、安政の大獄に井伊が吉田の首を斬れば、桜田の雪を紅に染めて、井伊が浪士に殺される。斬りつ斬られつした両人も、死は一切の恩怨を消してしまって谷一重のさし向い、安らかに眠っている。今日の我らが人情の眼から見れば、松陰はもとより醇乎として醇なる志士の典型、井伊も幕末の重荷を背負って立った剛骨の快男児、朝に立ち野に分れて斬るの殺すのと騒いだ彼らも、五十年後の今日から歴史の背景に照らして見れば、畢竟今日の日本を造り出さんがために、反対の方向から相槌を打ったに過ぎぬ。〉(『謀叛論』徳冨健次郎原著 中野好夫編 岩波書店刊 旧カナ、旧漢字一部改め) まったく同時期に書かれた文章でも、文語体と違って話し言葉はじつにわかりやすい。現代語訳する必要も無いだろう。そして蘆花は、「今日の世界はある意味において五六十年前の徳川の日本」であり、対立を超えて「人類が一にならんとする傾向」があると将来の理想を説く。しかし、そのためには「新式の吉田松陰」、つまり理想の為に犠牲となるかもしれない新たな志士が出て来るに違い無いと考えていたと前置きを述べ、いよいよ本題に入る。〈思いがけなく今明治四十四年の劈頭において、我々は早くもここに十二名の謀反人を殺すこととなった。ただ一週間前の事である。諸君、僕は幸徳君らと多少立場を異にする者である。僕は臆病で、血を流すのが嫌いである。幸徳君らに尽く真剣に大逆を行る意志があったか、なかったか、僕は知らぬ。〉(引用前掲書) そう述べながらも蘆花はこの後、幸徳をおおいに弁護するのである。(第1343回につづく)※週刊ポスト2022年6月3日号
2022.05.26 11:00
週刊ポスト
親子ワーケーションで旅も働き方も自由に! 子どもの成長にも変化 私のクラシゴト改革3
親子ワーケーションで旅も働き方も自由に! 子どもの成長にも変化 私のクラシゴト改革3
いま注目を集めている、働きながら旅をする「ワーケーション(ワーク+バケーションの造語)」。それを子ども連れで実践している、フリー編集者の児玉真悠子さんにお話を伺った。子どもたちの思わぬ反応もあったようで・・・・・・。連載名:私のクラシゴト改革テレワークや副業の普及など働き方の変化により、「暮らし」や「働き方(仕事)」を柔軟に変え、より豊かな生き方を選ぶ人が増えています。職場へのアクセスの良さではなく趣味や社会活動など、自分のやりたいことにあわせて住む場所や仕事を選んだり、時間の使い方を変えたりなど、無理せず自分らしい選択。今私たちはそれを「クラシゴト改革」と名付けました。この連載では、クラシゴト改革の実践者をご紹介します。仕事をしながら暮らすように旅ができる。山口県萩の10日間とにかく旅好きな児玉さん。しかし出産、育児でなかなか旅行ができない状態が続き、もやもやしていたそう。「そもそも、夫と長期休暇が合わず、子ども2人を連れての家族旅行は、スケジュール調整だけでひと苦労。結局、PCを持ち込んで旅先で仕事をしていました」そんな時、山口県の萩市から、所属する一般社団法人プロフェッショナル&パラレルキャリア・フリーランス協会宛に、“ワーケーションを自ら実践してパンフレットをつくってほしい”という依頼が。“子連れなら行けます”と返答したのが、親子ワーケーションを意識した最初だった。そして昨年の夏に、当時小5の息子と小1の娘を連れ、山口県萩市で10日間過ごすワーケーションの旅に。日中は子どもと遊び、早朝や夜は集中的に仕事。4日目で夫が合流すると、子どもの見守りを分担した。「とにかく予定を詰め込みがちな通常の旅行と違い、腰を落ち着けてその土地で生活する楽しさがありました。萩市は吉田松陰や高杉晋作など明治維新の立役者の生家が徒歩圏内なんです。感動しましたね。場所の力に刺激を受け、夫と今後についてゆっくり話し合う時間もありました。ああ、こういう過ごし方もありなんだと発見でした」ただし、正直、子どもが同じ場にいながらの仕事は困難も。外に連れ出す際は、私も同行しなければならず、フルには稼働できないジレンマもあったそう。萩市のお試し暮らし住宅(#梅ちゃんち)に10日間1万円で滞在。古民家だが、中はリノベーション済みで快適(画像提供/児玉さん)吉田松陰、桂小五郎、高杉晋作などの生家、世界遺産の松下村塾など名所が街のあちこちに(画像提供/児玉さん)メール返信や、アイデア出し、情報収集といった仕事は、児童館の横のスペースがぴったり(画像提供/児玉さん)子どもを地元の小学校に通わせつつ、長崎県五島列島でワーケーション その課題から、2度目の親子ワーケーション先として選んだのは、子どもたちが地元の小学校に通える長崎県五島市のプログラム「GOTO Workation Challenge 2020」。「最初は、島に行くことに子どもたちは不安だったみたいです。娘は『東京に戻ってきたら、習っていない漢字があるのが不安』って泣いてしまったので、『大丈夫だよ、事前に先生に何を習うか聞いておくから』と安心させました。一方、息子の第一声は『そこって、Wi-Fiある?』。デジタルネイティブだな~と思いました(笑)」当初は不安だった2人も、入学初日で「楽しかった!」とイキイキとした表情で帰ってきたそう。「『掃除の仕方が違ってた』『牛乳がびんじゃなくて紙パックだった』『給食にくじらの肉が出たよ』とか、たくさん話してくれました。娘はあやとりが好きなのですが、島の子とつくる作品が違っていたみたいで、お互いに“すごいね”って言いあいながら仲良くなったようでした」地元の小学校へ登校する2人。「ドキドキ、不安だったのは初日だけ。日に日に登校時の表情が明るくなって、短期間でも子どもたちの成長を感じました」(画像提供/児玉さん)地元の子どもたちがくれた、お手製の観光ガイトの小冊子(画像提供/児玉さん)最後に色紙をくれたのもいい思い出に。「子どもたちの関係は本当にフラットで、すぐ仲良くなれるのはすごいなぁと思いました」(画像提供/児玉さん)五島市では1階にコワーキングスペースが併設されているホテルに宿泊。「子どもが学校に行っている間は東京と同じように仕事ができました」(画像提供/児玉さん)知らない世界に飛びこむアウェイ体験は、将来の生きる力に「一番、印象的だったのが、息子が『まるで、違う人の人生を生きたみたいだった』と言ったこと。また、『いろんな教え方をする先生がいるんだ』とか、『どっちの学校も面白いことと、そうじゃないことがある』って気付けたようで、どこか自分自身を俯瞰で見るような、貴重な体験ができたみたいです。子どもの世界ってどうしても狭くなりがち。でも、いつもの学校とは違う”パラレル”な世界をちょっとだけ経験したことで、自分が所属している社会がすべてじゃないと知ったよう。この体験は、子どもたちが今後何かでつまずいたときに、生きる力になるんじゃないかと思います」五島市のプログラムに参加していた子どもたちと。