ずいぶん殺伐とした考え方ではないか。殺害予告をはじめとした、きついことばの暴力を受けたことのない人はそう思うだろう。被害経験があっても、警察アレルギーがある人は違和感を覚えるだろう。「話せば分かる」的な世界観はまだ根強い。それを地で行くのもひとつの美徳だ。しかし、物事には限度があるし、この国にはニヒリズムが足りない。
たとえば、だ。1932年、官邸に上がりこんできた青年将校らに対し、「話せば分かる」と応じた時の首相・犬養毅は「問答いらぬ。撃て」と言われて現に撃ち殺された。2003年に刊行され、400万部超のベストセラーとなった養老孟司『バカの壁』の帯には、書名よりもでっかい文字で、〈「話せばわかる」なんて大うそ!〉と書かれていた。
よく話し合い、互いの言い分をよく知ることで、誤解が解け、あるいは相手は自分を害する者でないと悟り、分かり合えることはある。ただそれは、二人は実のところそっくりさん同士、似た者同士で心が通じ合う仲なのでした、という偶然の出会いの産物であって、いったん敵対した違う者同士はそんなにうまく折り合わない。対立の激化は互いの損だという計算がはたらいて距離を取り合う停戦はありえても、マイナスの関係がプラスに転じる和解はめったにおきないものだ。昔からそうなのである。
なぜなら、『バカの壁』で養老孟司が言ったように、「人間というものは、結局自分の脳に入ることしか理解できない」生き物だからである。我々は、「理解できない相手を、人は互いにバカだと思う」思考回路からなかなか脱せないのだ。
リアルの世界で接点のある生身の人間同士だってそうなのである。ならば、ネット上で考えの違う者同士が「話せば分かる」はずがない。圧倒的に情報量の少ない「ことば」のみで一方が歩み寄ろうとしても、もう一方は「バカが近づいてきた」とさらに身構え、攻撃的になるのが普通であって、なんの実りも期待できない。
逆効果だから横を向こうと判断するほうが賢明で、多くはそうして自分と対立した者、もしくは対立しそうな者を遠ざけていく。自分と近しい者同士で群れ、群れの内部でまた自分と相手の違いを見つけ、対立して遠ざけ、そうやって群れの世界が小さくなり、究極的にはひとりぼっちになる。分かり合いたければ分かり合いたいほど、人は孤立していく。
でも、人は一人で生きていける生き物ではない。人は誰かに認められなければ自分の存在を確かめられない。自分がどこにいるか、何者なのか分からなくなると頭がおかしくなる。空想上の友人と共に生きている人もいるが、そうした脳内バランスの維持は簡単なことじゃない。ちょっとしたはずみで、我にかえればやはり誰かとのつながりが必要となり、拒む相手を追いかけるとストーカーに、不特定多数から認められたいなどと頭に浮かんだら、それこそ殺害予告をネットに流すなどの愚行をしかねない。
だから、話しても分かり合えない、という諦めの気持ちを各自が心のうちに標準装備しておいたほうがいい。しょせん人は一人である、でも、分かり合えるかのように思える友人や仲間や家族などはまわりにいて、その人たちのことは見知らぬ誰よりも大切にしている、というあたりがきっと落としどころなのだ。
あるべき社会などについても、この程度に冷めた頭を作ってからのほうが、考えが前に進むと思う。