「学校ではクラスの同級生に報告していますね。15人のクラスのうち、半分くらいの6人が亡くなっちゃったんで。中学校に入ってからもみんなの友達の家に泊まったりしていたんですけれども、高校入る前も泊まったんですけれども、少しずつ少しずつ遠くなってきているなって。それぞれの道に進むからしょうがないんだろうけれど、小学校の頃のメンバーが一生のつきあいだろうなと思っていたけれど、あんまり最近連絡もないんで、話しかけるきっかけがつかめなくて…」
哲也さんは、今の複雑な胸の内を明かす。
哲也さんに初めて会ったのは、2012年のこと。当時、中学1年だった哲也さんは、いつも大きな体の父親にくっついて歩くカルガモ親子のようだった。それがいつしか、話す内容まで大人びてきた。
大川小の旧校舎のある釜谷地区は100軒余りの集落だったが、津波の被害が大きく、非可住区域に指定された。家々の土台が取り払われ、今やすっかり更地になった一帯は、この地を知らない人が見れば、人々の営みなど初めからなかった場所に思えるだろう。そんな風景の中にぽつんと残る旧校舎は、哲也さんにとって、こうした地域の現在の姿と「あの日以前」とをつなぐタイムカプセルのような存在なのだ。
今、石巻市では、そんな大川小の旧校舎を、「震災遺構」として保存すべきかどうかの議論が本格化している。
2月13日に市が主催した遺構に関する公聴会。大人たちや卒業生たちが旧校舎の保存や解体を求めるそれぞれの立場から意見を述べる中、哲也さんもビデオメッセージで揺れる思いと、それでも校舎を遺してもらいたいという気持ちを伝えた。
「まだ自分も完全に心の整理がついているかと言われれば、全然そうではないので、ちゃんとわかってほしい。解体してほしいと思っている人たちもある意味まだ、震災の被害を心に受けているので、全然その人たちのことを悪いと思わない。逆に何を言われようが、亡くなった同級生の親に陰で悪口言われようが、おれはもう未来の命を守れるならばどうってことないので、その人たちが遺してほしいというまで待ち続けます」
【集中連載第1回/全4回】
※女性セブン2016年3月24日号