「こうして子どもたちに地縁のある場所をひとつずつ増やしていきたいです」(画像提供/児玉さん)児玉さんが子どもたちに体験入学をさせたかった理由は、ご自身の子どものころの体験が大きい。「私は親の仕事の都合で転校が多く、ドイツやフランスで過ごしたことも。そこでは既存のコミュニティの輪の中に飛び込まないといけず、いろんなことに挑戦しなきゃいけなかった。でも、それって社会人になれば当たり前のことですよね。異世界での刺激が自分を成長させてくれたと思うから、子どもたちにも、そうしたアウェイ経験をさせてみたかったんです」コワーキングスペースの片隅でゲーム中。「東京の友達とオンラインゲームで遊んでいました。今は離れていてもこうやってつながることができるのもいいですね」(画像提供/児玉さん)会社員でもテレワークが浸透。ワーケーションや二拠点暮らしも視野に今年秋には、ワーケーションのモニターとして、栃木県那珂川町で2泊3日、下の娘さんを連れて滞在。地元の小学校で体育の授業を一緒に受けたり、川遊び、そば打ち体験、竹細工づくり、栗拾いをしたり、普段とは違う刺激を受けたようだ「娘は栃木で、子どもを預かってくれた地元のスタッフさんと昔遊びをしたのがすごく楽しかったようで、『もっと森とか川が近くにある場所に住みたい』って言っていました。そんなふうに、小さい時から、自分にフィットする環境を意識することは大切だと思います。そんな娘のために、これからは山で暮らす機会を増やしてあげたいです。こうした経験の積み重ねが、将来、都市以外で暮らす選択肢にもなるのではないかと。それこそ、職業選択の幅も広がると思っています」もちろん、こうした長期のワーケーションができるのも、児玉さんがフリーランスだからだが、コロナ禍の影響でテレワークが増え、会社員でも可能な選択になっているといえるだろう。「実際、かつては毎日出社していた会社員の夫も、現在はほぼリモート。東京から離れて暮らすのも全然アリだと言っています。ただ、私は実家が都内にあり、東京の住まいをなくすことは考えていません。ゆくゆくは二拠点暮らしができたらいいね、と夫と話しています」民家の庭先で栗拾い中。「モニターに参加した同級生の男の子ともすっかり仲良しに。今回、初めて合ったとは思えないくらい!」(画像提供/児玉さん)観光マインドからひとつ抜け出すことがワーケーション浸透のカギ現在、ワーケーションに関するモニター参加や、ワーケーションに関するイベントなどを通して、ワーケーションを推進したい自治体の関係者とも話をする機会の多い児玉さん。課題は何だろうか。「受け入れ側がまだ観光マインドが抜けないことが大きいですね。例えば、オフシーズンの夏のスキーゲレンデを訪れた時、『このゲレンデの芝を滑って遊べたら、子どもたちがすごく喜びそうだし、このスキー場内の施設で仕事ができたらいいですね。Wi-Fiがあって、見守りしてくれる大人がいたら、みんな来たいですよ』と言ったら、『そんなのでいいのですか』と言われました。地域を観光資源としてだけ見ていて、生活する上での何気ない魅力に気が付いていない人が多いんです。ほかにも、子ども向けの地元のワークショップが、親も参加がマストならワーケーションには向かないけれど、●歳以上は子どもだけの参加でOKとか、親子が別々に過ごせる時間がつくれるならワーケーション向きになります。ワーケーション先を探すとき、今は親がそれぞれ自分で生活環境や子どもの受け入れについて情報収集をしていますが、受け入れる自治体が親子向けのワーケーション先としての魅力を発信するだけでも違ってくるんじゃないでしょうか」ビジネス系出版社の書籍編集者から、2014年に編集者・ライターとして独立。一般社団法人プロフェッショナル&パラレルキャリア・フリーランス協会の「フリパラ編集部」、地方創生チームに所属。親子向けワーケーションの普及に向けて、企画や発信を行う事業を展開。現在、小6男児、小2女児の母。夫もマスコミ勤務。写真は10月に参加した兵庫県新温泉町のワーケーション視察後に訪れた鳥取砂丘にて(写真提供/児玉さん)子どもがいるから、仕事があるから、と旅がままならない人たちも、テレワークの浸透で働き方はぐっと自由に。実は、思春期になる前の小学生の時期は、乳幼児ほど目が離せないわけではなく、ワーケーションや二拠点生活に向いている。また、ワーケーションとひとくくりにしても、仕事重視か、休暇重視かで滞在場所や期間も変わる。“プライベートの旅行のときに仕事を持っていく”という段階からひとつ超えた、新たな旅のスタイル、働き方の広がりに期待したい。●取材協力・萩市お試し暮らし住宅(#梅ちゃんち)・「GOTO WORKATION CHALLENGE 2020」・創生なかがわ株式会社(長谷井 涼子)
2020.12.11 07:00
SUUMOジャーナル
『いだてん』、最低視聴率に終わっても「名作」と言えるワケ
『いだてん』、最低視聴率に終わっても「名作」と言えるワケ
 NHK大河ドラマ『いだてん~東京オリムピック噺(ばなし)~』の全47回の平均視聴率が関東地区で8.2%、関西地区で7.1%(ビデオリサーチ調べ)となり、大河史上最低となった。視聴率は低迷したものの、評価が低かったわけではなかった。『いだてん』を「名作」と言い切る時代劇研究家でコラムニストのペリー荻野さんが振り返る。 * * *『いだてん~東京オリムピック噺』が終わった。宮藤官九郎がタクシードライバー役でひょっこり顔を見せるあたり、いかにもこのドラマらしい最終回だったと思う。 それにしても『いだてん』ほど、「面白い」とコラムを書いたり、コメントを出すたびにさまざまな反応をもらった大河ドラマはなかった。コラムを読んだという方に呼び止められ、「こんなドラマをほめちゃいかん」と20分近く語られたこともある。出演者や視聴率についてもずいぶん騒がれた。 ここでは『いだてん』を名作だと思っている立場から、勝手に反省会をしてみたいと思う。  第一話を見たとき、正直「大変なことになる」と思った。それは従来の大河ドラマファンには容易に受け入れられないだろうと感じたからだ。一話は昭和34年、東京オリンピック開催決定の場面からスタート。それから明治になったり、昭和になったり。まさしく、いだてんのスピード感でドラマが展開する。 主人公の金栗四三(中村勘九郎)や田畑政治(阿部サダヲ)、日本のオリンピック初参加を決めた嘉納治五郎(役所広司)を、よく知らない視聴者も多かったに違いない。過去にも『おんな城主直虎』の直虎(柴咲コウ)や『花燃ゆ』の杉文(井上真央)のように無名の主人公はいたが、それらにはたいてい織田信長、吉田松陰など大河ドラマではおなじみの歴史の大人物が登場する。「今度の信長は誰?どんな風に演じる?」と確認に近い見方もする視聴者も多いのだ。『いだてん』は、今までほとんど知られていなかった出来事もどんどん盛り込む。