筆者の経験も一例として話すと1990年代半ば、退去時に高齢の大家から直々に「敷金は返さない」と手書きのメモのような走り書きの明細を提示された。その明細には「壁紙の張替え20万円」「クリーニングの修繕15万円」など、ざっくりとした根拠不明の数字が並び、それなりのマンションで立地がよかったとはいえ敷金きっちりの額を請求された。当然もめたが先の消費者契約法どころか少額訴訟制度(1998年から)以前の話、まして2003年の民事訴訟法改正まで少額訴訟制度の対象は30万円以下であった(改正後は60万円以下)。もちろん国土交通省による『原状回復をめぐるトラブルとガイドライン』(1998年から)さえなかった。当時25歳、そこまでの裁判費用も知識もない筆者、「なんとか折れさせて」少額の返金を良しとあきらめるしかなかった。
この「敷金は返って来ないもの」「敷金は礼金みたいなもの」というのは戦後日本の賃貸において(地域にもよるが)、おおよその世間一般のコンセンサスだったように思う。当時、今は亡き戦前生まれの父親からも「敷金なんて返って来ないものだよ」と言われたことを覚えている。筆者も仕事柄、家にほとんどいなかったし煙草も吸わない。もちろんペットも飼わない、それでも敷金きっちり60万円の請求と「だいたい敷金は返ってこないもの」だった。ネットで検索していただければこんな昔話、いくらでもころがっている。というか松本人志のネタではないが、それほど珍しくもない話だろう。
そのような時代に比べれば、いまでは国や自治体もしっかりと借主のサポートと法的な保護を整備、徹底している。1998年に国土交通省による『原状回復をめぐるトラブルとガイドライン』が策定され、改正を繰り返しながら現在に至っている。少額訴訟制度も消費者契約法も作られた。またインターネットの普及も大きかったように思う。2000年前後からネット検索を柱とした不動産賃貸サイトが増え、それまでの入りにくい、駅前にぽつんと薄暗い店を構える小さな不動産屋に恐る恐る入り「ほんとか嘘かわからない」という物件探しに比べれば、誰の目にも相対化された。2000年前後のネット掲示板、口コミサイトを経て2010年代に全盛を迎えるSNSも借家人の「声なき声」を後押しした。良くも悪くも、いまは何でもネットで晒される。Googleマップなどの口コミも功罪あれど影響力は強い。
「いや、また敷金ボッタクリが増えているように思います。返さないとこはとことん返しません。私の経験だけじゃなく、ネットでもよく目にします」
彼は2020年からのコロナ禍も含めて賃貸不動産の「異変」を感じていると話す。実際にコロナと関係しているかは不明だが、彼の感覚では2020年ごろからではないかと。ネットでも多くの借主の声が増えている、と。