こういう流れは、日本の(もしかしたら人類全体の)伝統芸なのでしょうか。戦後の反核運動にせよ、最近では反原発運動にせよ、同じ目的を持っている人同士のあいだで、すぐにケンカや罵倒合戦が始まります。たぶん、大きな目的を達成することよりも、目先の小さな優越感を満たすことのほうが大事だと思っている人が多いんですね。
まして今回の件は「争いはもうたくさんだ」という気持ちが、当然の大前提にある話です。平和の祈り方の違いで争うなんて、しかも「しょせんフェイスブックのプロフィール写真ごとき」で、自分と違うやり方をしている相手を攻撃したり、それを踏み絵にして「友達」を敵と味方に分けたりするのは、大人としてあまりに浅はかで狭量な反応と言えるでしょう。いや、こんなことを言うこと自体、ケンカしている人たちに無駄にケンカを売っている行為だと言われたら、まあそのとおりなんですけど。
ことほど左様に、素直にアツくなってしまうタイプも、したり顔でわかったふうなことを言うタイプも、人は「目の前の人との小さな差異をめぐるケンカ」の誘惑には、なかなかあらがえません。そこが気になり始めると、共通の目的や本当に戦うべき相手なんてあっという間に見失ってしまいます。
きっと、日頃の仕事でも人間関係でも、ついそういうことをしてしまっているはず。画期的なアイディアだと思っても提案者が嫌いだから反対するとか、そいつが活躍すれば会社としてはプラスなのに妬ましいから足を引っ張るとか、上司の顔色だけが判断基準のすべてになっているとか……。我々の業界で言うと、紙媒体とweb媒体や電子書籍をめぐる不毛ないがみ合いとか、本が売れない原因を図書館や古書店のせいにするとか……。
けっこう真面目な話として、いまのところ平和な日本に住んでいる我々としては、何が大事かを見失わないように全力で気を付けながら、大人としての自覚や矜持を持って真摯に穏やかに生きていくことが、世界中で起きている悲劇を悼むための具体的な第一歩なのではないでしょうか。なんて言うと、勇ましいことがカッコイイことと勘違いしている人たちから、大人が言うとは思えない罵声を浴びせかけられそうですけど。往々にして書いてあることをロクに読まずに、あるいは読解力のなさをあらわにしながら。