たった二人の選手から日本五輪の歴史が始まったこと、戦前のロサンゼルス五輪のエキシビジョンで日本選手団がふんどし姿で「日本泳法」を披露したこと。オリンピックのための競技場から学徒が出陣していったこと、戦時中には「禁演落語」があったこと、1964年の東京五輪の聖火が沖縄を走って人々を勇気づけたこと。オリンピックと戦争は大きなテーマだった。東京オリンピック開催を戦争のために「返上」すると決まった際、田畑は叫ぶ。「総理大臣に電話するなら、(オリンピックでなく)戦争をやめると電話してくれ!」 スポーツを女性たちの活躍から描いたことも新しかった。大正期、「女子の体育ば、俺はやる」と決意した四三の教え子の女子学生が、靴下を脱いで走っただけで、親や世間から非難される。彼女たちは教室に立てこもり、「靴下を脱いだくらい何が悪い」とおとなたちに問うのだ。 日本初の女子オリンピック選手人見絹江は、短距離で結果を出せず、「このままでは日本に帰れません」と泣きながら訴えて出場した800メートル走で見事銀メダルを獲得。彼女は国内で記録を出しても「怪物」と呼ばれていたのだという。そして、特訓につぐ特訓を続ける女子バレー、東洋の魔女たち。これ以上、青春を犠牲にしなくていい、嫁に行けという鬼コーチに対して、川西選手、通称ウマ(安藤サクラ)は「これが私の青春」ときっぱり言い切るのだ。 今まで知らなかったことを知る。知っていろいろ考えさせられるのがテレビの醍醐味だ。田畑が浜松で選挙演説をした際にチラリと映った「原子マグロは買いません」の張り紙など小ネタも含め、攻め続け、走り続けた『いだてん』はやっぱり面白いドラマだった。以上、勝手に反省終わり。
2019.12.20 16:00
NEWSポストセブン
中曽根氏の白寿を祝い会合に出席した安倍首相(2017年5月15日/時事通信フォト)
中曽根康弘氏が説いていた「総理大臣に求められる覚悟」
 1982年から4年11か月に及び長期政権を担った中曽根康弘元首相(101歳)が亡くなった──。中曽根氏は2012年、一度辞任した自民党総裁選に返り咲いた安倍晋三氏や、当時の橋下徹大阪市長に向けて、“最高権力者に求められる覚悟”を説いていた。『SAPIO』(2012年11月号)でのインタビューを再録する。 * * *──安倍晋三元首相が自民党総裁に選ばれた。だが、首相時代には体調不良を理由に途中で職をなげうった。中曽根:安倍君の祖父である岸(信介)さんは一念を持って愛国に徹していた。その背中を見ていたからだろう、安倍君にその信念は受け継がれている。本格派の政治家だと期待していたし、今も期待している。あのときは体調も考えて、国の政治に対する責任感から身を引いたのだと思う。その後も志を変えないで歯を食いしばって政治家としての修養に努めた。吉田松陰以来の長州の政治家の伝統を引き継いでいると思う。──総裁選では5人の候補全員が、尖閣諸島でもめている中国にもっと厳しく対峙すべきだと主張した。中曽根:領土・主権は、政治家、特に総理大臣にとって命にかえて守るべき重要なものだ。「不脅威、不侵略」の方針を掲げつつ、主権を擁護する。領土問題についてはそのような信条を堅持することが要諦だ。特に近隣外交については、総理大臣の信念を周辺国の人々が見ている。信念の強さが国の運命に大きな影響を与える。総理大臣は日本の運命を背負っていると自覚すべきだ。──日本が弱腰だと相手はより強く出てくる。中曽根:中国外交をよく見ていると大変に興味深い。最近は非常に洗練されてきている。影を潜めて表に出ないで実力を養う、「韜光養晦(とうこうようかい)」という一言で自分の立場を表明している。多弁を要せずに、周辺国に事態を理解させられる。中国外交の重み、深みが見える。 外交というものは時間、歴史が非常に大事だ。つまり末永くものを考えて対処するということだ。日本の政治家でも、例えば竹島問題では河野一郎が“しばらく触らんでいい、そういう外交がある”と考えて、解決を急がず将来の世代に委ねる方針でやってきた。尖閣についても同様の方針が受け継がれている。つまり、主権を擁護するという強烈な信条と、歴史と時間をかけて守り抜くという信念。その双方が必要だ。──国有化には寝た子を起こしたとの批判もある。中曽根:尖閣諸島の国有化については、もう少し時間をかけて見てみないと功罪は判定できない。本来、日本の領土であるものについては法的、政治的条件を十分に整えておくというのは政治の一つの要件だ。野田総理はそれをやったのだろう。着手するにあたって外務省が内閣と一緒になって相当研究したと思う。──税と社会保障の一体改革をめぐる民自公の三党合意によって、民主党はマニフェストにない消費税増税を決定した。国民の怒りは大きい。中曽根:政治、外交は時を選ぶというのが重要な要素だ。内部の要素と外部の条件を考えなくてはいけない。野田総理はその点を考えたのだろう。野党は反対できない、そして年間のタイムスケジュールと客観情勢を考えると、今がその時期だと判断したのだろう。 公約に書いていないからやってはいけない、ということはない。政治は必要と思うことを断行する責任と権利を持っている。その結果は歴史が判断することになる。──自民、民主双方に総選挙後に大連立を考えている政治家がいる。中曽根:大連立を組んでどのような仕事を成し遂げるのか、それは国家的にどの程度重要か、そういう判断のもとに単独政権か連立政権かの判断が行なわれるべきだ。安全保障や外交問題については事態に応じて連立して協力内閣を作ることは重要な選択でもある。他方、大連立は外交案件だけでなく、内政に及ぶ影響がかなり大きい。将来的には政党再編にも関係してくる。 そのような長期的思考、現実的必要性、国際情勢に対する影響力などを十分考慮して行なわれるべきだ。政権安定のためにいたずらに大連立を組むべきではない。やるべき仕事は何かということが大事だ。──既成政党へのアンチテーゼとして、橋下徹大阪市長に注目が集まっている。中曽根:本人は維新政治家と思っているのだろうが、まだ大阪地方の地域政治家の域を出ない。国政選挙を通じていかに中央に進出し、全国に手足を伸ばしていくかが今後の道だと思うが、現状は新党「日本維新の会」がこれから選挙体制を作ろうとしている程度で体制はできていない。 明治維新を連想させる「維新」という名前をうまく使っているが、現実は客観情勢も主体的な実力もまだ地域的勢力に過ぎない。本人の政治思想と行動力がどのようなものか試されている。──彼には何が一番必要か。中曽根:パートナーを持つことだ。現役の政治家、学者や知識人、あるいは財界人など、パートナーというバックグラウンドを作り上げていくことがこれからの仕事だ。それで力量が見えてくる。──既得権の打破を掲げ、リーダーシップを発揮できるよう、首相公選制を唱えている。中曽根:今の日本社会の固着状態をもっと弾力的なものに変えようと、その第一声を大阪で上げたのだろうが、今までの言動は、まだ地域政治家の枠を出ていない。 