東京メトロ日比谷線の南千住駅から歩いて数分のところに、『カフェ・バッハ』はある。一見、どこにでもある喫茶店なのに、地図を手に全国各地から駆けつける人がいる。この店のコーヒーは、2000年の『沖縄サミット』で各国の首脳にふるまわれた。
「自分の店のコーヒーが選ばれるなどとは、まったく考えもしませんでした。担当のかたが国内のいくつもの店のコーヒーを飲んで、うちに決められたと聞きました」
店の経営者である田口護さん(75才)は、気負いもなくそう言う。
このサミットのとき、アメリカのクリントン大統領(当時)は、コーヒーアレルギーだからといって、自分用の紅茶と蜂蜜をわざわざアメリカから持参したそうだ。
「ところが、うちのコーヒーを召し上がってくださった。アレルギーというのは、おいしくないコーヒーを避けるための口実だったようです」(田口さん・以下「」内同)
田口さんはこのほど、滋賀医科大学講師の旦部幸博氏との共著『コーヒー おいしさの方程式』(NHK出版)を上梓した。
著者がここにカフェを開店したのは、1968年、昭和43年のこと。そもそもの動機は、学生時代にさかのぼる。
「好きなクラシック音楽を聴きたくて、当時、東京の街にたくさんあった名曲喫茶に、なけなしのお金を握りしめて通っていました。あるときよく通った喫茶店で、コーヒー代金として500円札を出したら、反対に1000円札を私に握らせ、“家から仕送りがあったら返してくれればいいよ”と。貧しい学生への店主の心づかいに、自分もいつかこんな人になりたい、と思いました」
そのころ田口さんは、社会活動の一環として、日雇い労働者の街だったこの地をよく訪れていた。
「おいしい飲み物や音楽と無縁のこの街の人たちにも、コーヒーやクラシックを味わってもらいたい、そんなことを思うようになったんです」
やがて出会った妻・文子さんと店を構えた。時代とともに地域は外国人向けの手ごろなホテルが軒をつらねる街に変わったが、『カフェ・バッハ』は、文子さんの担当するパンとケーキも評判を呼び、現在に至っている。
「おいしいまずいは個人の感覚ですから、飲んだ人が決めるしかありません。でも、正しいコーヒーか悪いコーヒーかははっきりしています。正しいコーヒーとは原料であるコーヒー生豆が適正な品質であり、焙煎、抽出が正しくなされているコーヒーです」
まず、コーヒーには次の3つのセオリーがあるという、
「高地産のコーヒーほど良質」「コーヒー豆は粒が揃って大きいほど良質」「欠点豆が少ないほど良質」。
さらに田口さんは、焙煎する度合を32段階に分け、コーヒー豆の性格により煎り分け、究極のコーヒーを目指す。
現在、コーヒーには香り成分が1000種類近くあり、その中で約30種類が大きな役割を担っているということがわかっている。
私たちが感じる、酸味、苦味、果実、キャラメル、スパイス風味などのコーヒーの魅力の多くは、とことん計算されつくされているのがわかる。
「最近は缶コーヒーもインスタントも研究が進んでいます。お気に入りを見つけて、自由にコーヒーのある時間を楽しんでください」
田口さんは薄めのコーヒーを、1日に1.5リットルは飲む。それが健康の秘訣でもあるという。
※女性セブン2014年5月29日号