昨今の政治家はどんな事象が生じても「極めて遺憾」という言葉で済ませようとする。なぜそれを乱用するかと言えば、新聞やニュース報道が、そのまま素直に「○○大臣、遺憾を表明」との見出しで報じてくれるからである。なぜ遺憾と思ったのかの詳細を問い詰めず、自分たちのメディアがどう考えているかも添えず、「極めて遺憾と述べた」で記事を締めくくってしまう。
芸能記事には時折、「真剣交際」という日本語が躍る。とっても不可思議な日本語である。
交際とはおおよそ真剣なものであるが、かといって、それを外部から真剣かどうかを規定することは極めて難しい。夜な夜な芸能人の自宅マンションの前に張り付いて「すみません、この交際は真剣ですか!?」と問うて、にこやかに「勿論!」と笑顔で答えてくれる人は少ないだろう。
政治家にしても芸能人にしても、「この言葉を投げておけば大丈夫」というスタンスで投じてくる言葉がある。
ジャーナリズムとは、こういう緩慢な態度を掴まえる取り組みであるはずだが、投げられたテンプレートを素直にはめ込むだけで終えてしまう。この出来合いのコミュニケーションが、奇妙な言葉遣いを慣例化させていく。
「仲のいい友人の一人」って、日常会話に取り込みようがない。「いやー、久しぶりに楽しかった。やっぱりおまえは仲のいい友人の一人だよなぁ」と投げたら、相手は困惑するだろう。その手の困惑する言葉が、メディアでは堂々と機能しているのだ。
※SAPIO2015年11月号