私はかつて首相公選制を唱えた。それを彼が今また唱えている。私の場合は国会議員として、国政に対する発言力、中央政治に対する影響力を持ってやった。全国に首相公選の塔を建て、中央にも改憲の運動母胎を作った。しかし、彼の場合は大阪という地域に留まっている。本人が選挙を通じて国政に打って出るのか。国会議員にならないのならば、彼の言葉は揚言になってしまう。これは他人に任せるようなことではない。自分で率先して飛び込んでやることだ。──頻繁に総理大臣が変わることが政治の漂流の一因だ。自身の経験を踏まえて、総理の覚悟とはどのようなものか。中曽根:総理大臣になった途端に官僚や新聞記者から冷たい目で見られる。彼らは能力が高く、今までの歴史を熟知し、歴代総理の在り方を研究したうえで現役総理を眺めている。そこに身を晒している。それを克服するだけの人間的魅力と能力がなくては一人前の総理大臣とは言えない。 能力とは先見力、説得力、国際性。そして政治家同士を提携させる、学者との関係を適切にやる、ジャーナリズムとの関係をうまく導き、同じ志を持つ者を集める結合力。それらが非常に重要な要素になっている。多少時間がかかっても克服しなくてはならない。それが宿命だ。──自身が総理としての自信をつけたのは就任からどれくらい経ってからか。中曽根:1982年の11月27日に就任し、1983年5月のウィリアムズバーグ・サミットを経てからだ。ミッテランにもレーガンにもサッチャーにも負けない、そういう自信が出てきた。就任してから半年後だった。 しかし、だからといって総理就任当初と気持ちが変わったわけではない。 権力者は孤独だ。権力と相対しているとそれが責任感、孤独感に転じていくのだ。責任を果たさなければならないという気持ちが一人でいるときに孤独感を誘引してくる。 総理官邸で夜中に考え事をしていると、梟の鳴き声が聞こえたことがあった。浜口雄幸総理の随感録にも同じことが載っていた。同じように梟の声を聞いて先輩と政治責任を分かち合う気持ちは、総理官邸に住んだ者にしかわからない。※インタビュー内の肩書きはいずれも当時
2019.11.29 19:00
NEWSポストセブン
平成の格差拡大 後醍醐天皇の「新儀」がヒントになり得る
平成の格差拡大 後醍醐天皇の「新儀」がヒントになり得る
 150年続いた鎌倉幕府を打倒し、「建武の新政」を行った後醍醐天皇の理想は数年で頓挫し、南北朝が対立する動乱の時代を招いた。しかし、兵藤裕己・学習院大学教授は、その「新政」の思想は、近代日本の社会や国家のあり方をも規定した、と指摘する。兵藤氏が解説する。 * * * 鎌倉末期から南北朝の動乱の時代を描いた軍記物語の『太平記』など、歴史書のなかの後醍醐天皇の評価は大きく二分されている。稀代の帝王であり「賢才」【*注1】との評価がある一方で、先例を無視した政治手法は、南朝方の公家からも批判される。【*注1】南朝を創始した後醍醐天皇とは対立した、北朝方の公家中院通冬の日記より。 北朝方の公家の三条公忠は、自身の日記で、後醍醐の治世を「物狂の沙汰」と評している。「物狂」は、常軌を逸して正気でない意味。この「物狂」という評価は、従来やや恣意的に(発言された文脈を考慮せずに)引用・解釈されてきた。 それは現代において後醍醐の王権が「異形の王権」といわれ、その評価が芳しくない一因ともなっている。「物狂の沙汰」という評価が、後醍醐の「新儀」によって既得権益を奪われた人物の発言であることが見落とされているのだ。承久の乱(1221年)で京都の朝廷が鎌倉幕府と戦って敗北した後、朝廷の権威は大きく失墜した。幕府を打倒することは、朝廷の長年の悲願となった。 1333年、後醍醐による倒幕が実現すると、公家社会は一斉に「公家の古き御政にかへるべき世」(『神皇正統記』)を期待して色めきたった。「公家の古き御政」すなわち伝統的な公家政治への復古が期待されたのだ。 しかし、実際はそうはならなかった。後醍醐の言葉として、『梅松論』に、「朕が新儀は未来の先例たるべし」(私が行う新しい政治は、未来において先例となるだろう)とある。後醍醐は「新儀」すなわち前例のない新しい王政のシステムを作り上げたのだ。◆天皇が直接「民」に君臨する 幕府滅亡後に始まった後醍醐の親政(天皇が自ら政治を行うこと)では、それまで特定の家柄に固定していた官職が流動化した。たとえば、倒幕に活躍した楠(木)正成や名和長年など、氏素性の知れない(かつて鎌倉幕府から「悪党」と称されたような)土豪的な武士を、雑訴決断所【*2】や検非違使【*3】などの政権の要職につけた。家柄や門閥によらずに、各人の能力・実力に見合ったポストを与えるという政治手法が、後醍醐の「新儀」だった。【*2】訴訟処理に当たる役所で、建武政権の最重要機関。【*3】裁判官と警察を兼ね、京都の施政権を握る役職。 官職の世襲制に大なたを振るった後醍醐は、一方で、執政の臣(摂政・関白)を置かず、政を議し定める議政官(公卿詮議)の構成メンバーの上級貴族たちを太政官八省の長官に任じた。上級貴族たちをあえて実務官僚とすることは、官職の流動化であるとともに、天皇親政の障害となる議政官の「旧儀」の解体を意味した。 そのような建武政権下にあって、後醍醐は自らの意思伝達の手段として「綸旨」を多用した。綸旨は、公式の宣旨や詔書にくらべて、天皇の私的な意思を直接的に下達できる文書形式である。 次々に下された綸旨は、その真偽を疑わせるような事態も引き起こしたらしいが、しかし天皇が自ら(臣下の序列を飛び越えて)行政機構を統括し、直接「民」に君臨するという「一君万民」的な統治形態こそが後醍醐のめざした「新儀」であり、綸旨はそのための有効な意思下達の手段だった。 後醍醐の念頭にあったのは、中国宋代の儒学とともに移入された中央集権(=皇帝専制)的な官僚国家である。宋の前の唐代に政治の中枢にあったのは門閥の貴族層である。唐代の貴族層は、唐が滅んだ10世紀の内乱とともに没落したが、宋代には、それに代わって、科挙(官吏試験)をパスした士大夫(儒教知識人)層が新たな政治主体として台頭した。有能な士大夫層を抜擢・登用するための科挙の制度も、中国では伝統として根付いていた。 ところが、日本の場合、中国の律令制度は模倣しても、科挙による人材登用は、ついぞ制度として根付かなかった。後醍醐の周辺には、一部の中下級貴族を除けば、官僚予備軍となりうる知識人層はほぼ皆無といえる状態だった。「新儀」の王政に対する抵抗勢力は根強く存在しても、それを実現・推進するための人材が、14世紀の日本には決定的に不足していた。そのため後醍醐の王政は、開始からわずか3年足らずで瓦解してしまう。だが、にもかかわらず、後醍醐の企てた「新儀」は、やがて500年の時を隔てて日本の近世・近代の政治史に甚大な影響を及ぼすことになる。