もちろん、喫茶店にしても、ラーメン屋にしても、意図して「昭和な感じ」を売っている場合だってあるのだが、それは飽くまで今に生きる者が覚える郷愁の演出であって、昭和何年かにその店に実在した客の感覚ではない。平成28年現在に感じる昭和なんてものは、みんなフェイクだ。
細かいことにいちいち目くじらを立てているコラムだと読まれてしまうかもしれないが、過去進行形の昭和時代の店や人の営みはもっともっと多様で、「昭和」の二文字で括りようもないのである。昭和時代の東京だけでも実に様々な風景と人々の感性があったし、なんたって前の元号は昭和64年まで続いたのだ。日本放送協会(現NHK)が設立され、ようやくラジオの全国放送が始まろうとした1926年の年末から、THE WALLSがMr.Childrenに改名して後に大ブレイクする1989年年始まで続いた長い時代なのである。
そういう当たり前の歴史感覚のない今の若い人たちが「昭和」を連呼しているのなら、それはそれでまあ致し方ない。昭和の後半に少年青年期を過ごした私だって、生まれる前の昭和30年代については何も分かっちゃいなかったし、戦前の昭和については、明治、大正と大きく変わらないほど大昔の歴史にすぎなかった。人が自由にモノを言えない暗い過去、くらいの雑なイメージで片づけていた。
しかし、だ。私がこうして「昭和」に拘るのは、その言葉を発する者が若い人に限らないからでもある。「それって昭和ですね」とやたら乱発するのは、40代に多い印象がある。今の40歳は昭和51年生まれなので、リアル昭和に生きていた記憶がしっかり脳内に刻まれているはずなのだが、そうした過去の自分のもろもろを「昭和」で片づけて違和感がないのだろうか。
さらに首を傾げるのは、私と同年代の50代の中にも、平気で「昭和」を言う者が少なくないことだ。いやむしろ、同世代がこの「昭和ブーム」を牽引している気配すらある。
先述した、昭和30年代ブームは、私と同世代の者たちがセピア色の幼少期の記憶をくすぐられて、踊らされた懐古趣味だった。もはや右肩上がりの経済成長が期待できなくなった平成17年(2005年)頃、「貧乏でも昔は夢があった」という幻影に退行することで心の安定をはかるという、そういう側面があった。
そこから20余年が過ぎ、その退行の劣化版が、昨今の「昭和」呼ばわりではないかと感じている。50代の同年輩が「昭和だよね」と口にするときの気恥ずかしさ。私は恥ずかしいと感じるのだが、それは老いの始まった者がその事実を受け入れず、まだまだ自分は時代の先端に追いついていますよと悪あがきしているように見えるからである。
古びたモノやコトを、「昭和だよね」とレッテル貼りすることで、平成28年(2016年)の今にキャッチアップできていますよ、と暗に訴えるアンチエイジング意識。時代の先端に追いつくとか、今にキャッチアップとか、そういう感覚自体がそれこそ「昭和」っぽくて古臭いのだ。そこらがちっとも分かっていない。
誰しも多感だった自分の少年青年期の悲喜こもごもを、「昭和」の二文字に押しこんで平気な顔。なんともチャラくて薄っぺらい中年たちだ。その世代はかつて「新人類」と呼ばれてもいたが、地に足がついていない軽薄さの表現として、なかなか上手いレッテルだったと私は今でも思っている。