ライフ

『三国』『新明解』の間にある昭和辞書史上最大の謎に迫る書

【書評】『辞書になった男 ケンボー先生と山田先生』佐々木健一/文芸春秋/1800円(本体価格)

【評者】鈴木洋史(ノンフィクションライター)

 本書は〈日本を代表する二冊の辞書の誕生と進化を巡る、二人の男の情熱と相克の物語〉である。

 2冊の辞書ひとつは『新明解国語辞典』、略して『新明解』。日本で最も売れている国語辞典で、1972年の初版以来、累計2000万部を誇り、主観的でときに詳細な説明のつく語釈で知られる。もうひとつは『三省堂国語辞典』、略して『三国』(ともに三省堂刊)。こちらは1960年の初版以来、累計1000万部。記述は客観的で簡明だが、現代的な隠語など新語を積極的に収録するのが特徴だ。

 2つはかくも対照的だが、そこには中心的な編纂者の個性が色濃く反映されている。『三国』のそれは辞書界で「天才」と呼ばれた見坊豪紀(けんぼうひでとし、1914~1992)、『新明解』の方は「鬼才」山田忠雄(1916~1996)。2人は東京帝国大学文学部国文科の同期生だが、初めは見坊が主幹、山田が助手という立場で『明解国語辞典』を編み(1943年初版)、さらに見坊は独自に『三国』を編んだ。

 だが、見坊が次第に言葉の用例採取に取り憑かれ、『明解国語辞典』の改訂が遅れた。ちなみに、見坊が生涯に独りで採取した用例は145万。これは世界に類を見ない膨大な数で、弟子だった辞書編纂者は〈もはや“神”〉〈辞書に魂を売った人〉と畏敬する。

 その間、山田は独自の思想と方法論を確立し、助手の立場から独立し、見坊に代わって『新明解』を編んだ。“事件”が起こったのはそのときだ。山田がその序文に名指しで見坊批判と取れる一文を書いたのだ。それがきっかけで2人の間に〈“絶縁”に至るほどの軋轢〉が生まれた辞書界では長年、そのように噂されてきた。

 元は1つの辞書『明解』だったものが、『三国』と『新明解』に分かれたことで、2人の間で何が起こったのか。著者はその〈昭和辞書史最大の謎〉と言われるものの解明を目指す。

 無味乾燥な言葉の集積だと思っていた辞書に、実は生臭い思いが込められていた。具体的な内容は本書に譲るが、しかも2人は対立したまま生涯を閉じたわけではないようで、晩年、互いに和解のメッセージを辞書の記述を通して送り合っていたフシがあるのだ。

 2つの国民的辞書にはそんな物語が秘められていたのである。そのことに新鮮な驚きと静かな感動を覚え、実は辞書というものが人間臭いものであることを知り、妙に嬉しくなる。

※SAPIO2014年4月号

関連キーワード

関連記事

トピックス

球種構成に明らかな変化が(時事通信フォト)
大谷翔平の前半戦の投球「直球が6割超」で見えた“最強の進化”、しかしメジャーでは“フォーシームが決め球”の選手はおらず、組み立てを試行錯誤している段階か
週刊ポスト
参議院選挙に向けてある動きが起こっている(時事通信フォト)
《“参政党ブーム”で割れる歌舞伎町》「俺は彼らに賭けますよ」(ホスト)vs.「トー横の希望と参政党は真逆の存在」(トー横キッズ)取材で見えた若者のリアルな政治意識とは
NEWSポストセブン
ベビーシッターに加えてチャイルドマインダーの資格も取得(横澤夏子公式インスタグラムより)
芸人・横澤夏子の「婚活」で学んだ“ママの人間関係構築術”「スーパー&パークを話のタネに」「LINE IDは減るもんじゃない」
NEWSポストセブン
LINEヤフー現役社員の木村絵里子さん
LINEヤフー現役社員がグラビア挑戦で美しいカラダを披露「上司や同僚も応援してくれています」
NEWSポストセブン
モンゴル滞在を終えて帰国された雅子さま(撮影/JMPA)
雅子さま、戦後80年の“かつてないほどの公務の連続”で体調は極限に近い状態か 夏の3度の静養に愛子さまが同行、スケジュールは美智子さまへの配慮も 
女性セブン
場所前には苦悩も明かしていた新横綱・大の里
新横綱・大の里、場所前に明かしていた苦悩と覚悟 苦手の名古屋場所は「唯一無二の横綱」への起点場所となるか
週刊ポスト
医療的ケア児の娘を殺害した母親の公判が行われた(左はイメージ/Getty、右は福岡地裁/時事通信)
24時間介護が必要な「医療的ケア児の娘」を殺害…無理心中を計った母親の“心の線”を切った「夫の何気ない言葉」【判決・執行猶予付き懲役3年】
NEWSポストセブン
近況について語った渡邊渚さん(撮影/西條彰仁)
渡邊渚さんが綴る自身の「健康状態」の変化 PTSD発症から2年が経ち「生きることを選択できるようになってきた」
NEWSポストセブン
昨年12月23日、福島県喜多方市の山間部にある民家にクマが出現した(写真はイメージです)
《またもクレーム殺到》「クマを殺すな」「クマがいる土地に人間が住んでるんだ!」ヒグマ駆除後に北海道の役場に電話相次ぐ…猟友会は「ヒグマの肉食化が進んでいる」と警鐘
NEWSポストセブン
レッドカーペットを彩った真美子さんのピアス(時事通信)
《価格は6万9300円》真美子さんがレッドカーペットで披露した“個性的なピアス”はLAデザイナーのハンドメイド品! セレクトショップ店員が驚きの声「どこで見つけてくれたのか…」【大谷翔平と手繋ぎ登壇】
NEWSポストセブン
竹内朋香さん(左)と山下市郎容疑者(左写真は飲食店紹介サイトより。現在は削除済み)
《浜松ガールズバー殺人》被害者・竹内朋香さん(27)の夫の慟哭「妻はとばっちりを受けただけ」「常連の客に自分の家族が殺されるなんて思うかよ」
週刊ポスト
真美子さん着用のピアスを製作したジュエリー工房の経営者が語った「驚きと喜び」
《真美子さん着用で話題》“個性的なピアス”を手がけたLAデザイナーの共同経営者が語った“驚きと興奮”「子どもの頃からドジャースファンで…」【大谷翔平と手繋ぎでレッドカーペット】
NEWSポストセブン