「普通の家庭の団欒は、なかった。父親は全然家にいなかったから。父親がいたりすると家の中がギクシャクしたほどだった」
安倍は筆者のインタビューにそう振り返ったことがある。総理秘書官の父は連日のように深夜に帰宅し、休日も仕事。母の洋子は夫の選挙のために地元の下関に張り付き、東京の家には幼い安倍兄弟がポツンと残された。
「友人宅で一家団欒の光景を見たりすると、『ああ、いいな』と思ったりした」と“普通の家庭”への憧れを語った安倍の言葉が改めて思い出される。
両親に代わって、安倍兄弟が成人するまで世話をしたのが、晋三の乳母兼養育係だった久保ウメ。岸、安倍両家に40年仕え生涯独身を通したウメは、筆者の取材のなかで、こんな「安倍家の日常」を明かした。
「安保の頃は晋ちゃんがまだ5歳、ママは地元だし、パパは仕事だから昼間も私やお手伝いさんしかいない。子供には危険だからと安倍家は岸邸と別のところに住んでいて、晩ご飯だけは南平台(岸邸)で食べると決まっていた。私が左手で代筆した夏休みの日記は、必ず『今日も、おじいちゃんの所で夕食を食べました』が書き出しだった」
ウメによると、安倍は幼稚園に通っていた頃、おんぶをよくねだる子だったという。
「朝、お兄ちゃんの仕度ばかりやっていると、晋ちゃんが拗(す)ねちゃって。拗ねるとテコでも動かない。幼稚園のカバンをかけてやって、バス停までおんぶしていった。あんなにおんぶが好きだったのは、やっぱり両親が不在がちだったからでしょう」
甘えたい盛りの安倍にとって、岸邸での祖父母との夕食や、時には庭で遊んでくれた祖父とのふれあいは貴重な団欒だった。
であれば、安倍が「A級戦犯」「妖怪」呼ばわりされた岸を「おじいちゃんは絶対正しい」と信じ込んだとしても、「安保反対!」を叫ぶデモ隊が「祖父の敵」として幼心に刻まれたとしても、解せなくはない。安倍は当時の岸との会話をこう回想している。
「『アンポってなぁに?』と聞くと、『日本をアメリカに守ってもらうための条約だよ。なんでみんな反対するのかわからない』──そんなやりとりをしたことをかすかに覚えている」
※週刊ポスト2015年5月22日号