◆平成という時代につながる問題 18世紀の半ば以降、ヨーロッパ列強のアジア進出が本格化し、対外情勢が緊迫化してゆくなかで、後醍醐の「新儀」は政治史の表舞台に再度呼び出されることになる。そのきっかけは、水戸藩で編纂された『大日本史』である。『大日本史』で展開された南朝正統史観が、宋学(朱子学)の大義名分論(君臣・父子の別をわきまえ、上下の秩序や礼節を重んじる考え)と結びつき、後醍醐の「新儀」の王政を歴史の表舞台に再び呼び起こしたのだ。 後醍醐の「王政」の理想は、近世の身分制社会に対するアンチテーゼとして、下級武士出身の「志士」たちの行動の原動力ともなってゆく。『大日本史』の南朝正統論をベースとして生まれたのが、理念化された王政のシステムである「国体」の思想である。後醍醐が目指した一君万民の統治形態は、天皇のもとでの平等の思想でもあった。 その思想は、水戸学を学んだ吉田松陰をつうじて倒幕の「志士」たちの間に広く流布し、幕末の革命運動を主導する広範なイデオロギーとなった。すなわち、吉田松陰が唱えた「草莽崛起」のスローガン、「下級武士でも国家のために働くべきだ」「身分にかかわらず天皇とつながってよい」という思想である。 幕末の志士たちによって鼓吹された「王政」の理念は、身分制社会からの解放の思想であり、それは近代日本が四民平等の国民国家へ移行してゆく原動力ともなった。江戸の身分制社会から近代国家への移行があれほど速やかに行われたのは、後醍醐の「新儀」が、たしかに「未来の先例」となったからである。 ひるがえって、今の日本社会を見てみると、後醍醐の「新儀」はさらに興味深い問題を提起している。平成という時代は、格差が拡大・固定化され、身分社会・階級社会への移行が進んだ時代である。日本の閉塞した現状を考えるうえでも、後醍醐の「新儀」はなんらかのヒントになり得るかも知れない。 なお、理念化された「王政」のシステムが近世の身分制社会を相対化し、また現代の象徴天皇制へも引き継がれている仕組みについては、私の新著『後醍醐天皇』(岩波新書)を参照していただければ幸いである。【PROFILE】兵藤裕己●1950年愛知県生まれ。東京大学大学院人文科学研究科博士課程修了。文学博士。専門は中世日本文学。『後醍醐天皇』『王権と物語』『太平記〈よみ〉の可能性』『〈声〉の国民国家・日本』ほか、著書多数。◆取材・構成/岸川貴文※SAPIO2018年9・10月号
2018.10.20 07:00
SAPIO
篠田三郎 幕末の人物を演じると俳優は役から魂を与えられる
篠田三郎 幕末の人物を演じると俳優は役から魂を与えられる
 映画史・時代劇研究家の春日太一氏がつづった週刊ポスト連載『役者は言葉でできている』。今回は、俳優・篠田三郎が、吉田松陰、源実朝、飯富昌景を演じた思い出について語った言葉をお届けする。 * * * 幕末の長州藩を舞台にした一九七七年のNHK大河ドラマ『花神』で篠田三郎は吉田松陰に扮した。その苛烈な芝居がドラマ前半を盛り上げている。「最初は吉田松陰のことは名前くらいで、ほとんどよく知りませんでした。それで司馬遼太郎さんの『世に棲む日日』を読んだところ、感動しましてね。あの時代の人たちは、とても感情が豊かだった。武士だから泣かない──というのはなくて、よく泣き、よく笑った。そして志士の多くは若くして亡くなっている。太く短く生きているんです。ですから、自分もそうですが、俳優はあの年代をやると役から魂を与えられて張り切るんです。やりがいがあるんですよ。 寅次郎と名乗っていた若き日の松陰は、当時の日本の現状を知るために萩から出向いて遠い東北にまでよく旅をしています。とても行動的な人間でしたので、僕も演技どうこうではなくそんな松陰に少しでも近づきたく体当たりでやっておりました。例えば息を切らして登場する場面では、出番の十秒くらい前まで腕立て伏せをして本当に息を切らしながら出ていました」 鎌倉幕府の草創期を描いた七九年の大河ドラマ『草燃える』では三代将軍の源実朝に扮した。おっとりした公家的なイメージの強い実朝を、結果的に狂気に憑かれていく悩めるインテリとして演じている。「実朝のときは、どこかでまだ吉田松陰を引きずっていました。実朝は穏やかな、顔でいえば狸、丸顔で鷹揚としたイメージがあると思うんですが、松陰を引きずっているものだから、そういう激しいところが出てしまったように思います」 八八年の大河ドラマ『武田信玄』では武田家重臣・飯富(山県)昌景を演じた。児玉清が演じる兄・虎昌と不倫関係の女(小川真由美)との対決シーンでは緊張感ある芝居をしている。「これは自分の中でかなり頑張れた作品ですね。特に小川真由美さんと対峙するシーンは印象深いです。小川さんは物凄い迫力で来る方なので、僕も闘志が燃えました。その縁で演出家からは朝の連続テレビ小説『京、ふたり』など他の作品でも声をかけていただきました。『武田信玄』を書かれた脚本家の田向正健先生は僕にとって忘れられない方です。その前に先生の書かれた『優しい時代』というNHKの九十分ドラマに出ていまして、これを四本くらいやりました。僕は檀ふみさんとのコンビで鹿児島の先生役でして。生徒の悩みを共有するヒューマニズムあふれるドラマで、とても思い出に残っています。 僕が最初にボロボロ泣いた映画は父親に連れられて観た『ビルマの竪琴』でした。それから『人間の條件』もオールナイトで観ました。ヒューマニズムある作品が好きで、ああいう人間像に憧れるんですよ。『優しい時代』の先生役は演じていて燃えるものがありました。 そういうことがあって先生に懇意にさせていただいていたので『武田信玄』も安心して演じることができました。作家が自分のことを知っているというのは演じる上でも大きいです」●かすが・たいち/1977年、東京都生まれ。主な著書に『天才 勝新太郎』『鬼才 五社英雄の生涯』(ともに文藝春秋)、『なぜ時代劇は滅びるのか』(新潮社)など。本連載をまとめた『役者は一日にしてならず』(小学館)が発売中。■撮影/渡辺利博※週刊ポスト2018年10月26日号
2018.10.18 16:00
週刊ポスト
ドラマで編集長役、伊勢谷友介に「イケメンを持て余す男」評
ドラマで編集長役、伊勢谷友介に「イケメンを持て余す男」評
