著者の文章には消えゆくものに対する哀惜が込められているが、といって、社会の浄化圧力を声高に非難するわけでもなく、江戸の遊廓文化を語る人のように“青線文化”を持ち上げるわけでもない。自分が見聞きした事実を、どちらかという淡々と記録していく。
福岡県小倉の元青線街を歩いたときの話が印象的だ。著者が会った街娼らしき女性は夜目にも老婆と言うに相応しい年齢に見え、若い頃は地元で人気のストリッパーだったと語ったが、それ以上の追及をかわすかのように闇の中に消えていった。著者は、彼女の姿が消えた青線街の〈忘れ形見〉のように思えたと書く。おそらく老婆の人生には、落語の廓話にあるような定型には収まり切れない物語があるのではないか……。そんなことを想像させられる。
まるで暗渠の蓋が剥がされて隠されていた水路が現れるかのように、本書の中で街は普段と違った貌を見せる。青線を歩く旅を〈幻影のなかを歩いていた〉ようだったと著者は書くが、読む者の前にも青線に生きた男と女の魂が甦り、漂うかのようだ。多数収録された写真も暗示的で、魅力的である。
※SAPIO2016年1月号