年寄株をめぐる問題
しかし、彼らは協会を去っていった。しかも、それぞれに違う理由で廃業していったことが興味深い。
最初に協会を去ったのは三代目若乃花だった。2000年3月場所で現役を引退し、「藤島」を襲名したが、同年12月に突然廃業してしまった。親方のひとりが言う。
「弟子育成に興味がなかったわけではなく、二子山親方(当時、元大関・貴ノ花)が部屋を譲る話もあったが、若貴兄弟の不仲が原因で実現しなかった。若乃花が部屋の師匠になって貴乃花が納得するとは思えなかった。二子山部屋の年寄株である『藤島』を継承したが、告白本やディナーショーが批判されるなど人間関係に嫌気がさしてアメフトに挑戦するということで廃業しました。ただ、その後はスポーツキャスターやタレントとして活動を始め、実業家としてちゃんこ店のチェーン化などにも手を伸ばしました」
一方、実弟である貴乃花は“平成の大横綱”と呼ばれ、優勝回数は22回。2003年の引退後は、功績著しい横綱として現役名のまま協会に残れる「一代年寄」を襲名した。
「貴乃花は一代年寄として協会に骨を埋めるつもりだったが、弟子の育成より協会の運営に興味を持ってしまった。大鵬、北の湖という大御所をバックに若くして理事になったが、2人が相次いで亡くなって後ろ盾を失ったことで、反貴乃花派の追い詰められるように失脚した。年功序列を守っていれば間違いなく理事長になっていたでしょう。
2001年1月に引退した曙は“プロレス入り”“ハワイ州知事転身”“スポーツキャスターへ”などと騒がれたが、引退時は協会に残りたいと希望していた。協会もその指導力を評価しており、相撲ブームへの貢献に加え、巡業などで若手に稽古をつけたことが評価されて千代の富士と同額の特別功労金1億円が支払われたほど。しかし、当時高騰していた年寄株が入手できなかった」(前出の親方)