ある者は釜山駅のベンチでうたた寝していたらいきなり施設に連れ込まれ、ある者は突然の雨を避けようと釜山駅前の地下道に入っただけで連行された。
兄弟福祉院には収容者の数に応じて国から助成金が出ていたからだ。同院には概ね年間20億ウォン(当時のレートで約7.5億円)が国庫から支払われた。警察官も、路上生活者を施設に入所させると高い勤務評定を与えられた。「金」と「評定」を目当てに、施設と警察は市民を片っ端から施設に入れたのである。
冒頭のハン氏は父子家庭に育ち、地元警察から「国家が支援する施設がある。そこに任せたほうがいい」と諭されて入所した。当時ハン氏は9歳。施設には同年齢の子供が100人ほどいたという。
施設は「福祉院」とは名ばかりの「生き地獄」だった。過酷な強制労働が課せられ、職員の暴力が蔓延した。パク・イングン院長個人の土地に建物を建てるため、重労働を強いられた人たちもいた。生き残った収容者の一人は韓国紙「ハンギョレ」にこう証言している。
「毎日のように何の理由もなしに殴られた。長時間、逆立ちさせられ、瞳孔の膜が剥けたが何の治療も受けられなかった」
食べ盛りの子供が多かったが、食べ物はほとんどなく、「くそ汁」と呼ばれた粗末な味噌汁が配給された。ハン氏は空腹に耐えかね、ネズミやムカデを食べて飢えを凌いだという。ハン氏は冒頭のラジオでこうも証言していた。
「管理者や職員たちが、子供を相手に性的暴行を働いていました。9歳くらいの少年少女は性的暴行の意味さえわからない。ただ、反抗したら殴られるので、黙って受け入れていた」
※SAPIO2015年11月号