◆本質が置き去り
このような経緯から考えれば、「歩きスマホ」「虐待」とのクレームはいかにも的外れだ。
昼間は一生懸命働き、夜間は灯をつけて勉強していた金次郎。伯父に「油代がもったいない」と咎められると、「自分で油をとれば文句はないだろう」と思い立ち、友人に借りたわずかの菜種を荒れ地に植えて栽培し、それを灯し油にして志を貫いたのである。
村人が捨てた苗を拾い集め、荒れ地を耕した田に植えてコメ一俵(60kg)を収穫した逸話も残る。
つまり、金次郎は決して「働かされていた」のではなく、限られた環境で学んだ知識をもとに創意工夫し、自らの努力でコツコツと未来を切り開いていった。
単に薪を背負って歩きながら読書したから偉いのではなく、貧しくても努力すれば未来は開けるという「夢や希望」を象徴するのが戦前の金次郎像であり、極論すれば、立っていようが座っていようが構わないのである。
その本質を理解せず、像の形だけを見て自分勝手に解釈し、「歩きスマホを助長する」「児童虐待だ」などと目くじらを立てるのはピントが外れている。
3月に座像が建立された日光市今市地区は、幕府に日光神領再興を命じられた金次郎が事業の最中に没した終焉の地である。切り株に腰かけ、うつむきながら本を読む金次郎の表情が、どこか哀しげに見えるのは私だけだろうか。
【PROFILE】河野哲弥/こうの・てつや。1967年生まれ。立教大学卒。二宮金次郎像の制作史や系統樹の研究を行う傍ら、全国で見かけた珍しい像の紹介・解説なども手掛けるフリーランスのライター。「YM我報」主宰。
※SAPIO2016年12月号