 いよいよ佳境に突入している今クールのドラマ。話題を呼ぶ作品のなかで、その演技で、異彩を放っているのが、『サバイバル・ウェディング』(日本テレビ系)に出演している伊勢谷友介(42才)だ。個性的な編集長を演じている伊勢谷の俳優としての方向性についてコラムニストのペリー荻野さんが考察する。 * * * ドラマ『サバイバル・ウェディング』を見ていて感じるのは、伊勢谷友介は「イケメンを持て余している」ということだ。 このドラマで伊勢谷が演じているのは、人気ファッション雑誌の名物編集長宇佐美。彼は常に企画の隅々にまで目を光らせ、売り上げをV字復活させた実績は高く評価され、編集部員からも「ボス」と信頼されている。 その宇佐美は、恋人に逃げられ寿退社できなくなったヒロインさやか(波瑠)に「半年以内に結婚できなかったらクビ」という条件で婚活コラム執筆を命じる。短期間で結婚など無理と涙目のさやかに、宇佐美は「女としての価値なんて売り方次第でいくらでも上がる」「オレの言う通りやればカンタンだ」などと言いたい放題。オレ様恋愛指南を続けるのである。 毒舌男に振り回されるヒロインのラブコメでは、深田恭子×ディーン・フジオカのドラマ『ダメな私に恋してください』や小松菜奈×中島健人の映画『黒崎くんの言いなりになんてならない』など人気作が多いが、『サバイバル・ウェディング』の伊勢谷の存在感は、かなり独特。 おかっぱ頭に丸い色眼鏡。常にパリパリにキメた派手なスーツが定番で、スポーツジムで走るときだって、紺地に赤いハイブランドモノグラムがプリントされたジャージ上下姿で目立ちまくる。しかし、パーティーでグラス一杯飲んでひっくり返るほど酒に弱く、スポーツカーを乗り回す…かと思ったら、運転はど下手。あちこちで変なオーラを醸し出す。  伊勢谷はドラマ『監獄のお姫さま』でも、監獄で一致団結した女たち(小泉今日子や森下愛子ら)に悪事を暴き立てられるやり手社長板橋吾郎役で変なオーラを出していた。『サバイバル・ウェディング』ホームページで本人は、やなヤツ路線で頑張っていきたいと語っているが、今や変なオーラ路線をまい進中と言った感じだ。その理由は、やっぱり伊勢谷友介自身が「イケメンを持て余している」からだと思う。 俳優・伊勢谷友介の実績を見てみると、ドラマでは『白洲次郎』で白洲本人、大河ドラマ『龍馬伝』では高杉晋作、『花燃ゆ』では吉田松陰、映画『利休にたずねよ』では織田信長を演じてきた。実在のモテ男、おしゃれ男をこれほど網羅している俳優はめったにいない。実業家でもあり、社会活動にも熱心だと聞けば、もうイケメンは続くよ、どこまでもということになる。これで普通の二枚目役をやったら、公私混同だ。日本語間違ってるけど。  そこで打ち出された変なオーラ俳優路線。イケメン持て余し系の大先輩、草刈正雄や阿部寛が「演技派」「個性派」、沢村一樹が「セクスィー派」へと変貌したことを思うと、伊勢谷の「ちょっとアート入ってます」という雰囲気は、彼らしく新しい。 宇佐美のおかっぱ頭を見て、画家の藤田嗣治を思い出した人も多いと思う。折しも東京では『没後50年 藤田嗣治展』が人気を集めている。おかっぱ頭ひとつにアートとイマドキ感を漂わせ、それが似合う男。独特の度合いでいけば、伊勢谷は宇佐美以上といえる。 
2018.09.12 07:00
NEWSポストセブン
日本の億万長者トップ 孫正義氏は87年の堤義明氏より少ない
日本の億万長者トップ 孫正義氏は87年の堤義明氏より少ない
 かつて世界の億万長者の座を占有した日本勢はなぜ消えたのか──。作家の城島明彦氏が分析する。 * * * 今年も“ビリオネア”(10億ドル以上の資産家)の季節がやって来た。米経済誌「フォーブス」が世界長者番付を発表するのは毎年3月で、各国のメディアが報道する年中行事と化した観がある。 昨年は世界に2043人のビリオネアがいるとし、国別ではアメリカが565人でダントツの1位、2位中国319人、3位ドイツ114人と発表した。日本は、4位“IT先進国”インド101人の3分の1にも届かない11位33人で、30位以内に日本人の名前はない。 最高位が孫正義(ソフトバンク)の34位で212億ドル。以下、柳井正(ファーストリテイリング)60位159億ドル、滝崎武光(キーエンス)102位123億ドル、三木谷浩史(楽天)250位58億ドルと続くが、トップのビル・ゲイツ860億ドル(約9兆7180億円)は遥か雲の上、全盛期の日本とは比べるべくもない。 フォーブスが世界長者番付を初めて発表したのは創刊70周年を迎えた1987年だが、その年のトップに君臨したのが日本人だったことを若い人は知らないのではないか。 当時、西武鉄道グループのオーナーだった堤義明である。堤の資産総額は200億ドル。当時の為替レートは1ドル=150円台なので3兆円見当だ。昨年の孫正義の212億ドルは2兆2640億円で、1987年当時の堤義明より少ない。堤は以後、森泰吉郎(森ビル創業者)にトップを奪われる1991~1992年を除いて1994年まで計6回も世界一の座に君臨し続けた。 その堤にしろ森にしろ、「土地神話」に導かれた“バブル経済大国ニッポンの申し子”だ。1986年に始まったバブル景気は、フォーブスが1回目の番付発表をした1987年がピークで、1989年には三菱地所がロックフェラーセンターを買収するなど1991年まで続いた。 そんな時代の象徴だった堤を抜いて1995年のトップに躍り出たのが、「ウィンドウズ95」を引っさげて登場した“IT大国アメリカの申し子”ビル・ゲイツだ。それが“アメリカ大富豪復活”の狼煙、日本の“失われた10年ないし20年”の始まりなのだ。 フォーブスが発表に使う数字は2月時点の資産総額だが、今年は2月5日にNY株式市場(ダウ工業株30種平均指数)で史上最大の下げ幅1175ドルを記録、同誌は「ダウ急落で、“投資の神様”バフェットら米富豪6人の資産合計が1日で200億ドル超減少」と報じた。当日は1ドル=108~109円なので2.2兆円減になる。 フォーブスは、「リアルタイム・ランキング」も発表しており、2月16日現在、アマゾンの創業者ジェフ・ベゾスがビル・ゲイツを押さえて暫定トップに立っているが、日本人の伏兵は現れるのか。株価に左右されるアメリカのIT長者の資産と、土地バブル崩壊後、低迷する日本勢の資産のランキングは、今後の日米双方の経済の勢いを占うものとなるだろう。●じょうじま・あきひこ/1946年三重県生まれ。早稲田大学政治経済学部卒。東宝を経てソニー勤務時代に書いた短編小説『けさらんぱさらん』で「オール讀物新人賞」(第62回)受賞。著書に『吉田松陰「留魂録」』(致知出版社)、『ソニーを踏み台にした男たち』(集英社文庫)、『「世界の大富豪」成功の法則』(プレジデント社)など多数。※SAPIO2018年3・4月号
2018.04.25 07:00
SAPIO
力士の酒豪伝説 日本酒を36L飲んで酩酊しなかった雷電
力士の酒豪伝説 日本酒を36L飲んで酩酊しなかった雷電
