具体的に言えば、親のコントロールの効かない娘の行動を巡って妻と娘が対立し、「娘を教育できていない」と周囲から非難された妻はアルコール依存症になるまで悩みを深め、しかし小倉はふたりの間で板挟みになって狼狽するばかりだった。
やがて娘は小倉家が受け入れがたい相手との交際を進めていく。その頃、クリスチャンだった小倉と妻はその交際をやめさせようと、2年もの間ほとんど毎日早朝の礼拝に通い、祈り続けた。だが、願いはかなわず、しかも妻は59歳の若さで急死する。それに直面した小倉は、それまで見せたことのないほど動揺した。そこから浮かび上がってくるのは、祈りに頼るしかないほどの深い葛藤を抱えた弱い人間の姿である。
著者の取材はさらに森の奥深くへと分け入り、ある衝撃的な事実を掴み、娘へと辿り着く。そこに至って初めて、通説の中に嗅ぎ取った謎がすべて氷解する。衝撃的な事実が何であるか、もちろんここで明かすわけにはいかないが、下種な暴露話にならず、衝撃はやがて静かな感動へと変わり、救いのある読後感になっていることだけは書いておきたい。
そうなった理由のひとつは誇張や虚飾のない文章が象徴する著者の誠実な取材姿勢にあり、もうひとつは、小倉の生前には小倉にとってアキレス腱だった娘が魂の救済と再生の道を歩み始めていることにある。著者が小倉についての取材を始めたとき、娘がそうした段階に入っていたことはたまたまの幸運であるに違いない。だが、成功したノンフィクションはしばしば幸運に恵まれる。近年出色の、祝福された作品である。(文中敬称略)
※SAPIO2016年4月号