ここ数年「真逆(まぎゃく)」という奇妙な言葉を見聞きするようになった。この背景には、とにかく漢字表記を廃せ、平仮名書きせよ、という国語平易化改革の文化圧力があると思われる。その結果、「真逆(まさか)」という漢字表記は廃絶されたものの「真逆(まぎゃく)」という奇妙な漢字語が出現した。平易化イデオロギーは、期待とは正反対の漢字表記の混乱という結果をもたらしたのだ。
先日、真逆(まさか)と思う例に出くわした。岩波文化を論じたある本が文庫化されたが、その解説文中に「文系学生と理系学生の特徴が日本と欧米とでは真逆様(まぎゃくよう)になっている」とあった。わざわざルビまでふってある。これじゃあ、せっかくの名著も無教養の奈落に真逆様(まっさかさま)である。この解説者は、教養の没落についての好著を何冊も著している。真逆(まさか)この学者の文章にこんな言葉が出てくるとは思わなかった。
言葉の乱れは、誰でも口をはさみたくなるテーマである。新聞の投書欄など、言葉の乱れを嘆く亜インテリたちの“御高見”で、いつもにぎわっている。「亜インテリ」とは政治思想家・丸山真男の造語だが、なかなか言い得て妙である。付言しておくと、丸山真男は「まるやま・まさお」と読む。「まるやま・まおとこ」ではない。
亜インテリの好む日本語の乱れ論は、おおむね、ラ抜き言葉や「ぞんざい語」批判のたぐいである。こういう乱れた言葉は、確かに美しくはない。しかし、一面では、乱れるには乱れる理由がある。簡単に言えば、誰でも格調高い言葉を使うよりラクな言葉を使いがちだ、ということである。これは人間の本性である。
服装を例に取れば分かりやすいだろう。三、四十年前までは、人前に出る時はネクタイ・背広が普通だったが、現在ではポロシャツ・綿パンも珍しくない。それでも、葬儀にアロハシャツ・ジーパンで行く人はいない。美意識というものは、時代の変化を受けつつも保守的なものである。美は伝統の中で形成されるからである。