昭和29年12月、17歳で巨人と契約した馬場は、翌30年の春季キャンプからチームに合流。背番号は59。同期入団には森祇晶(当時は昌彦)、国松彰らがいた。
巨人には昭和30年から昭和34年まで5シーズン在籍したが、一軍での登板は昭和32年のシーズン中の3試合(先発は1試合)のみで、成績は0勝1敗。打者26人に対して7イニングスを投げ、被安打5、奪三振3、失点1、自責点1、防御率1.29という数字がNPBの公式記録に残っている。
馬場にとっての巨人時代のいい思い出は、昭和32年9月、甲子園球場での阪神タイガース戦で“牛若丸”吉田義男(のちの阪神監督)を三塁ゴロに打ち取ったワンシーンだという。2メートル9センチの長身の馬場と167センチ(資料によっては162センチ)の小柄な吉田の対戦は、いまだったら、もっと話題になっていたかもしれない。
馬場は昭和34年11月、巨人を戦力外となり、翌35年春、テスト生として大洋ホエールズの春季キャンプに参加したが、キャンプ地の兵庫県明石市の宿泊先の浴室で転倒し、割れたガラスの破片で右ヒジの内側じん帯を断裂。野球選手としての現役生活を断念した。
■斎藤文彦(さいとう ふみひこ)/1962年東京都生まれ。早稲田大学大学院スポーツ科学学術院スポーツ科学研究科修了。コラムニスト、プロレス・ライター。専修大学などで非常勤講師を務める。『みんなのプロレス』『ボーイズはボーイズ-とっておきのプロレスリング・コラム』など著作多数。
※週刊ポスト2015年5月29日号