 角界が揺れる中、「謎のスー女」こと相撲女子の尾崎しのぶ氏が、相撲コラムを週刊ポストで執筆中。相撲界は酒席の事件で揺れているが、過去の名力士たちは酒をどう付き合ってきたのか? 尾崎氏がつづる。 * * * 十一月場所十両入りした隆の勝は酒が全く飲めないと相撲誌に書いてあった。日馬富士の真っ赤な目をした優勝翌日会見が記憶に新しいだけにおどろいた。しかし思い出せば琴奨菊は奈良漬けすらアウト。松鳳山も酒を飲まない。安芸乃島はウイスキーボンボン一個食べただけで寝てしまう下戸だった(安芸乃島の親方は、兄・二子山親方の厳しさへの反感から兄弟子に飲酒を強要され内臓を悪くした大関・貴ノ花だったから、自分の弟子の育成には気遣いがあったのだろう)。 それでも力士には飲み放題を適用させない居酒屋もあると耳にしたり、白鵬がテレビでものすごいスペシャルカクテル(ウイスキーのビール割りシークワーサー風味)を披露していたことなどが力士は酒好きとの印象を残す。だからこそ、新十両力士を華々しく紹介する質問の中に「酒量は?」とあるのだ。 力士の酒のエピソードは数多くあるが、強烈なのは太刀山の好敵手だった駒ケ嶽。日本酒を毎日六升飲んでいた。そして現役中の一九一四年、巡業地の茨城でどぶろくを飲んだ後日向で気持ちよく昼寝をしていたところ、胃の中のどぶろくが発酵して毒になって腸と脳に回り急死。享年三十三。 横綱を嘱望されていた時期もあった実力者だったが酒が好きで体を壊し、負けがこんではまた酒を飲んだ。その末に好きな酒のせいで亡くなった。周囲や遺族の気持ちはあろうが、駒ケ嶽にとっては愛した酒との心中にあたるように思う。 悲しい駒ケ嶽とは違い、ニヤリとさせてくれるのは江戸時代のスーパースター雷電。雷電が現役時代より記した日記『諸国相撲控帳』に、こんな話が書いてある。 享和二年(一八〇二年)、長崎で清の学者の陳景山と出会う。飲酒に関しては李白の生まれ変わりであると自称する陳先生と飲み比べをした。互いに酒を注ぎ合い気付いたときには一斗ずつ飲み干していた。先生はここでダウンしたのだが、雷電はさらにもう一斗飲み鼻歌を歌いながら高下駄で宿に帰った。 三十六リットルの日本酒を飲んで酩酊しないとは、いくら百九十七センチ百七十キロでもおどろきだ(巨人でないのに十八リットル飲んだ陳先生も李白を名乗るだけのことはある)。翌朝目覚めて雷電の様子を聞いた陳先生は書と絵を贈ったという(黒星のほとんどは引き技だった雷電。二日酔いの疑惑を私は持っている。どれだけ飲んでそうなったのか知りたい)。 寛政二年(一七九〇年)の初土俵から二十一年の現役生活で、黒星はたったの十個。三十四場所に出場したうち優勝は二十八回。通算成績は二百五十四勝十敗十四あずかり二引き分け五無勝負で、勝率は九割六分二厘。年に行われる場所数も日数も今とは異なっているから単純に比べられはしないのだが、白鵬ですら現在まで勝率八割に満たないのだから今後塗り変えられる数字ではないだろう。 雷電の死から三十七年後に出身地信濃国(長野県)に建てられた「力士雷電之碑」には、佐久間象山による文が彫られている(死後二十七年と書かれているのは、弟子吉田松陰の密出国未遂に協力したとして謹慎させられる前にしたためた文だと偽るためだったという説がある)。間違っているかもしれないが、私なりに読んでみた。〈雷電の力は比べるものがなく、世と間を空けて一つだけとび出している。天はあなたを惜しんでいる。私は士人であるけれど、ずば抜けることができない。あなたの為に碑を作りながら恥じ入り心があつい〉 佐久間象山が生まれる直前に雷電は引退。現役をその目で見ていなくても、語り継ぎの中に同郷の英雄の輝きは感じられたのだろう。深い尊敬がこめられている。相撲ぶりにしろ酒にしろ雷電の無類の強さは、絵や文に称えずにはいられない魅力を持っていたということ。酒はやはりいいものだ。飲み会の多いこの季節。くれぐれも駒ケ嶽にならないよう気をつけながら、ほどほどに仲間と飲みたい。※週刊ポスト2017年12月22日号
2017.12.16 16:00
週刊ポスト
小早川秀秋の末裔「ご先祖は教科書に載らないままでいい」
小早川秀秋の末裔「ご先祖は教科書に載らないままでいい」
 暗記重視の歴史教育を見直すため、教科書の収録用語を現在の半分程度に減らすよう「高大連携歴史教育研究会」(会長=油井大三郎・東大名誉教授)が発表した歴史用語の「精選案」が波紋を広げている。坂本龍馬や吉田松陰、上杉謙信などが削除対象となっているからだ。実はこれまでも、歴史教科書の“人選”は、一般的な知名度と必ずしも一致していたわけではない。たとえば昨年のNHK大河ドラマ『真田丸』の主人公・真田信繁(幸村)は教科書には登場しない。 幸村の末裔、仙台真田家13代当主・真田徹氏が語る。「高校の履修時間内にすべてを教えられない、というのは先生方の言い訳に聞こえます。中途半端に世界史の知識を入れるぐらいなら、まずは日本の歴史をちゃんと教えてほしい。『真田三代』や『真田十勇士』は、講談や物語ですが、それを楽しむには武田信玄と上杉謙信の拮抗した関係やその後の関ヶ原の合戦など、時代背景を知っている必要がありますから」“教科書から消される”ことに憤る末裔もいれば、“教科書に載せてほしい”と願う末裔もいる。問題はなかなか複雑だ。 関ヶ原で西軍から寝返った戦国武将・小早川秀秋の末裔、小早川隆治氏は“ご先祖は教科書に載らないままでいい”という立場だ。「子孫の私だって小早川秀秋についてそこまで詳しくはありません。教科書や授業での暗記項目が多すぎると、“歴史の流れを理解する”という大事な部分が抜け落ちてしまいますから」 その小早川秀秋の離反によって命を落とした武将・大谷吉継の末裔・大谷裕通氏も「好きな人は自分で勉強してもらえればいいと思っています」と同意見だ。 精選案を出した高大連携歴史教育研究会の運営委員長である桃木至朗・大阪大学教授は取材にこう答えた。「今回の歴史用語精選案は、すべての生徒が身につけるべき必須事項として、教科書本文に記載すべきと提案したものです。そこから漏れた人物を削除すべきという主張でもないし、注記や図に含めることを否定もしていない。目的は、あくまで歴史を“暗記科目”ではなく、考える楽しみを味わえる科目に転換すること。2022年には高校の新課程がスタートし、歴史の時間が減ります。現状でも時間が足りず、教師も生徒も、暗記教育に陥っている現状を改善しなければ、歴史離れはさらに深刻になると懸念しています」 教科書に載っていないところにこそ、面白い歴史ドラマは眠っている──そんなふうに考えるのがいいのかもしれない。※週刊ポスト2017年12月8日号
2017.11.30 07:00
週刊ポスト
歴史教科書見直しに坂本龍馬末裔 「一体、何の権限で…」
歴史教科書見直しに坂本龍馬末裔 「一体、何の権限で…」
 暗記重視の歴史教育を見直す動きによって、坂本龍馬が高校日本史の教科書から消えるかもしれない事態になっている。「正直言って驚きました。坂本龍馬は近現代史でもっとも人気がある人物だと思っていますし、国難に殉じた人たちを“こっちは削ってこっちは残す”だなんて、一体、何の権限があってやっているのでしょうか」 そう話すのは、坂本龍馬の末裔(龍馬の兄・権平の子孫)で、郷士坂本家10代目の坂本匡弘氏。近い将来、“龍馬の名前が歴史教科書から消えるかもしれない”という一報に、落胆の色を隠さない。 11月中旬、高校と大学の教員らで構成する「高大連携歴史教育研究会」(会長=油井大三郎・東大名誉教授)が歴史用語の「精選案」を発表した。同会は、大学入試や高校の授業が暗記中心になり、教科書の収録用語が膨張傾向にある問題を指摘。用語を現在の半分程度に減らすよう提言した。 この提言では、幕末の英雄・坂本龍馬も削除候補に含まれていた。末裔の匡弘氏は納得のいかない様子だ。「そもそも日本の歴史教科書は、近現代の基礎を作った幕末維新期の記述が薄いように感じます。龍馬についても“薩長同盟を取り持って、大政奉還に導いた”というくらいしか教えていないでしょう? 自分が中高生の頃、どうしてもっと詳しく書かないのか、不思議に思っていましたよ」 歴史教科書を読んで、“もっとウチのご先祖様のことを詳しく書いてほしい”と感じる──偉人の末裔しか抱くことのできない感情だ。それが詳しくなるどころか、名前ごと消えてしまうかもしれないのだから、匡弘氏はヒートアップしていく。「龍馬をはじめ幕末の志士たちは、西洋列強の属国となりかねない危機をいかに乗り切るかに心血を注ぎ、命を捧げた人々です。そうした日本の成り立ちにかかわる歴史は、むしろ高校でもっと、きちんと教えるべきではないでしょうか」 今回、龍馬の師であり、幕臣ながら江戸無血開城を実現するなど維新に貢献した勝海舟は“教科書に引き続き掲載すべき用語”に含まれていた。その一方で、龍馬の他にも、維新志士の理論的支柱となった思想家である長州藩士・吉田松陰が“教科書への掲載は必要なし”と判断されている。龍馬の末裔・匡弘氏は、同時代の英傑に“線引き”がなされることに憤る。「松陰だって、思想は過激だったかもしれないが、自分が信じた正義のために尽くした男です。そうした人間的魅力も教育の中で伝えていってほしいのに……来年の明治維新150年を前に、水を差された気分です」 波紋を広げる今回の提言について、歴史作家で多摩大学客員教授の河合敦氏が解説する。「精選案は、“暗記量ではなく歴史的な思考力を問うべき”という国の歴史教育改革の方針に沿ったものと言えるでしょう。27年間高校の教員を務めた立場から言えば、限られた時間のなかで多くの用語や人物を詰め込まざるを得ない状況になっているのは確かです」※週刊ポスト2017年12月8日号
2017.11.27 16:00
週刊ポスト
明治維新の廃仏毀釈「イスラム国的な文化破壊活動」評も
明治維新の廃仏毀釈「イスラム国的な文化破壊活動」評も
 明治維新が素晴らしいものであるとの“常識”に疑義を呈したのは『明治維新という過ち』の著者で作家の原田伊織氏だ。氏は明治維新がその後の軍部の台頭を招き、また「官軍史観」が現代社会を歪めていると指摘する。 * * * 明治維新と呼ばれている政変によって、日本が背負った「負の遺産」は少なくない。千年以上にわたって「神仏習合」という形で維持してきた穏やかな宗教秩序や多元主義的な生態を、「復古」を狂信的に唱える薩長新興勢力が「廃仏毀釈」というイスラム国のようなやり方で徹底的に破壊した。世界史にもあまり例をみない恥ずべき文化破壊活動である。 また江戸日本は300諸侯がそれぞれ独自に地域社会を治める連合国家でもあり、独自の自然観に基づく、現代からみれば驚くべき先進的な持続可能な社会システムを構築していた。しかし西欧文明にかぶれた薩長によって一元化した中央集権体制が強いられ、日本的な多元主義や寛容かつ平穏な精神文化が否定されてしまった。 一元主義、不寛容の象徴が靖國神社だ。これは、江戸幕府を滅ぼした長州側が、「官軍」の戦死者だけを祀るために作ったもので、正義の基準を官に置いて“官にあらざれば賊である”と独善的な考えのもとに誕生した。つまり靖國神社は、自らのみを「正義」としてそれに対する崇拝を強制するという意味で極めて「非日本的」な神社と言える。 現在、保守派の政治家から西郷隆盛ら「賊軍」を合祀せよとの声があがっているが、その貧弱な歴史観はこっけいにしか映らない。今でも長州賛美主義者が堂々と公言している通り、靖國神社はどこまでいっても「長州神社」であることを忘れてはいけない。 一方で、皇軍として大東亜戦争を戦った親族を持つ私は戦没者遺族として、今も靖國神社を参拝して手を合わせる。他に身内の追悼のために行く場所がないからだ。そのように靖國神社に複雑な感情を持つ一人として、独善的な一元主義に基づく神社への「賊軍合祀」などという動きは、歴史の実態を知らぬ政治家の“お遊び”に過ぎず、迷惑千万と言わざるを得ない。 選挙区が山口で吉田松陰を信奉する安倍首相は、来年、明治維新150周年での記念事業を国家行事として展開しようとしている。他にも現政権には、11月3日の文化の日を「明治の日」に変えようとしたり、戦前の教育勅語の肯定を閣議決定したり、完ぺきに“国粋主義化”している。 中国やロシアの伝統的な侵略主義は断固認めないが、同じ次元に我が国を貶める安倍政権のこうした動きには全く賛成できない。テロを繰り広げて政権を簒奪した薩長は明治以前の日本を全否定して官軍史観を推し進め、天皇原理主義で国内を一色に染めて無謀な戦争に突っ走った。まずは負の歴史を検証して総括することが必要であり、それなしに維新150周年を国家行事として祝うべきではない。「近代」と呼ばれる時代が世界中で行き詰まりを見せて、新たな処方箋が求められる今こそ、日本は「明治維新という過ち」を見つめ直すべきである。 ■聞き手・構成/池田道大※SAPIO2017年9月号
2017.08.26 07:00
SAPIO
安倍首相に地元で「これが首相として最後のお国入りか」の声
安倍首相に地元で「これが首相として最後のお国入りか」の声
 安倍晋三・首相は毎年夏に地元・山口にお国入りして英気を養ってきた。首相返り咲き1年目の2013年には萩市の吉田松陰の墓に参り、「『間違いのない正しい判断をしていく』と誓いを新たにした」と政権運営に自信をのぞかせ、翌2014年には下関市の高杉晋作の墓に献花し、「まさに志が定まった感じだ」と強く語った。 日露首脳会談を控えた昨年夏には実弟の岸信夫・外務副大臣とともに田布施町の祖父・岸信介元首相の墓参り。「安倍外交の強化のために副大臣になってもらった」と兄弟で領土交渉にあたる決意を示した。 ところが、今年は8月11日に山口入りすると父・晋太郎氏の墓参りを行ない、さらに岩国市、下関市など40軒近い支持者宅を次々に訪問して仏壇に手を合わせたのである。「安倍さんはこれが現職首相として最後のお国入りになるかもしれないと考えて、世話になった支援者宅にお盆参りしたんじゃないか」 地元ではそんな受け止め方までなされている。※週刊ポスト2017年9月1日号
2017.08.21 16:00
週刊ポスト

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